第三章 妻が知りたかったこと
白い菊と、古いノートの切れ端。
真琴はそれを、緑水荘の部屋の机に並べて置いた。
菊は濡れたティッシュに茎を包み、湯呑みに差してある。花屋で買ったものではない。庭先から切った花だ。茎の長さが不揃いで、葉の一部が虫に食われている。
有坂澄江の家の玄関脇にあった鉢植えと同じ花。
そう思ったが、確かめたわけではない。
真琴は、何度も自分にそう言い聞かせた。思い込みは事実ではない。連想は証拠ではない。過去の経験から、彼女はそれを痛いほど知っている。
だが、ノートの切れ端は違った。
――ぼくの町では、ほんとうのことを言うと、言った人が悪いことになります。
鉛筆で書かれた一文は、子どもの字だった。角張ったひらがな。ところどころ筆圧が強く、消しゴムでこすった跡もある。紙は古く、端が茶色く変色していた。
有坂透の字だという確証はない。
それでも、胸の奥ではもう分かっていた。これは、あの少年の言葉だ。二十年前に死んだ十四歳が、この町について書き残した言葉だ。
真琴はスマートフォンで写真を撮った。次に、紙を透明なクリアファイルに挟み、鞄の内ポケットへしまう。記者時代の癖だった。原本は汚さない。折り目を増やさない。触った時間と場所をメモする。
午後一時十五分。葛淵川、事故現場とされる橋のたもと。白菊一輪と共に発見。発見時、周囲に人影なし。
そこまで書いて、手が止まった。
発見。
その言葉に、自分で違和感を覚えた。
まるで事件現場に臨場した記者のようだ。いや、実際そうなのかもしれない。自分は今、町おこしの記事を書くためではなく、死んだ少年の声を拾うために動いている。
真琴は、パソコンの画面を閉じた。
直後、スマートフォンが震えた。
八代要からだった。
――いま、お時間ありますか。少し話せますか。
真琴は短く返信した。
――宿にいます。
五分もしないうちに、旅館の玄関先で車の停まる音がした。
八代は、昨日と同じ紺色のジャンパー姿だった。ただし顔色は悪い。目の下に薄い隈があり、髪も少し乱れている。役場の人間として取り繕う余裕を失っているようだった。
「橋に行ったんですね」
部屋に通すなり、八代は言った。
「はい」
「有坂さんの家にも」
「はい」
「どうして待てなかったんですか」
責める声だった。
真琴は湯呑みを二つ用意しながら、少し意外に思った。八代がここまで感情を出すのは初めてだった。
「待てと言われる理由が、十分ではありませんでした」
「理由なら言いました。澄江さんは体が弱い」
「それだけでは、二十年間の沈黙を正当化できません」
「正当化なんてしていません」
「では、何をしているんですか」
八代は口を閉ざした。
部屋の外で、旅館の廊下を誰かが歩く音がした。古い木の床が小さく鳴る。二人はしばらく、その音を聞いていた。
「私は」
八代が言った。
「三枝さんに、町を壊してほしいわけではありません」
「では、なぜ私を呼んだんですか」
「壊さずに、終わらせられる人がいるかもしれないと思ったからです」
「それが私だと?」
「分かりません」
八代は苦しそうに答えた。
「でも、町の中の人間では無理です。みんな、誰かを守っているつもりで、自分を守っている。私も同じです」
「お兄さんのことですか」
真琴が言うと、八代の肩がわずかに強張った。
「兄の話は、今は」
「今でなければ、いつ話すんですか」
「三枝さん」
「有坂透さんの死に、大月慎吾さんとあなたのお兄さんが関わっている。少なくとも、あなたはそう疑っている。だから私を呼んだ。違いますか」
八代は畳の上に視線を落とした。
しばらくして、かすかに首を横に振った。
「違う、と言いたいです」
「言いたい?」
「でも、言えません」
真琴は湯呑みを八代の前に置いた。茶は薄い緑色で、湯気がゆっくり上がっている。八代はそれに手をつけなかった。
「兄は、八代誠一といいます。有坂透さんと同級生でした。大月慎吾さんとも」
「いじめに関わっていたんですか」
「分かりません」
真琴は黙って八代を見た。
八代は唇を噛んだ。
「本当に、分からないんです。兄は何度も違うことを言う。俺は何もしていないと言った翌日に、俺が殺したと言う。透は勝手に落ちたと言ったかと思えば、自分たちが追い詰めたと言う。どれが本当なのか、もう兄自身にも分からないのかもしれません」
「心を病んでいると聞きました」
「二十代のころからです。町を出て働いたこともありましたが、長続きしなかった。今は家にいます。日によって調子が違います」
「透さんの命日が近づくと?」
八代は驚いたように真琴を見た。
「店主から聞きました。大月さんは、命日の近くになると澄江さんの家の前まで来ていたと」
「兄も同じです」
八代は苦い顔をした。
「毎年、十一月になると不安定になります。今年は特にひどい。大月さんが騒ぎ始めたからかもしれません」
「命日はいつですか」
「十一月二十六日」
真琴は息を止めた。
「今日から、あと四日ですね」
「はい」
部屋の中に、冷たい沈黙が落ちた。
命日が近い。
大月慎吾は死んだ。
狐面の神さまは現れた。
有坂透のものらしきノートの切れ端が、橋のたもとに置かれた。
偶然というには、やはり出来すぎている。
「八代さん」
真琴はクリアファイルを取り出した。
「橋のたもとで、これを見つけました」
ノートの切れ端を見せると、八代の顔から血の気が引いた。
「どこで」
「石碑の前です。白い菊と一緒に」
「誰が置いたんですか」
「分かりません」
八代は紙面を見つめた。
――ぼくの町では、ほんとうのことを言うと、言った人が悪いことになります。
「見覚えは?」
真琴が尋ねると、八代は長い間黙っていた。
「兄の部屋に」
「はい」
「似た字の紙があった気がします」
「有坂透さんの字ですか」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
「私は、透さんの字を直接知りません。ただ、兄が昔から何かの紙を持っていました。何度か捨てようとして、捨てられなかった。そこに似たような字がありました」
「今もありますか」
「分かりません」
「確認してください」
「簡単に言わないでください」
八代の声が荒くなった。
「兄にとって、それはたぶん、まだ触れてはいけないものです」
「触れなければ、何も分かりません」
「分かればいいんですか」
八代は顔を上げた。
「分かったら、誰かが救われるんですか。大月さんは死にました。澄江さんは二十年も苦しんでいます。兄は壊れたままです。今さら本当のことが分かったところで、誰が元に戻るんですか」
真琴は答えなかった。
八代の言葉には、怒りだけでなく疲労があった。彼もまた二十年、この町の嘘の周囲を歩き続けてきたのだろう。兄を守り、町に勤め、澄江を気にかけ、大月の崩壊を見ていた。
本当のことを言えない人間は、嘘を吐いているだけではない。
言えないまま、削られてもいる。
「元には戻りません」
真琴は言った。
「でも、元に戻らないことと、終わらせなくていいことは別です」
「終わらせ方を間違えたら?」
「間違えるかもしれません」
「その時、誰が責任を取るんですか」
真琴は静かに息を吸った。
その問いは、彼女の最も深い場所を突いた。
責任。
河野裕樹が死んだ時、会社は責任を否定した。ネットで彼を叩いた人々は、個々の書き込みを小さな意見として扱った。新聞社は記事の公益性を強調した。真琴は退職したが、それは責任を取ったというより、現場から逃げただけだった。
誰も、彼の死を丸ごと引き受けなかった。
真琴も。
「分かりません」
真琴は答えた。
八代は目を細めた。
「分からない?」
「はい。分かりません。でも、分からないからと言って、最初から見なかったことにはできません」
「あなたは強いですね」
「違います」
真琴は首を振った。
「私は弱いから、確認しないと立っていられないんです」
八代はそれ以上、責めなかった。
やがて、茶に口をつけた。
「今日の午後、ひとり会ってほしい人がいます」
「誰ですか」
「篠原美奈さん。町内会の役員をしている方です」
「有坂透さんの件と関係が?」
「直接はありません」
「では、なぜ」
「三枝さんに会いたいそうです」
「私に?」
「はい。東京から来た、元記者の女性に相談したいことがあると」
嫌な予感がした。
「相談とは」
「ご主人のことだと思います」
八代は湯呑みを置いた。
「美奈さんは、夫が何かを隠していると思っています。この町では、夫婦のことも、家族のことも、誰もはっきり言いません。彼女は、それに耐えられなくなっている」
「なぜ私に」
「外の人だからでしょう」
「私は探偵ではありません」
「そう伝えました」
「それでも?」
「はい」
真琴は窓の外を見た。
町の上には、薄い雲がかかっていた。午後の光は弱く、山の影が早くも道に伸び始めている。
「断ってもいいんですね」
「もちろんです」
八代は言った。
だが、その声は断ってほしくないと言っていた。
「篠原さんの夫は、何を隠しているんですか」
「分かりません」
「あなたは知っているんじゃないですか」
「噂はあります」
「この町では、噂は命取りでは?」
「だから、誰も本人には言わない」
真琴は皮肉を言おうとして、やめた。
八代の顔を見れば分かる。彼もまた、この町の仕組みにうんざりしている。だが、うんざりしていることと、抜け出せることは違う。
「会います」
真琴は言った。
「ただし、条件があります」
「何でしょう」
「私は真実を暴くために動くわけではありません。篠原さんが何を望んでいるのか、まず聞きます」
「それで十分です」
「十分かどうかは、まだ分かりません」
八代は小さく頷いた。
篠原美奈は、午後三時に喫茶こもりびに現れた。
三十代後半。肩までの髪をきちんと巻き、薄いベージュのコートを着ている。化粧は丁寧だったが、目元だけがひどく疲れていた。笑顔を作るのに慣れている人の顔だった。
店主は彼女を見ても驚かなかった。奥の席に真琴を案内した時点で、すべて分かっているようだった。
「三枝さん、ですよね」
美奈は向かいに座るなり、そう言った。
「はい」
「急にすみません。八代さんから、無理を言ってお願いしました」
「お話を聞くことはできます。ただ、私は調査の専門家ではありません」
「元記者さんだと聞きました」
「以前は」
「なら、嘘を見抜くのが得意ですよね」
真琴はすぐには答えなかった。
美奈はその沈黙を、否定ではなく肯定と受け取ったらしい。ハンドバッグから白い封筒を取り出し、テーブルに置いた。
「夫が、浮気していると思うんです」
店内には、他に客はいなかった。
それでも美奈は声を潜めた。まるで壁にも耳があると信じているようだった。
「なぜ、そう思うんですか」
真琴は尋ねた。
「帰りが遅い日が増えました。休日に出かけることも。スマホを伏せて置くようになりました。私が近づくと、画面を消すんです」
「直接聞きましたか」
「聞きました」
「ご主人は何と?」
「仕事だと。役場の手伝いだとか、消防団の集まりだとか、町内会の書類だとか」
「ご主人のお仕事は」
「建設会社です。町の土木工事を請け負っている会社で働いています」
「町内の方ですね」
「はい」
「浮気相手に心当たりは?」
美奈の指が、封筒の角を強く押さえた。
「あります」
「どなたですか」
「言っても、大丈夫ですか」
その言葉に、真琴は背筋が冷えた。
言っても、大丈夫か。
この町で、その問いは単なる確認ではない。
「ここでは名前を出さない方がいいかもしれません」
真琴は言った。
「どうしてですか」
「まず、事実と推測を分けましょう。名前は後で構いません」
美奈は少し苛立った顔をした。
「みんな、そう言うんです」
「みんな?」
「今は言わない方がいい。確かめてからにしよう。誤解かもしれない。あなたが傷つくだけだ。知らない方が幸せなこともある」
美奈の声が震え始めた。
「この町の人は、優しい顔をして私を黙らせます」
真琴は美奈を見た。
有坂澄江と同じだ。
守るという名目で、真実から遠ざけられている。本人が本当に知りたいのか、知った後に耐えられるのか、それは分からない。だが少なくとも、周囲は彼女自身に選ばせていない。
「封筒の中身は?」
「写真です」
「見ても?」
美奈は頷いた。
真琴は封筒を開けた。
中には、数枚の写真が入っていた。スマートフォンで撮影したものをコンビニで印刷したのだろう。画質は粗い。
一枚目。薄暗い駐車場で、男と女が向かい合っている。男の顔は横向きだが、年齢は四十前後。女は後ろ姿。髪の長い女性で、黒いコートを着ている。
二枚目。男が女の肩に手を置いている。
三枚目。二人が車に乗り込むところ。
「ご主人ですか」
「はい」
「相手の女性は?」
美奈は唇を噛んだ。
「藤崎千佳さんです」
「どんな方ですか」
「私の友人です」
その言葉は、静かだった。
だが、静かすぎた。
「役場の方です。八代さんと同じ地域振興課で働いています。私とは子ども会で知り合いました。夫とも、町内会の行事で何度も会っています」
「写真はご自分で?」
「はい」
「尾行したんですか」
「そんな言い方をしないでください」
「すみません。事実確認です」
「夫の様子がおかしいから、見に行っただけです」
その違いは大きいようで、小さい。
真琴は写真を並べた。
「これだけで不倫と断定するのは難しいです」
美奈の顔がこわばった。
「肩に手を置いています」
「そうですね」
「一緒に車に乗っています」
「はい」
「それでも、断定できないんですか」
「できません」
美奈は笑った。
短く、乾いた笑いだった。
「やっぱり、あなたも同じなんですね」
「同じ?」
「町の人と同じです。みんな、私が見たものをなかったことにする」
「なかったことにはしていません。ただ、写真から言えることと、言えないことがあります」
「では、私が苦しいことは事実ですか」
美奈は真琴を見た。
「夫が何かを隠している。親友が私に目を合わせない。町の人が私を見る目が変わった。誰かが何かを知っているのに、私だけが知らない。それは事実ですか」
真琴は答えに詰まった。
写真は不倫を証明しない。
だが、美奈の孤独は証明を必要としないほど明らかだった。
「それは、事実です」
真琴は言った。
美奈の目に涙が浮かんだ。
「私は、知りたいだけなんです」
「何を」
「夫が誰を好きなのか。私をまだ妻だと思っているのか。千佳さんが私を笑っていたのか。町の人たちは、どこまで知っているのか」
真琴は、慎重に言った。
「知った後、どうしたいんですか」
美奈は黙った。
「責めたいのか、離婚したいのか、やり直したいのか、それともただ確認したいのか。それによって、聞き方は変わります」
「そんなの、知ってからじゃないと分かりません」
「知る前に、少なくとも準備は必要です」
「準備?」
「一人で聞かないこと。逃げ場のない場所で聞かないこと。その場で結論を出さないこと。相手を追い詰める言葉を使わないこと」
言いながら、真琴は自分が鳴瀬灯というまだ会ったことのない教師のようなことを言っているのに気づいた。プロット上で名前だけは八代から聞いている。町の中学校で、言葉を扱う授業をしている教師。だが真琴はまだ彼女と会っていない。
それでも、この町に来てから見たものが、真琴にそう言わせていた。
大月慎吾は、ひとりで言おうとして死んだ。
有坂澄江は、ひとりで知らされることを恐れられている。
真実は、内容だけで人を殺すのではない。伝わる形が、人を壊す。
「そんなの、きれいごとです」
美奈は言った。
「夫に裏切られているかもしれないのに、どうして私だけが冷静でいなきゃいけないんですか」
「冷静でいろと言っているのではありません。死なないためです」
言ってから、真琴は自分の言葉に驚いた。
美奈も、目を見開いた。
「死なないため?」
真琴は言葉を選び直そうとしたが、もう遅かった。
「この町では」
美奈は身を乗り出した。
「やっぱり、本当のことを言うと人が死ぬんですか」
店の奥で、カップの触れ合う音が止まった。
店主がこちらを見ている。
真琴は背中に汗を感じた。
「誰から聞いたんですか」
「みんな知っています」
「みんな?」
「子どものころから言われてきました。人の秘密を口にするな。噂を広げるな。本当のことでも、言い方を間違えれば人が死ぬ。昔はただの脅しだと思っていました。でも」
美奈は写真に目を落とした。
「大月さんが死んだでしょう」
「大月さんの死因は、急性心不全とされています」
「そういうことに、なっているんですよね」
真琴は黙った。
町の言葉が、美奈の口からも出てきた。
「だから、みんな私に言わないんです。夫のことも、千佳さんのことも。私が死ぬかもしれないから」
「そう思っているんですか」
「違うんですか」
「分かりません」
「分からないなら、私が自分で確かめるしかありません」
美奈は写真を封筒に戻し、立ち上がろうとした。
真琴は思わず手を伸ばした。
「待ってください」
「止めないでください」
「止めているのではありません。方法を考えましょう」
「方法なんていらない。夫に聞きます。千佳さんにも聞きます。二人を並べて、私の前で答えさせます」
「それは危険です」
「私が死ぬから?」
「あなたとは限りません」
美奈の動きが止まった。
「どういう意味ですか」
真琴は、狐面の神さまの言葉を思い出した。
死ぬのは、語った本人とは限らない。
聞いた者。噂された者。暴かれた者。その真実によって一番壊れる者。
「この町の言い伝えが本当なら、傷つくのはあなたとは限りません。ご主人かもしれない。相手の女性かもしれない。あなたの家族かもしれない」
「脅しているんですか」
「違います」
「みんなそうです。私が知ろうとすると、怖いことを言って黙らせる」
美奈は封筒を鞄にしまった。
「私はもう、嘘の中で暮らしたくないんです」
彼女はそのまま店を出ていった。
ベルの音が、妙に大きく響いた。
真琴は立ち上がりかけたが、店主が低い声で言った。
「追わない方がいい」
「でも」
「今追えば、彼女はもっと走ります」
真琴は立ち尽くした。
店主はカウンターの中で、静かにカップを拭いている。
「篠原さんは、前からああなんですか」
「以前は穏やかな方でした」
「この町では、みんな昔は穏やかだったんですね」
皮肉のつもりではなかったが、言葉は皮肉になった。
店主は怒らなかった。
「嘘は、長く飲み続けると体を悪くします」
真琴はその言葉を聞いて、狐面の神さまを思い出した。
嘘は薬だよ。
神さまはそう言った。
だが薬は、用量を誤れば毒になる。
喫茶店を出ると、美奈の姿はなかった。
真琴は八代に電話をかけた。
「篠原さんが夫を問い詰めに行くかもしれません」
八代は一瞬、沈黙した。
「何を話したんですか」
「写真を見せられました。夫と藤崎千佳さんという女性の」
「千佳さん……」
八代の声が沈んだ。
「知っているんですね」
「同僚です」
「不倫は事実ですか」
「ここでは」
「八代さん」
「すみません」
彼は電話の向こうで深く息を吐いた。
「噂はあります。でも、確証はありません」
「篠原さんは、今にも直接聞きに行きそうです」
「ご主人は、今日は現場仕事の後、町内会館に寄る予定です。千佳さんも、夕方そこに行くかもしれません。資料の受け渡しで」
「町内会館はどこですか」
「役場の裏です」
「行きます」
「私も向かいます」
電話を切ると、真琴は早足で歩き出した。
町は夕方に傾き始めていた。商店街の影が長く伸び、山から冷たい風が降りてくる。道ですれ違う人々は、真琴の早足を見て何かを察したように目を伏せた。
誰も声をかけない。
誰も止めない。
この町の人間は、危険を察知しても、言葉にしない。言葉にすれば責任が生まれるからだ。
役場の裏にある町内会館は、灰色の古い建物だった。玄関脇に掲示板があり、秋祭りの片づけ当番表と防災訓練の案内が貼られている。入口のガラス戸の向こうに、明かりが見えた。
真琴が近づくと、中から女性の声が聞こえた。
「答えてよ」
美奈の声だった。
真琴は戸を開けた。
会館の中には、三人がいた。
美奈。
作業着姿の男。おそらく夫の篠原徹。
そして、黒いコートを着た女性。藤崎千佳。
写真で見た後ろ姿の女性だった。
徹は四十歳前後、がっしりした体格で、日焼けした顔をしていた。だが今は血の気が引いている。千佳は三十代半ばくらい。整った顔立ちだが、目が泳いでいた。
「美奈さん」
真琴が声をかけると、美奈は振り返った。
「来ないでください」
「一人で聞かない方がいいと言いました」
「もう聞いています」
テーブルの上には、あの写真が散らばっていた。
「徹さん」
真琴は男に向き直った。
「ここで感情的に話すのは危険です。場所を変えるか、誰かに同席してもらって」
「誰だよ、あんた」
徹は苛立った声を出した。
「東京から来たライターです」
「関係ないだろ」
「関係ない人間だから、止めています」
「美奈が呼んだのか」
「違います」
美奈が言った。
「私が勝手に相談したの。あなたが何も言わないから」
「何もないって言っただろ」
「じゃあ、この写真は何」
「仕事だ」
「肩に手を置くのが仕事?」
「千佳が泣いてたから」
「何で泣いてたのよ」
千佳が小さく言った。
「やめて、美奈」
「やめない」
美奈の声が尖った。
「私はあなたを友達だと思ってた。町に来たばかりのころ、何も分からなかった私に親切にしてくれた。子ども会も、婦人会も、あなたが誘ってくれた。なのに」
「違うの」
「何が違うの」
真琴はテーブルの端に手を置いた。
「一度、座りましょう」
「座って何になるんですか」
「立ったままだと、言葉が刃物になります」
「もう刺されています」
美奈の目は涙で濡れていた。
「私だけが知らなかった。町の人は、きっとみんな知ってたんでしょう。私だけが馬鹿みたいに、夫の弁当を作って、千佳さんと笑って、町内会の手伝いをして」
「美奈」
徹が手を伸ばした。
美奈はそれを振り払った。
「触らないで」
その瞬間、会館の戸が開いた。
八代が駆け込んできた。
「やめましょう。今日はここまでに」
「八代さんも知ってたんですか」
美奈が言った。
八代の顔がこわばった。
「何を」
「夫と千佳さんのこと」
「私は」
「知ってたんですね」
「噂は聞いていました。でも」
「でも何? 私が死ぬから言わなかった?」
その言葉に、全員が黙った。
千佳が泣き出した。
「違うの、美奈。私たちは、そんな」
「私たち?」
美奈の声が低くなった。
「今、私たちって言った?」
千佳は口を押さえた。
徹が舌打ちした。
「もういいだろ」
その声に、真琴は危険を感じた。
徹の顔が変わっている。追い詰められた人間の顔だ。防御から攻撃へ切り替わる直前の顔。
「篠原さん、今は何も決めないでください」
真琴は言った。
「うるさい」
「ここで言った言葉は戻せません」
「戻す気なんかねえよ」
徹は美奈を見た。
「お前が知りたいって言うから言ってやるよ」
「やめてください」
真琴は鋭く言った。
八代も同時に動いた。
「徹さん、外へ」
「俺はずっと息が詰まってたんだよ」
徹の声が会館に響いた。
「お前は町の人間じゃないくせに、町の嫁みたいな顔をして、何でも正しくやろうとして。俺が少し遅くなれば疑って、誰と話しても睨んで。家に帰っても休まらなかった」
美奈は凍りついたように立っていた。
千佳が泣きながら首を振る。
「徹さん、やめて」
「お前が聞きたかったんだろ」
徹は美奈に向かって言った。
「俺は、お前なんか最初から愛してなかった」
音が消えた。
その場にいた誰もが、同時に呼吸を止めたようだった。
美奈の顔から、表情が抜け落ちた。
怒りも、悲しみも、驚きも消えた。人の顔は、限界を超えるとこんなにも平らになるのかと、真琴は思った。
次の瞬間、美奈の体が揺れた。
「美奈さん!」
真琴は駆け寄った。
美奈は胸元を押さえ、口を開いた。何かを言おうとしている。だが声が出ない。瞳だけが大きく見開かれている。
その視線は、徹ではなく、千佳に向いていた。
千佳が震えながら言った。
「違うの、美奈。あの人、本気じゃ」
美奈の膝が崩れた。
真琴は受け止めようとしたが、間に合わなかった。美奈の体は床に倒れ、後頭部が畳に鈍い音を立ててぶつかった。
「救急車!」
真琴は叫んだ。
八代がすぐに電話を取り出した。昨日とは違った。彼は迷わず動いた。だが、その顔には昨日と同じ恐怖があった。
徹は立ち尽くしていた。
「おい」
彼はかすれた声を出した。
「嘘だろ」
誰も答えない。
真琴は美奈の脈を探した。手首に指を当てる。分からない。首元に触れる。弱い。呼吸は浅い。
「美奈さん、聞こえますか。三枝です。今、救急車を呼んでいます。大丈夫です。ひとりじゃありません」
ひとりじゃありません。
その言葉を、真琴は自分に言い聞かせるように繰り返した。
千佳は泣き崩れていた。徹は壁にもたれ、両手で頭を抱えている。八代は電話口で住所を伝えている。
美奈の唇が、わずかに動いた。
真琴は耳を近づけた。
「……やっぱり」
かすかな声だった。
「やっぱり、みんな、知ってた……」
「違います。今は話さないでください」
「私だけ……」
「美奈さん」
「私だけ、知らなかった……」
それきり、美奈の目が閉じた。
真琴は呼吸を確認し続けた。
救急車が来るまでの時間は、昨日よりも長く感じられた。サイレンが近づいてくる間、会館の中の誰も動かなかった。いや、動けなかった。徹が何度か美奈に近づこうとしたが、そのたびに八代が止めた。
「今は、離れていてください」
「俺は」
「離れてください」
八代の声は強かった。
救急隊員が入ってきた。
処置が始まり、美奈は担架に乗せられた。真琴は邪魔にならないよう壁際に下がった。だが、美奈の手が一瞬だけ空を掴むように動いたのを見て、思わず近づいた。
その手を握ると、美奈の指が弱く握り返してきた。
「大丈夫です」
真琴は言った。
「今は、何も決めなくていい。何も答えなくていい。死なないことだけ考えてください」
美奈の目は開かなかった。
担架が運び出される。
会館に残されたのは、散らばった写真と、四人分の沈黙だった。
徹は床に座り込んだ。
「俺は、死ねなんて言ってない」
誰に向けた言葉か分からなかった。
千佳は泣きながら、何度も「ごめんなさい」と繰り返していた。
八代は、床に落ちた写真を拾おうとして、手を止めた。触れていいものか分からないというように。
真琴はその写真を見つめた。
そこには、肩に手を置く男と、泣いているらしい女が写っている。
写真は真実の一部だった。
だが、一部の真実は、時に嘘よりも人を追い詰める。
「三枝さん」
八代が言った。
「美奈さんは」
「分かりません」
「また」
「はい」
真琴は震える息を吐いた。
「また、私は間に合いませんでした」
その時、会館の入口に人影が立っていることに気づいた。
白い狐面。
黒い服。
夕方の薄明かりの中で、嘘つきの神さまは拍手をするでもなく、笑うでもなく、ただそこにいた。
徹も千佳も気づいていない。八代だけが、真琴の視線を追い、顔を強張らせた。
見えているのか。
真琴はそう思った。
神さまは、ゆっくりと首を傾けた。
「ね?」
声は、真琴にだけ届いたようだった。
「真実は難しいでしょう。あなたがどれだけ丁寧に運んでも、人間は最後に刃物を振り回す」
真琴は拳を握った。
「あなたが、やったんですか」
神さまは笑った。
「僕は何もしていない。あの夫は本当のことを言っただけだよ」
「あれは本当じゃない。怒りに任せた言葉です」
「でも、妻には真実として刺さった」
真琴は言い返せなかった。
徹が本当に美奈を一度も愛していなかったのかどうかは分からない。おそらく、彼自身にも分からないだろう。だが言われた側にとって、その言葉は事実よりも強い力を持った。
言葉は、発した者の意図だけでは決まらない。
受け取った者の中で、別の形に変わる。
「分かった?」
神さまは言った。
「この町が嘘を必要とした理由」
「必要だったとしても、正しかったとは限りません」
「正しさ、まだ好きなんだ」
「好きではありません」
「でも捨てられない」
神さまは、会館の床に散らばった写真を見た。
「妻は知りたかった。夫は隠したかった。友人は許されたかった。町は見なかったことにしたかった。君は、丁寧に扱えば真実を運べると思った」
その通りだった。
真琴は、美奈に一人で聞くなと言った。結論を急ぐなと言った。言葉を刃物にするなと言った。
それでも、止められなかった。
真実は運ぶ途中でこぼれた。こぼれた瞬間、誰かがそれを踏み、滑り、倒れた。
「大月慎吾は死んだ。篠原美奈も、たぶん助からない」
「まだ分かりません」
「そう。確認しないとね」
神さまの声には、かすかな皮肉があった。
真琴は睨みつけた。
「あなたは何を守っているんですか」
「みんな」
「違います。あなたは、みんなを守っているふりをして、誰にも本当の痛みを見せないようにしているだけです」
「痛みを見たら、死ぬ人もいる」
「痛みを見ないまま、死んでいく人もいます」
神さまは黙った。
その沈黙に、真琴は一歩踏み込んだ。
「篠原さんは、真実で倒れたんじゃない。ひとりだけ知らなかったことに倒れたんです。夫の言葉だけじゃない。周りの沈黙が、彼女を殺した」
狐面の奥の表情は見えない。
だが、神さまの気配がわずかに揺れた。
「賢いね、三枝真琴」
「褒めないでください」
「でも、まだ半分」
「何が」
「真実の中身だけじゃない。嘘の中身も見なきゃいけない」
神さまは後ろへ下がった。
「嘘はいつも悪者にされる。でも、嘘にも種類がある。守る嘘。逃げる嘘。支配する嘘。愛しているふりをする嘘。愛していなかったことにする嘘」
徹が床に座り込み、顔を覆っていた。
彼は今、自分の言葉に怯えているのかもしれない。美奈を愛していなかったのではなく、愛していなかったことにしたかっただけなのかもしれない。だが、それも今は分からない。
分からないまま、言葉だけが人を傷つけた。
「この町では」
神さまは言った。
「本当のことだけじゃない。嘘も人を殺す。だから面倒なんだ」
その言葉を残して、神さまは夕方の光の中に溶けるように消えた。
八代が震える声で言った。
「今のは」
「見えたんですか」
「一瞬だけ」
「いつから」
「昔から、時々」
真琴は八代を見た。
「なぜ言わなかったんですか」
「言えば、私もおかしくなったことになる」
「もう十分おかしいです。この町は」
八代は反論しなかった。
会館の外で、救急車のサイレンが遠ざかっていく。
美奈を乗せた車だ。
真琴は床に散らばった写真を一枚ずつ拾った。徹の手が伸びたが、真琴はそれを制した。
「今は触らない方がいい」
「俺の妻だ」
「だからです」
徹は真琴を睨んだ。
「俺が悪いのか」
真琴は答えなかった。
「千佳とそういう関係だったのは本当です。でも、最初から美奈を愛してなかったなんて、本気で言ったわけじゃない。腹が立って、つい」
「その言葉を、奥さんは本気で聞きました」
「そんなの」
徹は顔を歪めた。
「取り消せるだろ。言いすぎたって謝れば」
「戻せない言葉があります」
真琴は言った。
自分に向けた言葉でもあった。
「でも、これからできることはあります」
「何を」
「まず、病院に行ってください。ただし、奥さんの前で言い訳をしない。千佳さんも、今日は近づかない。八代さん、病院に連絡して、面会できる状態か確認を」
八代は頷いた。
「分かりました」
「徹さん」
真琴は彼を見た。
「あなたは、自分が何をしたかを今すぐ全部理解しようとしないでください。たぶん無理です。でも、奥さんが倒れたことを、呪いのせいだけにしないでください」
徹は何も言わなかった。
「千佳さん」
千佳は泣き腫らした顔を上げた。
「あなたもです。自分だけが悪いとも、自分は悪くないとも、今は決めないでください。美奈さんが生きるために、これ以上言葉を増やさないで」
千佳は小さく頷いた。
真琴は写真を封筒に戻し、八代に渡した。
「これは一旦、あなたが預かってください。誰にも見せないで」
「はい」
会館を出ると、外はもう薄暗かった。
山の稜線が黒く沈み、町の窓に灯りがともり始めている。昨日も同じ時間帯に、大月慎吾が倒れた。真琴はそのことを思い出し、胸の奥が重くなった。
真実を言えば、人が死ぬ。
そんな単純な話ではない。
今日、美奈を倒したものは、夫の言葉だけではなかった。
夫の裏切り。
友人の沈黙。
町の噂。
周囲の気遣い。
知る権利を奪われ続けた孤独。
そして、真琴の中途半端な介入。
真実は一つの刃物ではなかった。
無数の小さな刃が、美奈の周囲に何年も落ちていて、彼女は今日、その上に倒れたのだ。
スマートフォンが震えた。
八代が病院に確認したのかと思ったが、違った。非通知だった。
真琴は迷ってから、応答した。
「三枝です」
しばらく無音が続いた。
そして、低い男の声が聞こえた。
「有坂透のことを調べるな」
真琴は立ち止まった。
「どなたですか」
「調べるな。次は、母親が死ぬ」
「あなたは誰ですか」
「事故は事故だ」
電話は切れた。
真琴はスマートフォンを握りしめたまま、暗くなり始めた町を見た。
通りの向こうに、人影があった。
男か女か分からない。すぐに路地へ消えた。
追うべきか迷った。
だが、その時またスマートフォンが震えた。今度は八代からだった。
「三枝さん」
彼の声は青ざめていた。
「美奈さんは?」
「一命は取り留めました。ただ、意識は戻っていません」
真琴は目を閉じた。
死んではいない。
だが、助かったとも言えない。
「分かりました」
「それと、もうひとつ」
八代の声がさらに低くなった。
「兄が、家からいなくなりました」
真琴は目を開けた。
「いつから」
「分かりません。母が夕方、部屋を見に行った時にはもう」
「行き先に心当たりは」
「あります」
八代は短く息を吐いた。
「有坂透さんが落ちた橋です」
真琴は、ついさっきまでいた会館を振り返った。
町は夜に沈もうとしていた。
大月慎吾が死に、篠原美奈が倒れ、八代の兄が消えた。
真実の周囲で、人が次々と壊れていく。
それでも、真琴はもう、この町から逃げるという選択肢を思い浮かべなかった。
逃げたところで、言葉は残る。
書いた言葉も、書かなかった言葉も。
言えなかった言葉も、言わせなかった言葉も。
全部、どこかに残る。
そしていつか、白い狐面をかぶって戻ってくる。
「橋へ向かいます」
真琴は言った。
「私も行きます」
「急いでください」
電話を切る。
真琴は走り出した。
山から下りてくる風は冷たかった。だが、彼女の手の中には、まだ美奈の指の感触が残っていた。
弱く、必死に握り返してきた手。
ひとりにしないで、と言っているような手。
真琴はその感触を握りしめるように、暗い坂道を下った。




