第二章 事故という名前の嘘
翌朝、真噤町には霧が下りていた。
山から流れ込んできた白い気配が、家々の屋根を覆い、道路の先を曖昧にしている。緑水荘の二階から見下ろすと、町は輪郭を失っていた。郵便局も、役場へ続く道も、昨夜見た商店街の入口も、薄い布の向こうに隠されている。
真琴は窓辺に立ったまま、しばらく動けなかった。
眠れたのは、明け方近くだった。眠ったというより、意識を失ったと言った方が近い。夢の中でも、大月慎吾の声が聞こえていた。
あいつは事故で死んだんじゃない。
あの日、橋の上で――
その先は、何度聞いても途切れた。
真琴は机の上のノートパソコンを見た。昨夜打ち込んだ取材メモの画面が、まだ開いたままになっている。最後の一行。
――この町では、真実は誰を殺すのか。
朝になって読み返すと、馬鹿げた文章に見えた。だが、消す気にはならなかった。むしろ、夜中よりも冷静に、その問いが必要だと思えた。
大月慎吾は死んだ。
彼が口にしようとした言葉が死因だと考えるのは、あまりに非科学的だ。喉に何かを詰まらせたのかもしれない。急性の心疾患かもしれない。脳血管の異常かもしれない。あるいは酒と薬の組み合わせということもある。
確認すべきことは多い。
どこの病院に搬送されたのか。診断名は何か。既往歴は。最後に飲食したものは。店にいた人間の証言は。大月が言おうとした「あいつ」とは誰か。そして有坂透とは誰か。
真琴は顔を洗い、髪を結んだ。
鏡の中の自分は、ひどく疲れて見えた。目の下に影がある。記者時代、徹夜続きの朝に何度も見た顔だった。だが、あのころの自分には疲労の奥に熱があった。追うべきものがあるという熱。今の顔には、それがない。
代わりに、鈍い恐怖があった。
朝食は一階の食堂に用意されていた。
焼き鮭、卵焼き、海苔、味噌汁。旅館の朝食としては何の変哲もない。だが昨夜と同じように、味はほとんど分からなかった。
女将は茶を注ぎながら言った。
「よく眠れましたか」
「少しだけ」
「山の朝は冷えますから」
「ええ」
女将はそれ以上、何も聞かなかった。
大月慎吾のことも、狐面の人物のことも、昨夜の鐘のことも。
真琴は箸を置いた。
「女将さん」
「はい」
「大月慎吾さんをご存じですか」
女将の手が、急須の上で止まった。
ほんの一瞬だった。だが真琴には分かった。その名は、ここでも禁句に近い。
「町の方ですから」
「どんな方でしたか」
「そうですね」
女将は少し考えるふりをした。
「昔は、よく笑う方でした」
「昔は?」
「人は変わりますから」
「何があったんですか」
女将は急須を置いた。
「三枝さんは、町の記事を書きにいらしたんですよね」
「その予定でした」
「予定でした、ですか」
「昨日、人が死にました」
「ええ」
女将は静かに頷いた。
知っている。やはり、知っていた。
「驚かないんですね」
「驚いています」
「そうは見えません」
「この町の人間は、驚き方が下手なんです」
その言い方は、昨夜の店主に似ていた。感情を抑えているのではない。長い時間をかけて、感情の出し方そのものを忘れてしまった人間の声だった。
「大月さんは、何に苦しんでいたんですか」
「私は、詳しいことは」
「詳しくなくても構いません」
「三枝さん」
女将の声が少しだけ硬くなった。
「この町では、知らないままにしておくことで、誰かを守れることがあります」
真琴は食卓の上に置いた手を見つめた。
同じ言葉だ。
知らない方がいい。言わない方がいい。確かめる前に口にするな。
この町の人間は、まるで同じ台本を渡されているように、その言葉へ戻っていく。
「守っているのは、誰ですか」
真琴は尋ねた。
女将は答えなかった。
「大月さんですか。有坂透さんですか。それとも、有坂さんのお母さんですか」
女将の顔色が変わった。
今度ははっきりと分かった。
有坂透。
その名前は、ここでも生きている。
真琴は椅子から立ち上がった。
「八代さんと会う約束をしています。ごちそうさまでした」
「三枝さん」
女将が呼び止めた。
真琴は振り返った。
「悪い方では、なかったんです」
「誰がですか」
「大月さんです」
女将は、湯呑みの縁を見つめていた。
「悪い方ではなかった。ただ、昔のことを忘れられなかっただけです」
真琴は何も言わず、食堂を出た。
玄関を出ると、霧は少し薄くなっていた。
八代は、旅館の前で待っていた。昨日と同じ白い軽自動車ではなく、今朝は歩きだった。紺色のジャンパーの襟を立て、手には茶色の封筒を持っている。
「おはようございます」
「おはようございます。大月さんの件、説明していただけますか」
挨拶を返すより先に真琴が言うと、八代は予想していたように頷いた。
「歩きながらでいいですか」
「構いません」
二人は霧の中を歩き出した。
道は湿っていた。昨夜、雨は降っていないはずだが、山の霧が地面に水分を残しているらしい。側溝の水音が、細く続いている。
「大月慎吾さんは、昨夜七時四十二分、市立病院で死亡が確認されました」
八代は事務的に言った。
「死因は」
「急性心不全と聞いています」
「聞いています?」
「病院から役場に正式な連絡が来るわけではありません。ご遺族から聞いた範囲です」
「ご遺族は?」
「お母様がいます。高齢で、昨夜は近所の方が付き添いました」
「司法解剖は」
「ありません」
「なぜ」
八代は足を止めなかった。
「外傷もなく、事件性がないと判断されたからでしょう」
「倒れる直前に、二十年前の事故について何かを言おうとしていました」
「それだけで事件性とは言えません」
「あなたは本当にそう思っているんですか」
八代は沈黙した。
町の沈黙は、どれも同じ形をしているようで、少しずつ違う。八代のそれは、隠している沈黙ではなく、答えを出すことを恐れる沈黙だった。
「大月さんは、有坂透さんの同級生だったんですね」
真琴が言うと、八代の横顔がこわばった。
「誰から聞きましたか」
「狐面をつけた人物から」
八代が立ち止まった。
初めて、明確に動揺した顔を見せた。
「会ったんですか」
「昨夜、旅館の庭で」
「何を言われました」
「この町では、本当のことを言うと人が死ぬと」
八代は目を閉じた。
「やはり」
「やはり?」
「いえ」
「八代さん」
真琴は彼の前に回り込んだ。
「あなたは、私を何のためにこの町へ呼んだんですか」
「町おこしの記事のためです」
「本当に?」
「表向きは」
「では、裏向きは」
八代は答えなかった。
その沈黙に、真琴は苛立たなかった。むしろ、待った。ここで詰め寄っても、この男は口を閉ざすだけだ。彼の中には何かがある。それを取り出すには、急がない方がいい。
やがて八代は封筒を差し出した。
「大月さんについて、私が公的にお渡しできるものはありません。ただ、町の図書室に残っている古い新聞のコピーなら、見ることはできます」
「有坂透さんの記事ですか」
「はい」
封筒の中には、折り畳まれたコピー用紙が入っていた。古い新聞記事を複写したものだ。紙面は粗く、文字もところどころ潰れている。
見出しには、こうあった。
――中学生、川で死亡 真噤町、橋付近で転落か
真琴は歩道の端に寄り、紙面を読んだ。
有坂透、十四歳。真噤中学校二年。下校途中に行方が分からなくなり、翌朝、町外れを流れる葛淵川で発見。警察は、橋付近で足を滑らせ転落した可能性が高いと見ている。事件性は低い。
短い記事だった。
人の死を扱う記事は、こんなにも短くできる。
真琴はそれを知っている。紙幅がない。情報がない。警察発表に基づく。続報がなければ、それで終わる。名前と年齢と死因だけが残り、その人がどんな声で笑ったか、どんな字を書いたか、誰に何を言えなかったかは、紙面には載らない。
「これだけですか」
「新聞に載ったのは」
「事故として処理された」
「はい」
「大月さんは、それを否定しようとした」
「そう見えました」
「あなたは、事故ではなかったと思っているんですか」
八代は霧の向こうを見た。
「分かりません」
「分からない?」
「私は当時、小学生でした。兄は透さんと同じ学年でしたが、私自身は何も見ていません」
「お兄さんに聞けばいい」
その瞬間、八代の表情が消えた。
真琴は、自分が踏み込んではならない場所に足を置いたことを悟った。
「兄は、今は話せる状態ではありません」
「病気ですか」
「そういうことに、なっています」
まただ。
そういうことに、なっています。
真琴はその言葉を頭の中でメモした。この町では事実よりも先に、「そういうこと」が存在する。人々はその上に暮らしている。真実は地面の下に埋められ、表面には安全な言い換えだけが敷かれている。
「有坂透さんのお母さんは、ご健在ですか」
八代は真琴を見た。
「会うつもりですか」
「可能なら」
「おすすめしません」
「理由は」
「体が弱い方です」
「それも、そういうことになっているんですか」
八代は、今度は怒らなかった。
「事実です。心臓に持病があります」
「だから、二十年前の話を聞かせない?」
「三枝さん」
八代の声が低くなった。
「この町では、正しいことを急いで言わない方がいいです」
それは忠告だった。
脅しではない。だが、重さがあった。
「正しいことは、急がなければ腐る場合もあります」
真琴が言うと、八代は悲しそうに笑った。
「東京の記者らしいですね」
「元です」
「なぜ辞めたんですか」
不意に聞かれ、真琴は言葉を失った。
八代は続けなかった。質問はそこに置かれただけだった。答えを強要しない。その配慮が、かえって痛かった。
「図書室へ案内します」
八代は歩き出した。
町の図書室は、役場の隣にある公民館の一角にあった。蔵書は多くない。児童書、郷土史、料理本、古い文庫本。利用者は誰もいなかった。受付に座る年配の女性は、八代を見ると小さく会釈し、真琴には警戒と好奇心が混ざった視線を向けた。
「新聞縮刷版を見たいのですが」
八代が言うと、女性は一瞬だけ手を止めた。
「何年のですか」
「二十年前の十一月です」
女性は真琴を見た。
「町の取材ですか」
「はい」
真琴は答えた。
女性は奥の書庫から、古いファイルを持ってきた。地方紙の切り抜きが年代別に綴じられている。真琴は閲覧席に座り、ページをめくった。
有坂透の記事は、八代が見せたものと同じだった。
だが、紙面の隣に小さな別の記事があった。
――真噤町、観光振興計画を正式発表
葛淵川の渓谷、古社巡り、山村体験。町は当時、観光地化を目指していたらしい。有坂透の事故記事のすぐ横に、明るい未来を語る町長の写真が載っている。
真琴は眉をひそめた。
偶然ではある。地方紙の紙面配置に深い意味があるとは限らない。だが、少年の死と町の観光計画が同じ紙面に並んでいることに、何か冷たいものを感じた。
さらにページをめくる。
翌日の紙面に続報はない。
さらに翌日もない。
一週間後にもない。
十四歳の少年の死は、最初の記事だけで終わっていた。
「不自然ですね」
真琴は呟いた。
「何がですか」
八代が隣で言った。
「行方不明になって翌朝発見。橋付近で転落。事件性は低い。それだけで終わっている。学校のコメントも、遺族のコメントも、警察の続報もない」
「地方では、そういうこともあります」
「あります。でも、この町で二十年前に中学生が死んだなら、もう少し反応があってもいい」
「町の人間は、騒ぎを大きくしたくなかったのでしょう」
「誰のために?」
八代は答えなかった。
真琴は切り抜きをさらに調べた。
有坂透の死亡記事を書いた記者名は、記事の最後に小さく記されていた。
――河野雅彦。
真琴の指が止まった。
河野。
その姓に覚えがあった。
すぐに記憶がつながったわけではない。だが、どこかで見た。何度も書類で目にした名前だ。古い取材メモ。内部告発。地方企業の不正。あの男が送ってきた資料の家族欄。
真琴は鞄からスマートフォンを取り出し、検索しようとした。
圏外ではなかったが、電波は弱い。画面がなかなか切り替わらない。焦りを抑えながら、過去のクラウドメモを開く。退職後も消せなかった取材資料の断片。その中に、告発者のプロフィールをまとめたファイルがあった。
名前。
河野裕樹。
不正を告発した若い社員。記事が出た後、自死した男。
家族構成の欄。
父、母、妹。
叔父――河野雅彦。元地方紙記者。
真琴は画面を閉じた。
指先が冷たくなっていた。
「三枝さん?」
八代が声をかけた。
「この記事を書いた河野雅彦さんについて、何か知っていますか」
「詳しくは」
「現在は?」
「町にはいません。二十年ほど前、退職されたと聞いています」
「退職理由は」
「分かりません」
「この事故記事の後ですか」
「たぶん」
たぶん。
また曖昧な言葉だった。だが、八代の声には、先ほどまでと違うためらいがあった。知らないのではない。言うことを選んでいる。
真琴はファイルを閉じた。
「有坂透さんのお母さんに会わせてください」
八代は首を横に振った。
「今すぐは無理です」
「では、いつなら」
「私から確認します」
「確認している間に、また誰かが死ぬかもしれません」
自分で言ってから、真琴はその言葉の異様さに気づいた。
また誰かが死ぬ。
昨日の夜までは、そんなことを口にする人間を非科学的だと思っていたはずだ。だが、今はそれが脅し文句でも冗談でもなく、現実の予測として口から出た。
八代は目を伏せた。
「だからこそ、急がないでください」
「八代さんは、この町をどうしたいんですか」
真琴は静かに尋ねた。
「町おこしの記事を頼んだのは、あなたです。外から人間を呼んだ。なのに、調べるな、聞くな、急ぐなと言う。矛盾しています」
「分かっています」
「では、なぜ」
八代は閲覧席の上に置かれた古い新聞ファイルを見つめた。
「外の人なら、終わらせられるかもしれないと思いました」
「何を」
「この町の、そういうことにしておく癖を」
初めて、八代は本音に近いことを言った。
真琴は黙って待った。
「でも、昨日大月さんが死にました。三枝さんが来た日に。偶然だと考えることもできます。でも、この町で暮らしていると、偶然という言葉だけでは片づけられないことがあるんです」
「狐面の神さまですか」
「私は、神さまだとは思っていません」
「では何ですか」
「分かりません。ただ、町の人間は昔から、言守様と呼んでいます」
「言葉を慎む神」
「はい」
「その神が、嘘を吐く?」
「そういう話をする人もいます」
「あなたは信じているんですか」
八代は少し考えた。
「信じているというより、逆らうのに疲れた、という方が近いです」
その言葉は、妙に真琴の胸に残った。
信じるのではなく、逆らうのに疲れる。
迷信も、因習も、隠蔽も、たぶんそうして人を支配する。最初は誰も本気で信じていなかった。だが、否定するたびに何かが起きる。偶然かもしれない不幸が重なる。周囲が黙れと言う。やがて、人は信じることよりも、逆らわないことを選ぶ。
図書室を出るころには、霧はほとんど晴れていた。
町は朝の顔から、昼の顔へ変わりつつあった。役場へ出入りする職員、郵便配達員、畑へ向かう軽トラック。動きはある。だが、やはり声は少ない。
八代は役場へ戻る必要があると言った。
「有坂さんの件は、私から連絡を取ります」
「お願いします」
「三枝さんは、それまで宿に」
「行きません」
八代は困ったように眉を寄せた。
「では、どちらへ」
「昨日の喫茶店です」
「店主に話を聞くつもりですか」
「ええ」
「おすすめしません」
「あなたのおすすめを聞いていたら、何も分かりません」
八代は反論しなかった。
「三枝さん」
「はい」
「この町では、誰もが嘘を吐いています。でも、嘘を吐きたい人ばかりではありません」
真琴は八代を見た。
「なら、なぜ本当のことを言わないんですか」
「本当のことを言った後に、その人のそばにいてくれる人がいないからです」
八代はそれだけ言って、役場の方へ歩いていった。
真琴はしばらく、その背中を見ていた。
本当のことを言った後に、その人のそばにいてくれる人がいない。
それは、この町だけの話ではなかった。
告発者の河野裕樹は、真実を差し出した。真琴はそれを記事にした。会社は揺れ、世論は動いた。だがその後、彼のそばに誰がいたのか。
自分はいたか。
真琴はその問いを振り払うように歩き出した。
喫茶こもりびは、昨日と同じ場所にあった。当然のことなのに、少し意外だった。昨夜の出来事があまりに非現実的だったため、店そのものが消えていてもおかしくない気がしていた。
扉には「営業中」の札が掛かっている。
真琴は深く息を吸い、扉を開けた。
ベルが鳴った。
店内には、客がいなかった。カウンターの向こうで、店主がグラスを磨いている。昨日、大月が倒れた床はきれいに拭かれ、割れたカップの痕跡もない。
まるで何もなかったようだった。
「いらっしゃいませ」
店主はそう言ってから、真琴だと気づいたように目を伏せた。
「昨日は、すみませんでした」
「店主が謝ることではありません」
「いえ。お客さんを巻き込みました」
「大月さんは亡くなりました」
「聞いています」
やはり、町は早い。
真琴は昨日と同じ奥の席に座った。
「ブレンドを」
「はい」
店主はコーヒーを淹れた。豆を挽く音、湯を注ぐ音、カップを置く音。どれも丁寧だった。人が目の前で倒れた翌日の店にしては、あまりに日常的だった。
「大月さんは、よくここに?」
「時々」
「酔って?」
「近ごろは」
「昔は違ったと、宿の女将さんから聞きました」
店主は真琴を見た。
「あの人も余計なことを」
「余計なことですか」
「失礼しました」
店主はコーヒーを置いた。
「大月さんと有坂透さんは同級生だったんですね」
店主の手が止まった。
「八代さんから?」
「新聞を見ました」
「そうですか」
「有坂さんは事故で亡くなった。公式には」
「公式には」
店主は小さく繰り返した。
真琴はカップに手を伸ばさなかった。
「非公式には?」
「三枝さん」
「はい」
「あなたは、それを聞いてどうしますか」
「どうするかを決めるために聞きます」
「昨日も似たようなことを言っていましたね」
「ええ」
「そして大月さんは死んだ」
店主の声に責める響きはなかった。だが、真琴は責められているように感じた。
「私のせいだと?」
「そうは言っていません」
「でも、そう思っている」
「思わないようにしています」
その答えは、かえって正直だった。
真琴はようやくコーヒーを口にした。苦味が強い。昨日は味が分からなかったが、今日は妙にはっきり分かった。
「大月さんが死んだのは、私が来たせいですか」
「分かりません」
「この町の人は、分からないことが多いですね」
「分かっていると言えば、責任が生まれますから」
真琴はカップを置いた。
店主は窓の外を見た。
「大月さんは、ずっと言いたがっていました。あれは事故じゃない、と。でも、誰も聞かなかった。聞けなかった。聞けば、自分も何かを言わなければならなくなる」
「あなたも、何かを知っているんですね」
「少しだけ」
「話してください」
「話せません」
「なぜ」
「私は、あの子の母親を知っています」
有坂澄江。
真琴はその名前を、まだ本人の口から聞いていない。だが、すでに町の中心にいる人物だと分かっていた。誰もが彼女を守ると言いながら、彼女から何かを奪っている。
「澄江さんは、真実を知りたくないんですか」
店主はすぐに答えなかった。
「人は、知りたいと言いながら、知った後の自分を想像できないことがあります」
「それは、知る権利を奪っていい理由にはなりません」
「奪っているのではなく、支えているつもりでした」
「つもり?」
「ええ。つもりです」
店主の顔に疲れが滲んだ。
「つもりで人は、たいてい間違えます」
真琴は何も言えなかった。
その言葉は、彼自身に向けられているようでいて、真琴にも刺さった。
正義のつもり。
公益のつもり。
社会のためのつもり。
つもりで人は、たいてい間違える。
「有坂透さんは、どんな子でしたか」
真琴は聞いた。
店主は少し驚いたようだった。
事故のことではなく、死んだ少年自身について聞かれると思っていなかったのかもしれない。
「静かな子でした」
「静か」
「本をよく読んでいました。ここにも時々来て、隅の席で宿題をしていました。コーヒーは飲めないから、いつもココアで」
「友達は?」
「いましたよ。子どもですから。ただ……」
店主は言葉を選んだ。
「中心にいる子ではなかった」
「いじめられていた?」
店主は黙った。
それが答えだった。
「誰に」
「言えません」
「大月さんは関わっていたんですか」
「私は、見ていません」
「見ていないことと、知らないことは違います」
店主は真琴を見た。
その目には、昨日までなかった怒りが浮かんでいた。
「あなたは、そうやって人を追い詰めてきたんですか」
真琴は息を呑んだ。
店内が静まり返った。
「すみません」
店主はすぐに言った。
「言い過ぎました」
「いえ」
真琴はゆっくり首を振った。
「その通りです」
店主は何も言わなかった。
真琴は自分の膝の上で、手を握った。
「昔、私は記事を書きました。内容は正しかった。証拠もありました。出すべき記事だったと思います。今でも、そこは変わりません」
なぜ、初対面に近い店主にそんな話をしているのか、自分でも分からなかった。けれど、口が止まらなかった。
「でも、その記事で告発者が死にました。正しく書いたつもりでした。守ったつもりでした。匿名にしたつもりでした。でも、特定された。家族が責められた。彼は死んだ」
店主は黙って聞いていた。
「だから、あなたの言うことは間違っていません。私は、たぶん、そうやって人を追い詰めてきました」
言い終えると、胸の奥が少しだけ軽くなった。だが同時に、取り返しのつかないものを外に出してしまった感じもあった。
この町では、本当のことを言うと人が死ぬ。
狐面の声が頭をよぎった。
真琴は店内を見回した。
誰も倒れていない。
何も起きていない。
店主は静かに言った。
「それでも、あなたは聞くんですか」
「聞きます」
「なぜ」
「聞かずに帰ったら、私はこの町と同じになるからです」
店主は長い息を吐いた。
そして、カウンターの下から小さなメモ用紙を取り出した。店の住所を書くためのものらしく、喫茶こもりびのロゴが入っている。
「有坂澄江さんの家です」
店主は簡単な地図を書いた。
「八代さんには?」
「私から言います」
「怒られますよ」
「この年になると、役場の若い人に怒られてもあまり怖くありません」
店主は紙を真琴に差し出した。
「ただし、ひとつだけ約束してください」
「何でしょう」
「澄江さんに、いきなり真実をぶつけないでください」
「分かっています」
「いいえ。あなたは分かっていない」
店主の声は厳しかった。
「真実は、刃物より扱いが難しい。刃物なら、持っている人間に自覚があります。でも真実は、正しいという顔をしている。持っている人間が、自分は刃物を握っていると気づかない」
真琴は言い返せなかった。
「それを忘れないでください」
「はい」
真琴は地図を受け取った。
喫茶店を出ると、町は昼前の明るさになっていた。霧が晴れた分、山の緑が濃く見える。地図によれば、有坂澄江の家は町の外れ、葛淵川へ向かう道の途中にある。
歩いて二十分ほどだった。
川へ近づくにつれ、空気が湿ってくる。道は少しずつ下り坂になり、家の間隔が開いていった。途中、小さな橋が見えた。古い欄干。下には細い川が流れている。
真琴は立ち止まった。
あの日、橋の上で――
大月の声が甦る。
この橋なのか。
欄干には、ところどころ錆が浮いていた。高さはそれほどない。子どもがふざけて身を乗り出せば、落ちることもあるだろう。下の川は浅く見えるが、雨の後なら増水するかもしれない。事故として処理できないことはない。
だからこそ、事故にできたのかもしれない。
橋のたもとには、小さな石碑があった。交通安全と刻まれている。その横に、古い花立てが置かれていた。花はない。ただ、誰かが最近掃除したらしく、周囲の落ち葉だけが除かれていた。
真琴はスマートフォンで写真を撮った。
今度は、誰も止めなかった。
有坂澄江の家は、橋からさらに五分ほど歩いた先にあった。
平屋の古い家だった。庭には南天と椿が植えられている。手入れはされているが、どこか寂しい。玄関脇には、白い菊が一鉢置かれていた。
真琴は呼び鈴を押した。
しばらくして、ゆっくりと足音が近づいてきた。
引き戸が少し開き、小柄な老女が顔を出した。白髪を後ろでまとめ、薄紫色のカーディガンを着ている。顔色は悪くないが、頬は痩せていた。目だけが、妙に澄んでいる。
「どちらさまでしょう」
「突然すみません。三枝真琴と申します。東京から、町の記事を書くために来ています」
「まあ」
老女は柔らかく笑った。
「役場の方から聞いています。遠いところを」
同じ挨拶。
遠いところを。
何もない町ですが。
真琴は小さく頭を下げた。
「少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
「私で分かることなら」
老女は引き戸を開けた。
玄関には、古い子ども用の傘が立てかけられていた。黄色い傘。明らかに長い年月を経ている。骨の一部が曲がり、布は色褪せている。それでも捨てられずに、そこにあった。
真琴は目を逸らした。
通された居間は、清潔に整えられていた。仏壇があり、その横に写真立てがある。中学生くらいの少年が、学生服を着て笑っていた。
有坂透。
見た瞬間、そう分かった。
写真の少年は、穏やかな顔をしていた。店主の言った通り、中心に立つ子ではなさそうだった。笑顔も控えめだ。だが、目には知性があった。
「息子です」
澄江が言った。
「透といいます」
真琴は息を整えた。
「かわいらしい方ですね」
「ええ。優しい子でした」
澄江は写真を見つめた。
「本ばかり読んでいてね。外で遊びなさいと言っても、図書室に行ってしまうような子で」
「何の本を?」
「何でも。小説も、図鑑も、新聞も読んでいました。町のことをよく知りたがる子でした」
「町のことを」
「ええ。いつか、真噤町の歴史を調べたいと言っていました。子どもなのに、おかしいでしょう」
「おかしくありません」
真琴は言った。
澄江は少し嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
茶が出された。湯呑みを持つ澄江の手は、わずかに震えていた。年齢のせいか、体調のせいか、それとも真琴が来た理由に気づいているせいか。
真琴は慎重に言葉を選んだ。
「昨日、大月慎吾さんが亡くなりました」
澄江の表情が止まった。
「そうですか」
「ご存じでしたか」
「朝、近所の方から」
「大月さんは、透さんの同級生だったと聞きました」
澄江は湯呑みを置いた。
かすかな音がした。
「そうですね」
「交流はありましたか」
「子どものころは、みんな同じ学校でしたから」
「慎吾さんは、透さんのことを何か話しに来たことがありますか」
澄江はしばらく黙った。
その沈黙は、他の町民のものとは違った。言いたくないから黙っているのではない。言葉にすると、自分が崩れてしまうのを恐れている沈黙だった。
「何度か、家の前まで来ていました」
「大月さんが?」
「ええ。でも、玄関までは来ませんでした。庭の前で立っていて、私が気づくと帰っていくんです」
「いつごろからですか」
「透が亡くなってから、ずっと。毎年ではありません。でも、命日の近くになると」
命日。
真琴はその言葉を心に留めた。
「大月さんは、何かを言いたかったんでしょうか」
澄江は微笑んだ。
その微笑みが、真琴には痛々しかった。
「皆さん、優しいんです」
「優しい?」
「透のことを、悪く言わないでいてくれます。事故だったと、何度も言ってくれました。誰も悪くなかったと。私が苦しまないように、そう言ってくれました」
真琴は言葉を失った。
事故だったと、何度も言ってくれた。
それは慰めなのか。
それとも、言い聞かせなのか。
「有坂さんは」
真琴は慎重に言った。
「事故だったと思っていますか」
澄江は、ゆっくりと真琴を見た。
その目は、先ほどよりもずっと深かった。
「そう思わなければ、生きてこられませんでした」
答えになっていない。
だが、最も正直な答えだった。
「でも」
澄江は続けた。
「母親というものは、嫌ですね。どれだけ周りが優しい言葉をかけてくれても、子どもの顔を見れば分かるんです。あの子が最後の日の朝、何かを隠していたことくらい」
「隠していた?」
「学校へ行く前、透は私に言いました。今日は早く帰る、と。いつもなら、そんなことは言いません。私は、何かあったのかと聞きました。あの子は笑って、何もないと言いました」
何もない。
この町の最も危険な言葉なのかもしれない。
「その日の夕方、帰ってこなかった」
澄江の声は乱れなかった。二十年かけて、何度も心の中で繰り返した話なのだろう。涙よりも先に、言葉の形が固まっていた。
「皆さんが探してくれました。翌朝、川で見つかりました。橋から落ちたのだろうと。足を滑らせたのだろうと。雨の後で、川が増えていたからと」
「その説明に、納得しましたか」
「納得したふりをしました」
澄江は仏壇の方を見た。
「そうしないと、周りの方が困ると思いましたから」
真琴の胸が締めつけられた。
守られていたのは、誰だったのか。
澄江ではない。
澄江もまた、町を守るために嘘を受け入れていたのだ。
「三枝さん」
澄江が言った。
「あなたは、透のことを調べているんですか」
真琴は答えに迷った。
ここで「はい」と言えば、何かが動き出す。澄江を傷つけるかもしれない。彼女の心臓に本当に持病があるなら、危険かもしれない。町の人々が恐れるものが、迷信だけではない可能性もある。
だが、嘘を言うこともできなかった。
「調べ始めたところです」
真琴は答えた。
澄江は目を閉じた。
「そうですか」
「お嫌でしたら、ここでやめます」
「やめてほしいと言ったら、やめてくださいますか」
真琴はすぐに答えられなかった。
澄江は静かに笑った。
「正直な方ですね」
「いいえ」
「いいえ?」
「私は、正直な人間ではありません。正しいことを言うふりは、してきました」
澄江は、少し不思議そうに真琴を見た。
真琴は続けた。
「でも今は、あなたに嘘をつきたくありません。私は、透さんの死について調べます。ただし、あなたを傷つけるためではありません」
「傷つかない真実なんて、あるんでしょうか」
その問いは、静かだった。
真琴は答えられなかった。
澄江は仏壇の横の写真に目を向けた。
「皆さん、私が傷つかないようにしてくれました。二十年も。私は感謝しています。本当に、感謝しているんです」
「はい」
「でも、時々思うんです」
澄江の声が、ほんの少しだけ震えた。
「私は、透の母親だったのに、あの子の最後の日のことを何も知らないまま死ぬのかしら、と」
部屋の空気が重くなった。
真琴は何も言えなかった。
「三枝さん」
「はい」
「もし、透が事故ではなかったとして」
澄江はそこで一度、息を整えた。
「そのことを知ったら、私は死ぬんでしょうか」
真琴は、狐面の神さまの言葉を思い出した。
その真実によって一番壊れる人が死ぬ。
いま目の前にいる老女が、その人かもしれなかった。
「分かりません」
真琴は言った。
澄江は頷いた。
「そうですよね」
「ただ」
真琴は言葉を探した。
「知らないまま生きていることも、少しずつ死ぬことに似ているのかもしれません」
言った瞬間、自分の言葉が刃物に見えた。
だが澄江は倒れなかった。叫びもしなかった。ただ、長い時間をかけて瞬きをした。
「そうですね」
彼女は静かに言った。
「そうかもしれません」
真琴は立ち上がった。
「今日はこれ以上、聞きません」
「もう帰るんですか」
「はい」
「また来てくださいますか」
「ご迷惑でなければ」
「迷惑ではありません」
澄江は写真立てに目を向けた。
「透も、誰かに聞いてほしかったのかもしれません」
玄関まで見送られた時、真琴は黄色い傘をもう一度見た。
「これは、透さんの?」
「ええ。小学生のころのものです。捨てられなくて」
澄江は少し照れたように笑った。
「十四歳にもなれば、もう使わないのに」
「残しておきたいものは、年齢に関係ありません」
真琴が言うと、澄江は深く頷いた。
家を出ると、午後の光が眩しかった。
真琴は橋の方へ歩いた。
先ほどの石碑の前で立ち止まる。川は静かに流れていた。昨日、人が死んだ町とは思えないほど、穏やかな景色だった。
スマートフォンが震えた。
八代からだった。
――有坂さんの家に行きましたか。
真琴は短く返信した。
――行きました。無理な聞き方はしていません。
すぐに返事が来た。
――今どこですか。
――橋の近くです。
今度は、電話が鳴った。
真琴は応答した。
「三枝さん、すぐそこを離れてください」
八代の声は切迫していた。
「なぜですか」
「いいから、離れてください」
「理由を」
「その橋は」
八代の声が一瞬途切れた。
電波が悪いのかと思った。
だが違った。
背後で、誰かが笑った。
真琴は振り返った。
橋の欄干の上に、白い狐面の神さまが座っていた。
昼間だというのに、その姿だけが現実から少し浮いて見えた。黒い服の裾が風に揺れている。通りかかる車はない。周囲には誰もいない。
「そこは、透が落ちた橋だよ」
神さまは言った。
電話の向こうで、八代が何かを叫んでいる。
真琴はスマートフォンを握ったまま、神さまを見た。
「透さんは、本当に落ちたんですか」
「落ちたことは本当」
「では、事故ではなかった?」
「それを聞くと、誰かが死ぬかもしれない」
「便利な脅しですね」
「便利なら、二十年もこんな町に縛られていないよ」
神さまの声には、昨日よりも疲れがあった。
「有坂澄江さんに会いました」
「知っている」
「彼女は、真実を知りたがっています」
「そう思いたいだけだよ」
「あなたが決めることではありません」
「君が決めることでもない」
即座に返された。
真琴は言葉に詰まった。
「母親は、子どもの死を知る権利があります」
「知る権利。いい言葉だね。記者が好きそうだ」
「茶化さないでください」
「茶化していないよ。君たちはいつも権利と言う。知る権利。報じる権利。告発する権利。でも、知った後に生き延びる権利については、あまり考えない」
真琴は黙った。
その言葉は、また彼女の過去を正確に刺した。
「有坂透さんは、何を言えなかったんですか」
「母さんが死ぬと思った」
神さまはあっさりと言った。
真琴の胸が詰まった。
「誰にそう言われたんですか」
「みんな」
「みんな?」
「先生も、友達も、大人も、町も。お母さんは体が弱いから、本当のことを言ったら死んでしまう。だから黙っていなさい。そうすれば、みんな助かる」
「それで、透さんは黙った」
「いい子だったから」
神さまは川を見下ろした。
「いい子は、たいてい先に壊れる」
風が吹いた。
橋の下で水が光った。
「あなたは、透さんなんですか」
真琴は聞いた。
神さまは首を傾げた。
「そう見える?」
「分かりません」
「分からないなら、そのままにしておけばいい」
「それでは、何も終わりません」
「終わらない方が、生きられることもある」
「大月さんは死にました」
「大月慎吾は、終わらせようとした。ひとりで」
その言葉に、真琴ははっとした。
ひとりで。
八代の言葉が重なる。
本当のことを言った後に、その人のそばにいてくれる人がいない。
大月は、ひとりで言おうとした。酔った勢いで。喫茶店の真ん中で。誰も受け止める準備のない場所で。
だから死んだ。
そういうことなのか。
真琴は自分の考えに寒気を覚えた。いつの間にか、彼女はこの町の非科学的な理屈を、理屈として受け入れ始めている。
「では、ひとりでなければ?」
真琴は言った。
神さまの動きが止まった。
「受け止める人がいれば、真実を言っても死なないんですか」
神さまは答えなかった。
それが初めての沈黙だった。
真琴は一歩、橋に近づいた。
「この町の呪いは、真実そのものではない。真実をひとりで抱えさせることですか」
「危ないよ」
「何が」
「賢い人間は、早く死ぬ」
神さまは欄干からふわりと降りた。
足音はなかった。
「三枝真琴。君は知りたがりすぎる。昔もそうだったんでしょう」
「私の過去をどこまで知っているんですか」
「君がまだ、自分を許していないことくらい」
「許すつもりはありません」
「それなら、この町の人間と同じだ」
神さまは歩き出した。
真琴は追おうとしたが、体が動かなかった。橋の上に立つと、足元から冷気が上がってくるようだった。
「待ってください」
神さまは振り返らない。
「河野雅彦を知っていますか」
その名を出した瞬間、神さまの歩みが止まった。
やはり。
真琴は続けた。
「二十年前、有坂透さんの記事を書いた記者です。私が昔追っていた告発事件の関係者とつながっている。偶然ですか」
神さまはゆっくりと振り返った。
狐面の奥の目は見えない。
「偶然という言葉も、便利だね」
「河野雅彦は何を知っていたんですか」
「本当のこと」
「なぜ書かなかった」
「書けば、死ぬと思ったから」
「誰が」
「さあ」
神さまは軽く首を傾げた。
「でも、彼は書かずに逃げた。そして君は、別の町で彼の甥の真実を書いた」
真琴は息を止めた。
やはり知っている。
「河野裕樹のことを」
「名前を言うんだ」
「彼は、私の記事の告発者でした」
「そして死んだ」
「……はい」
「記事は正しかった?」
「正しかった」
「正しい真実で、人は死ぬんだね」
真琴は何も言えなかった。
神さまは笑った。
「この町へようこそ、三枝真琴。君は外の人間じゃない。とっくにこちら側だ」
次の瞬間、風が吹いた。
神さまの姿は霧の名残のように薄れ、橋の上から消えた。
電話はいつの間にか切れていた。
真琴はしばらくその場に立ち尽くした。
やがてスマートフォンがまた震えた。八代からの着信だった。だが、出る気になれなかった。
代わりに、彼女は鞄から古い新聞記事のコピーを取り出した。
中学生、川で死亡。
真噤町、橋付近で転落か。
記者名、河野雅彦。
その文字を見つめるうち、紙面の向こうから別の名前が浮かび上がってくる。
河野裕樹。
真琴が書いた記事の告発者。
正しい真実によって死んだ男。
そして今、二十年前に真実を書かなかった記者の名前が、その叔父として目の前にある。
偶然。
そう片づけるには、出来過ぎていた。
真琴は橋の欄干に手を置いた。
冷たい鉄の感触が、掌に染み込む。
この町の嘘は、二十年前で終わっていない。
自分の過去まで伸びている。
いや、違う。
自分の過去が、この町まで伸びていたのだ。
真琴はコピーを丁寧に折り畳み、鞄にしまった。
そして、橋の下を流れる川を見た。
水は何も語らない。
けれど、水が語らないからといって、そこに何も沈んでいないことにはならない。
有坂透は十四歳で死んだ。
大月慎吾は、その死について何かを言おうとして死んだ。
有坂澄江は、知らないまま二十年を生きてきた。
河野雅彦は、記事を書かなかった。
河野裕樹は、記事を書かれて死んだ。
そして三枝真琴は、まだ何を書くべきか分からずにいる。
遠くで、町の防災無線が鳴った。
昼を知らせるチャイムだった。柔らかいメロディが山に反響し、町全体へ広がっていく。何も知らない人間が聞けば、平和な昼の音に聞こえただろう。
だが真琴には、それが何かを覆い隠す音に聞こえた。
言葉を消すための音。
沈黙を守るための音。
その音の中で、真琴は小さく呟いた。
「確かめます」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
有坂透にか。
大月慎吾にか。
河野裕樹にか。
それとも、自分自身にか。
「確かめてから、決めます」
今度は、はっきりと言った。
口にした瞬間、背後で何かが落ちる音がした。
真琴は振り返った。
橋のたもとの石碑の前に、白い花が一輪置かれていた。
先ほど来た時には、なかったものだ。
花はまだ新しかった。茎の切り口から、水がにじんでいる。
誰が置いたのか。
周囲には誰もいない。
真琴は花に近づいた。白い菊だった。澄江の家の玄関脇にあった鉢植えと、同じ種類の花。
その横に、小さく折り畳まれた紙があった。
真琴は拾い上げた。
子どもの字だった。
いや、正確には、子どもが書いた古い字を、誰かが切り取って残したものだった。
紙は黄ばんでいる。ノートの切れ端のようだった。そこには、鉛筆でこう書かれていた。
――ぼくの町では、ほんとうのことを言うと、言った人が悪いことになります。
真琴はその一文を見つめた。
胸の奥が、静かに冷えていった。
有坂透の字だ。
証拠はない。
それでも、そう思った。
真琴は紙を鞄にしまわず、手の中に握ったまま立ち尽くした。もしこれが本当に透の言葉なら、二十年前からこの町の答えは出ていたことになる。
本当のことを言うと、言った人が悪いことになる。
その町で、十四歳の少年は死んだ。
そして大人たちは、事故という名前の嘘で、それを覆った。
真琴は、もう一度川を見た。
水面には、昼の光が揺れていた。
その光の下に、まだ誰も拾い上げていない言葉が沈んでいる気がした。




