第一章 口は災い
三枝真琴が真噤町に着いたのは、午後三時を少し過ぎたころだった。
列車の扉が開くと、車内にこもっていた暖房の匂いが、冷えた山気に押し戻された。十一月の終わりに近い。東京ではまだ薄手のコートで足りたが、この町では空気そのものが冬の支配下に入っているようだった。
ホームに降りたのは、真琴ひとりだった。
振り返ると、二両編成の列車は短い警笛を鳴らし、山の影へ吸い込まれるように去っていった。レールの軋む音が遠ざかるにつれ、駅は奇妙なほど静かになった。風があるのに、音がない。鳥の声も、車の走行音も、人の話し声も聞こえない。
真琴は肩にかけた黒い鞄の紐を握り直した。
真噤町。
駅名標には、そう書かれていた。白地に黒い文字。何の飾りもない。その横に、小さな観光案内板が立っている。温泉、古い神社、渓谷、山菜料理、手漉き和紙。どれも地方の町にありがちな言葉だった。
ただ、その下に掲げられた標語だけが、妙に目を引いた。
――口は災い。
その隣に、もうひとつ。
――噂は命取り。
そして三つ目。
――確かめる前に、口にするな。
真琴はしばらく、その三枚の木札を見つめた。
古びてはいるが、放置されているわけではない。文字は墨で丁寧に書き直されており、木札の表面には新しい油が塗られていた。町の美化標語というには硬すぎる。交通安全や火の用心なら分かる。だが、これは注意喚起というより、戒めに近かった。
彼女は鞄からスマートフォンを取り出し、写真を撮ろうとした。
画面を向けた瞬間、背後で声がした。
「撮らない方がいいですよ」
真琴は振り返った。
駅舎の陰に、男が立っていた。年齢は三十代の後半くらい。紺色のジャンパーの上に、役場職員らしい名札を下げている。細身で、目元に人当たりのよさそうな皺がある。だが笑顔の奥に、どこか落ち着かないものが見えた。
「三枝真琴さんですね」
「はい」
「真噤町役場、地域振興課の八代要です。遠いところをありがとうございます」
八代は深く頭を下げた。丁寧すぎるほどの礼だった。
「標語の写真、駄目でしたか」
「駄目というわけではありません。ただ、町の人間はあまり好みません」
「観光案内板に出しているのに?」
真琴が言うと、八代は困ったように笑った。
「そうですね。矛盾しています」
「記事に載せるかどうかは、まだ決めていません」
「ええ。もちろんです。ただ、できれば……」
八代はそこで言葉を切った。
続きが出てこない。
真琴はその沈黙を待った。記者時代からの癖だった。人は黙っていると、沈黙に耐えきれず自分から言葉を足す。沈黙は質問よりも雄弁なことがある。
だが、八代は何も言わなかった。
ただ、薄く笑っていた。
「できれば、何ですか」
真琴が促すと、八代は少し視線を外した。
「いえ。こちらで決めることではありませんから」
曖昧な答えだった。
真琴はスマートフォンを鞄に戻した。
「町おこしの記事、と伺っています。移住促進と観光を兼ねた紹介記事。違いましたか」
「はい。町の自然や暮らしを、外の方の視点で書いていただければと思っています」
「外の方の視点」
真琴はその言い方を繰り返した。
外の方。
東京で仕事をしていたころなら、何気なく聞き流したかもしれない。だが、今の真琴には、その一語がやけに引っかかった。外の者と内の者。知っていい者と、知らない方がいい者。そういう線が、この町には最初から引かれている気がした。
「宿までご案内します。車を駅前に停めていますので」
八代が歩き出した。真琴はその後に続いた。
駅前には小さなロータリーがあり、タクシー乗り場の表示もあったが、車は一台もなかった。土産物店らしい建物はシャッターが半分だけ下りている。向かいの商店の軒先には干し柿が吊るされていたが、店内に人影はない。
町全体が眠っているようだった。
それなのに、どこかで見られている感じがした。
真琴は周囲に視線を走らせた。駅舎の窓。商店の奥。民家の二階。どこにも人はいない。だが、人がいないこと自体が不自然だった。到着する列車は一日に数本しかない。外から人が来れば、誰かが目を向けてもよさそうなものだ。
「静かな町ですね」
真琴が言うと、八代は車の鍵を取り出しながら頷いた。
「ええ。暮らすにはいいところです」
「若い人は?」
「少ないです。高校を出ると、ほとんど町外に行きます」
「戻ってくる人は」
「たまに」
また曖昧な答えだった。
車は古い白の軽自動車だった。役場の名前が横に入っている。真琴が助手席に乗ると、八代はエンジンをかけた。
駅前を離れると、すぐに道は細くなった。両側に古い家が並び、どの家にも低い石垣がある。庭先の柿の木。錆びた自転車。手入れされた花壇。生活の気配はある。だが、声がない。夕方に近い時間なのに、子どもの声も聞こえなかった。
「八代さん」
「はい」
「この町では、あまり人が外で話さないんですか」
八代の手が、ハンドルの上でわずかに動いた。
「寒いですから」
「東京よりは寒いですね」
「山ですから」
「そうですね」
会話はそこで終わった。
真琴は窓の外へ目を向けた。道沿いに、小さな掲示板があった。町内会のお知らせ、防災訓練の案内、診療所の休診日。その隅にも、駅で見たものと似た標語が貼られていた。
――言葉は、戻せない。
真琴は息を止めた。
戻せない。
その言葉は、彼女の胸の奥にある古い傷に触れた。
かつて、自分もそう思ったことがある。記事が出た後だった。紙面にも、ウェブにも、配信先にも載った。一度世に出た言葉は、もう戻せなかった。訂正記事は出せる。謝罪文も書ける。だが、読んだ人間の中に入った言葉を取り消すことはできない。
あの男は死んだ。
記事は正しかった。真琴は今でも、それを否定できない。企業の不正は事実だった。隠蔽はあった。公益性もあった。報じる意味はあった。
ただ、告発者は死んだ。
身元を特定され、家族を責められ、ネットで名前を晒され、最後には自宅の浴室で首を吊った。真琴は葬儀に行かなかった。行けなかった。遺族から拒まれたわけではない。ただ、自分が行けば、何かが決定的に壊れると思った。
「三枝さん?」
八代の声で、真琴は現実に戻った。
「顔色が悪いようですが」
「大丈夫です。少し、車に酔っただけです」
「すみません。山道なので」
「いえ」
嘘だった。
車には酔っていない。
自分の記憶に酔っただけだ。
宿は町の中心部から少し外れた場所にあった。古い木造の旅館で、玄関脇に「緑水荘」と書かれた看板が掛かっている。温泉宿というより、長期滞在者向けの民宿に近い佇まいだった。
女将は五十代くらいの女性だった。灰色の割烹着を着て、柔らかく笑う。
「ようこそ。寒かったでしょう」
「お世話になります。三枝です」
「はい。伺っております」
女将は真琴の名前を聞いても、宿帳を見なかった。すでに知っているのだろう。小さな町では珍しくない。だが、その目は真琴の顔を見ているようで、どこか別のものを確かめているようでもあった。
「夕食は六時半です。お風呂はいつでも入れます。お部屋は二階の奥です」
「ありがとうございます」
鍵を受け取ると、八代が言った。
「少し休まれますか。それとも、町を見て回りますか」
「見て回ります」
真琴は即答した。
休めば、考えてしまう。考えれば、戻ってしまう。過去へ。あの記事へ。浴室で見つかった男の顔へ。
仕事をしている方が楽だった。
「では、一時間ほど町を案内します。その後、喫茶店で打ち合わせをしましょう。店主が町の昔話に詳しいので」
「昔話?」
「観光記事には、そういう要素も必要かと思いまして」
「助かります」
八代はまた、薄く笑った。
町の中心部は、駅前から見た印象よりは人がいた。郵便局、診療所、役場、農協、食料品店、古い酒屋。どれも小さく、静かだった。
道で出会う人は八代に会釈した。真琴にも視線を向ける。だが、誰も話しかけてこない。八代が「東京から取材に来てくださった三枝さんです」と紹介しても、返ってくる言葉は似ていた。
「そうですか」
「遠いところを」
「寒いでしょう」
「何もない町ですけど」
それ以上はない。
真琴は何度か質問をした。
「この町の名物は何ですか」
「まあ、いろいろです」
「昔から続いている行事は?」
「そうですね、昔はありました」
「今は?」
「どうでしょう」
誰もはっきり答えない。
それが礼儀なのか、警戒なのか、あるいは習性なのか、真琴には判断できなかった。ただ、町の人々が言葉を選んでいることだけは分かった。正確に選んでいるというより、踏んではならない場所を避けて歩いている感じだった。
やがて八代は、一本の路地に入った。
「ここが商店街です。昔はもう少し賑わっていたんですが」
昔は。
その言葉だけは、この町の人間も使うらしい。
アーケードの屋根はところどころ錆びていた。営業している店は半分ほどで、シャッターに貼られた古いポスターは色褪せている。中央に、小さな喫茶店があった。
喫茶こもりび。
木製の扉に、そう書かれている。
扉を開けると、ベルが鳴った。店内にはコーヒーの匂いが満ちていた。客は三人。カウンターに老人がひとり、窓際の席に中年の女性がふたり。いずれも声を潜めて話していたが、真琴たちが入った瞬間、会話が止まった。
店主は六十代くらいの男だった。白髪交じりの髪を後ろになでつけ、黒いベストを着ている。古い喫茶店の主人らしく、所作に無駄がない。
「八代さん」
「お世話になります。こちらが三枝さんです」
「東京から」
店主は真琴を見た。
「三枝です。よろしくお願いします」
「ようこそ。何もない町ですが」
それは今日、何度も聞いた言葉だった。
八代と真琴は奥のテーブルに座った。店主が水とおしぼりを運んでくる。八代はブレンド、真琴も同じものを頼んだ。
「この町の昔話に詳しいと伺いました」
真琴が言うと、店主は一瞬だけ八代を見た。
「昔話と言っても、大したものはありません」
「言守様、という神様がいると聞きました」
その名を出したのは、八代だった。
店内の空気が変わった。
大きな変化ではない。カウンターの老人がカップを置く音がわずかに遅れ、窓際の女性のひとりが唇を閉じた。ただそれだけだ。けれど真琴は、そのわずかな反応を見逃さなかった。
店主は静かに言った。
「古い神様です。言葉を慎め、というだけの」
「町の標語と関係が?」
「昔から、余計なことを言うなと教えられてきましたから」
「余計なこと」
「人の噂、悪口、根拠のない話。そういうものです」
「それは、どこの町でも同じですね」
「ええ。どこの町でも同じです」
店主はそう言って、厨房へ戻った。
同じではない。
真琴は心の中で思った。
この町の人間は、言葉を恐れている。噂を嫌っているのではない。悪口を慎んでいるのでもない。もっと根の深い何かがある。
八代はコーヒーカップを両手で包むように持っていた。
「三枝さんは、以前は新聞社にいらしたんですよね」
「ええ」
「調査報道を?」
「少しだけです」
「少しだけ、ですか」
「長くは続きませんでしたから」
八代はそれ以上聞かなかった。
その配慮が、逆に真琴を緊張させた。
普通なら、もう少し踏み込んでくる。なぜ辞めたのか。今はどんな仕事をしているのか。今回のような町おこしの記事をどう仕上げるつもりか。依頼主なら聞いて当然のことだ。
だが八代は、聞かない。
聞かないことに慣れている人間の沈黙だった。
その時、店の扉が乱暴に開いた。
冷たい風と一緒に、酒の匂いが入り込んできた。
男が立っていた。四十代半ばほど。作業着の上にジャンパーを羽織り、顔は赤い。無精髭が伸び、目だけが異様にぎらついている。
店内の客が、一斉に顔を伏せた。
店主がカウンターから出てきた。
「大月さん。今日はもう」
「うるせえ」
男は店主の言葉を遮った。
「コーヒー出せよ。客だろうが」
「酒を飲んでいる方には出せません」
「偉そうに」
大月と呼ばれた男は、ふらつきながら店の中央へ進んだ。八代が立ち上がりかける。だが店主は小さく首を振った。
真琴は男を見た。
酔っている。だが、ただの酔客ではない。怒りの焦点が定まっていないようでいて、その奥に、何年も同じ場所を見つめ続けた人間の暗さがあった。
「また東京の人間か」
大月の視線が真琴に向いた。
「町を褒めに来たのか。自然が豊かで、人が温かくて、昔ながらの暮らしが残ってるってか」
「大月さん」
八代が低い声で言った。
「やめましょう」
「お前も同じだ、八代。役場の人間はいつもそうだ。都合のいいことだけ外に出す」
「酔っています」
「酔ってるから何だ。酔ってる時の方が本当のことを言える」
その言葉に、店内の空気が凍った。
本当のこと。
たったそれだけの言葉に、全員が反応した。
真琴はカップから手を離した。薄い陶器が小さく鳴る。
大月は笑った。笑いながら、泣きそうな顔をしていた。
「なあ、東京の記者さん。あんた、真実を知りたいか」
「私は記者ではありません」
「元、だろ」
真琴は息を呑んだ。
八代がすぐに言った。
「大月さん、帰りましょう。送ります」
「うるせえ!」
大月は八代の手を振り払った。
「みんな黙ってる。二十年だぞ。二十年も、あいつは事故で死んだことにされてる」
店主の顔色が変わった。
「大月さん」
「言うなってか。まだ言うなってか。お前ら、いつまで同じことを続けるつもりだ」
「やめてください」
店主の声には、怒りではなく恐怖があった。
真琴は立ち上がった。
「大月さん、とおっしゃいましたね。座って話しましょう。今ここで大声を出す必要はありません」
自分でも驚くほど冷静な声だった。昔の声だ。取材対象者が興奮した時、何度も使ってきた声。低く、急がず、相手の逃げ場を塞がないようにする声。
大月は真琴を見た。
「話す? あんたが聞いてくれるのか」
「聞きます。ただし、順番に」
「順番?」
「名前と、話したいことを整理してから」
大月の口元が歪んだ。
「整理なんかしてたら、また誰かが止めに入る。そうやってずっと、何も言えなかった」
「止めません」
「嘘だ」
「嘘ではありません」
そう言った瞬間、真琴は自分の声にほんの少しだけ力が入ったことに気づいた。
嘘ではない。
だが、それは本当だろうか。
自分は聞くと言った。では、聞いた後はどうする。書くのか。広めるのか。誰かの人生をまた壊すのか。
その一瞬の迷いを、大月は見逃さなかった。
「ほらな。あんたも同じだ」
大月は笑った。
「みんな、知りたいふりをする。正義のふりをする。でも、本当のことが出てきたら怖くなる」
「大月さん」
八代の声が鋭くなった。
「それ以上は」
「それ以上は、何だよ」
大月は八代に顔を近づけた。
「死ぬか? 誰が? 俺か? お前か? それとも、あの婆さんか?」
店内の誰かが小さく息を吸った。
あの婆さん。
誰のことか、真琴には分からない。だが、店内の人々には分かったらしい。窓際の女性のひとりが両手で口を覆った。
大月は天井を見上げた。
「もういいだろ。あいつは事故で死んだんじゃない。あの日、橋の上で――」
言葉は、そこで途切れた。
最初、真琴は大月がむせたのだと思った。
大月は喉を押さえた。目を見開き、何かを吐き出そうとするように口を開ける。だが、声は出なかった。代わりに、ひゅう、という細い空気の音が漏れた。
八代が駆け寄った。
「大月さん!」
大月の体が傾いた。椅子にぶつかり、テーブルの角に腰を打ちつけ、それから床に倒れた。カップが落ち、黒いコーヒーが床に広がる。
真琴は反射的にしゃがんだ。
「救急車を!」
誰も動かなかった。
店主も、客も、八代でさえ一瞬、動かなかった。
「救急車!」
真琴が叫ぶと、ようやく店主が電話に向かった。
大月は床の上で痙攣していた。顔は赤から紫へ変わっていく。真琴は気道を確保しようとしたが、医療の知識などほとんどない。首元を緩め、体を横向きにすることくらいしかできなかった。
「何か詰まらせたんですか」
八代が震える声で言った。
「分かりません。持病は」
「たぶん……」
「たぶんじゃなくて、知っていることを言ってください」
真琴が言うと、八代は口を閉じた。
その反応に、真琴の中で苛立ちが膨らんだ。
この非常時にまで、彼らは断言を避ける。
救急車が来るまでの時間は、異様に長く感じられた。実際には十分ほどだったかもしれない。救急隊員が駆け込み、大月の状態を確認する。真琴は少し離れた場所に立った。床に広がったコーヒーが、血のように黒く見えた。
救急隊員の動きは迅速だった。だが、店内の空気は、すでに結果を知っているようだった。誰も祈らない。誰も取り乱さない。まるで予定されていた出来事が、予定通りに起きたのを確認しているだけだった。
やがて大月は担架に乗せられ、店から運び出された。
サイレンの音が遠ざかっていく。
真琴は店内に戻った。客たちはまだ席に座っていた。窓際の女性は青ざめていたが、泣いてはいない。カウンターの老人は冷めたコーヒーを見つめている。
店主が、床に膝をついて割れたカップを拾っていた。
「今のは、何ですか」
真琴は言った。
誰も答えない。
「大月さんは何を言おうとしたんですか。橋の上で、何があったんですか」
「三枝さん」
八代が言った。
「今日はもう、宿に戻りましょう」
「答えてください」
「戻りましょう」
「人が倒れたんですよ」
「分かっています」
「分かっている顔には見えません」
八代の表情が硬くなった。真琴は言いすぎたと思ったが、撤回する気にはなれなかった。
店主が割れたカップの破片を新聞紙に包みながら、静かに言った。
「言ってしまったんですね」
真琴は店主を見た。
「何をですか」
「大月さんは、言ってしまった」
「だから、何を」
店主は答えなかった。
真琴は一歩近づいた。
「この町では、人が倒れても理由を聞かないんですか」
店主は手を止めた。
そして、ようやく真琴を見上げた。
「理由を聞いて、どうするんです」
「どうするかを決めるために聞くんです」
「聞いた人が、持てるとは限りません」
「何を」
「聞いたことを」
店主の声は淡々としていた。怒りも怯えも消えている。諦めに近かった。
「この町では、知らない方が生きられることがあります」
「知らないことで死ぬ人もいます」
真琴は即座に返した。
店主は、かすかに目を細めた。
「都会の人は、そう言います」
「都会かどうかは関係ありません」
「ありますよ」
店主は立ち上がった。
「この町では、言葉には重さがあります。口にした人間だけでは支えきれない重さです。だから皆、余計なことは言わない」
「余計なこと、ですか」
「ええ」
「人の死に関わることでも?」
「だからこそです」
真琴は何も言えなかった。
反論はいくらでもあった。知る権利。説明責任。隠蔽の危険性。被害者の尊厳。記者時代なら、そうした言葉を並べて相手を問い詰めただろう。
だが今は、そのどれも口に出せなかった。
言葉が正しくても、人を救うとは限らない。
そのことを、彼女は知っていた。
宿へ戻る道中、八代はほとんど話さなかった。
夕方の町はさらに静かだった。家々の窓に灯りがともり始めている。どこかで夕食の匂いがした。焼き魚と味噌汁。普通の暮らしの匂いだ。だが、真琴にはそれがかえって不気味だった。
ついさっき、ひとりの男が目の前で倒れた。
それなのに町は何も変わらない。
緑水荘の前で車が停まった。
「救急搬送された病院はどこですか」
真琴が尋ねると、八代はハンドルを握ったまま答えた。
「町の診療所を経由して、市立病院へ運ばれると思います」
「思います?」
「確認します」
「お願いします」
八代は頷いた。
「三枝さん」
「はい」
「今日見たことは、まだ誰にも話さないでください」
「なぜですか」
「混乱します」
「もう十分混乱しています」
「三枝さんがではなく、町がです」
真琴は八代を見た。
「大月さんは、死ぬんですか」
八代は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
真琴は車を降りた。八代は窓を開けた。
「夕食まで、部屋で休んでいてください」
「休めると思いますか」
「思いません」
八代は初めて、曖昧ではない答えを返した。
「でも、この町では、すぐに動くと取り返しのつかないことになる場合があります」
「それも、言守様の教えですか」
八代は視線を落とした。
「ただの経験です」
車は去っていった。
真琴はしばらく玄関の前に立っていた。山から吹き下ろす風が、コートの襟元に入り込む。指先が冷たかった。
部屋に戻ると、畳の匂いがした。小さな机、座椅子、窓際の広縁。古い旅館のありふれた部屋だった。窓の外には、暗くなりかけた山の稜線が見える。
真琴は鞄からノートパソコンを取り出した。電源を入れ、白い文書ファイルを開く。
真噤町取材メモ。
そう打ち込んだところで、指が止まった。
何を書けばいい。
大月慎吾、喫茶こもりびで倒れる。発言内容、「あいつは事故で死んだんじゃない。あの日、橋の上で――」。店主発言、「言ってしまったんですね」。町民は驚かず。八代は沈黙。標語、口は災い。噂は命取り。
事実だけを書けばいい。
そう思った。
だが、事実だけを書いても、人は傷つく。事実の並べ方だけで、誰かを追い詰めることができる。見出しをつければ刃になる。匿名でも特定される。伏せたつもりの情報が、誰かの人生を燃やす火種になる。
真琴はキーボードから手を離した。
窓の外に、何かが見えた気がした。
白いものだった。
最初は、ビニール袋が風に引っかかっているのだと思った。だが違った。庭の隅、梅の木の下に、人影が立っている。
白い狐面。
黒い服。
少年のようにも、青年のようにも見える細い体。
真琴は息を止めた。
人影は、こちらを見上げていた。
逃げるべきだったのかもしれない。女将を呼ぶべきだったのかもしれない。警察に連絡するべきだったのかもしれない。
だが真琴は立ち上がり、窓を開けた。
冷気が部屋に流れ込む。
「誰ですか」
庭の人影は首を傾げた。
「誰に見える?」
声は若かった。だが、年齢が分からない声だった。子どもの無邪気さと、老人の疲れが同居している。
「質問に答えてください」
「元記者らしいね」
真琴の背中に冷たいものが走った。
「あなたは誰ですか」
「この町の神さま」
ふざけた答えだった。
だが、真琴は笑えなかった。
「神さまが旅館の庭に立つんですか」
「神さまにも勤務場所の自由はある」
「警察を呼びます」
「呼んでもいいよ。たぶん来ない。来ても、見えないかもしれない」
「脅しですか」
「説明」
人影は一歩、梅の木の影から出た。
狐面は白く、目の部分だけが細く切り抜かれている。その奥に本物の目があるのかどうか、暗くて分からない。
「君は今日、見たでしょう」
「何を」
「本当のことを言おうとした人間が、どうなるか」
真琴は窓枠を握った。
「大月さんに何をしたんですか」
「僕は何もしていない」
「では、誰が」
「真実」
人影は軽く言った。
「この町では、本当のことを言うと人が死ぬ。だからみんな、嘘を吐いて生きている」
真琴は人影を睨んだ。
「馬鹿げています」
「そう思う?」
「人が死ぬには理由があります。病気、事故、毒物、外傷、精神的ショック。何か原因がある」
「真実も原因になるよ」
「比喩なら聞き飽きています」
「比喩じゃない」
風が吹いた。
庭の木々がざわめく。狐面の白さだけが、暗がりの中で浮いていた。
「大月慎吾は、二十年前の真実を言おうとした。だから死んだ」
「死んだ?」
真琴は声を強めた。
「まだ確認されていません」
「確認しないと、死は死にならない?」
その言葉に、真琴は詰まった。
確認。
彼女の口癖だった。
確認してから書きます。
確認してから判断します。
確認してから話します。
その言葉で、自分を守ってきた。正確であることは、記者にとって最低限の倫理だった。だが時に、その言葉は責任を先送りするための道具にもなった。
「あなたは何を知っているんですか」
「たくさん」
「二十年前、何があったんですか」
「それを聞くと、誰かが死ぬかもしれない」
「大月さんのように?」
「大月慎吾だけとは限らない。言った人間が死ぬとは限らないんだ。聞いた人。噂された人。暴かれた人。その真実によって一番壊れる人が死ぬ」
真琴は、自分の指が震えていることに気づいた。
「そんな都合のいい呪いがあるわけない」
「都合は悪いよ。とても」
人影は少し笑ったようだった。
「だから僕がいる」
「何のために」
「嘘を吐くために」
真琴は言葉を失った。
人影は続けた。
「真実は刃だ。人間は、刃物をそのまま飲み込めない。だから僕は嘘を吐く。みんなを生かすために」
「嘘で?」
「嘘で」
「嘘は人を殺します」
「真実も殺す」
即答だった。
真琴の胸の奥で、古い記憶がまた動いた。
告発者の男が、取材中に言った言葉。
これが出れば、会社は変わりますよね。
真琴は答えた。
変えなければいけません。
その時、自分は信じていた。真実には力がある。正しい情報が出れば、社会は少しだけ正しい方向へ動く。誰かが傷ついても、それは必要な痛みだと考えていた。
必要な痛み。
それを決める権利が、自分にあると思っていた。
「あなたは」
狐面の人影が言った。
「知っているでしょう。真実が、人を殺すことを」
真琴は息ができなくなった。
「なぜ、それを」
「この町では、言葉に残った傷はよく匂う」
「私のことを調べたんですか」
「調べなくても分かる」
「ふざけないでください」
「ふざけていないよ、三枝真琴」
名前を呼ばれた瞬間、真琴は窓から離れた。
相手は知っている。自分の名前だけではない。過去を。傷を。言葉にしていない後悔を。
狐面の神さまは、庭から彼女を見上げていた。
「君はこの町に向いている」
「どういう意味ですか」
「真実を信じたい。でも、真実が怖い。正しさを捨てきれない。でも、正しさで誰かを殴った手の感触を覚えている。そういう人間は、この町ではよく迷う」
「私は町おこしの記事を書きに来ただけです」
「そういうことにしておこう」
神さまは、町の人々と同じ言い方をした。
真琴は怒りを覚えた。恐怖よりも先に、怒りが来た。
「大月さんは、何を言おうとしたんですか」
「橋の上の話」
「誰の」
「有坂透」
初めて聞く名前だった。
だが、その名が口にされた瞬間、庭の空気がわずかに沈んだように感じた。
「有坂透とは誰ですか」
「二十年前に死んだ少年」
「事故で?」
「そういうことになっている」
「本当は?」
真琴が問うと、神さまは黙った。
沈黙。
この町に来てから何度も出会った沈黙とは、少し違っていた。逃げるための沈黙ではない。何かを抱え込むための沈黙だった。
「知りたい?」
「知るために聞いています」
「知ったら、書く?」
真琴は答えられなかった。
神さまは小さく笑った。
「ほら。君も黙る」
「書くかどうかは、事実を確認してから決めます」
「確認。便利な言葉だね」
「必要な言葉です」
「そうだね。必要だ。でも、確認している間に死ぬ人もいる。確認したせいで死ぬ人もいる。確認されたくなかった真実で死ぬ人もいる」
「では、黙っていろと?」
「黙っていれば生きられることもある」
「それは、生きていると言えるんですか」
神さまは答えなかった。
その時、廊下の方から足音がした。
「三枝さん、お夕食のご用意が――」
女将の声だった。
真琴は振り返った。障子の向こうに人影がある。
もう一度庭を見る。
狐面の神さまは消えていた。
梅の木の下には、落ち葉が少し積もっているだけだった。
真琴は窓を閉めた。鍵をかける手が、自分でも分かるほど震えていた。
「三枝さん?」
障子の外で女将が呼んだ。
「はい。今行きます」
真琴は返事をした。
声は、思ったより普通だった。
夕食の膳には、川魚の塩焼きと山菜の煮物、茶碗蒸し、味噌汁が並んでいた。丁寧な料理だった。味も悪くない。だが、真琴はほとんど味を感じなかった。
食堂には他に客はいなかった。女将は時折、茶を注ぎに来たが、余計なことは聞かなかった。喫茶店で起きたことを知っているのかどうかも分からない。
食後、真琴は部屋に戻った。
スマートフォンには八代からメッセージが届いていた。
――大月慎吾さんは、市立病院に搬送後、死亡が確認されました。詳しいことは明日ご説明します。今夜は外出を控えてください。
真琴は画面を見つめた。
死亡が確認されました。
確認。
その二文字が、やけに重く見えた。
彼は死んだ。
「あいつは事故で死んだんじゃない」と言い、「あの日、橋の上で」と続けようとして、そのまま倒れた。
偶然か。
持病か。
毒か。
心理的ショックか。
あるいは、本当に。
真琴はノートパソコンを開いた。今度は迷わず打ち始めた。
真噤町取材メモ。
駅前標語。口は災い。噂は命取り。確かめる前に、口にするな。
町民は断言を避ける。
喫茶こもりび。大月慎吾。二十年前の事故。有坂透。
発言途中で倒れる。
店主発言――言ってしまったんですね。
狐面の人物。自称、嘘つきの神さま。
この町では、本当のことを言うと人が死ぬ。
真琴の指が止まった。
そんな文章を、まじめに記録する日が来るとは思わなかった。だが消さなかった。記者時代の癖ではない。消してしまえば、自分もこの町の人間と同じになる気がした。
知らない方がいい。
言わない方がいい。
そういうことにしておこう。
その積み重ねの果てに、何があるのか。
真琴はすでに見てしまった。
喫茶店の床に倒れた男。誰も驚かない客たち。割れたカップを拾う店主。ハンドルを握ったまま、「ただの経験です」と言った八代。
この町は、何かを隠している。
いや、隠しているというより、全員で支えている。崩れたら誰かが死ぬと信じて、二十年もの間、ひとつの嘘を担ぎ続けている。
真琴は新しい行を作り、ゆっくりと打った。
有坂透とは誰か。
その問いを書いた瞬間、部屋の照明が一度だけ瞬いた。
真琴は顔を上げた。
窓の外は真っ暗だった。自分の顔がガラスに映っている。疲れた三十四歳の女の顔。元記者。現フリーライター。真実を信じて、真実から逃げた人間。
ガラスに映る自分の肩越しに、白い狐面が見えた気がした。
振り返っても、誰もいなかった。
真琴は息を吐き、パソコンを閉じなかった。
逃げるなら、今だった。
明日の朝一番の列車に乗ればいい。八代には体調不良とでも言えば済む。町おこしの記事は断ればいい。違約金が発生しても、大した額ではない。命に比べれば安い。
だが、逃げても言葉は残る。
口は災い。
噂は命取り。
確かめる前に、口にするな。
真琴は、三つの標語を思い出した。
確かめる前に、口にするな。
それなら、確かめればいい。
口にするかどうかは、その後で決めればいい。
彼女は再びパソコンに向かった。
文書の最後に、もう一行加えた。
――この町では、真実は誰を殺すのか。
打ち終えた時、遠くで鐘の音がした。
一度。
二度。
三度。
町のどこかにある寺の鐘か、神社の合図か。時刻を知らせるには遅すぎる。弔いの音にも聞こえた。
真琴は窓の外を見た。
山に囲まれた小さな町は、灯りを落とし始めていた。家々の窓がひとつずつ暗くなる。まるで誰かが、町全体の口を塞いでいくようだった。
その夜、真琴はなかなか眠れなかった。
目を閉じるたびに、大月慎吾の声が甦る。
あいつは事故で死んだんじゃない。
あの日、橋の上で――
その先の言葉を、彼は言えなかった。
言えなかった言葉は、どこへ行くのだろう。
飲み込んだ人間の中で腐るのか。
町の底に沈むのか。
それとも、白い狐面をかぶって、夜の庭に立つのか。
答えは出なかった。
ただひとつだけ、分かっていることがあった。
真琴はもう、ただの町おこし記事を書くためにここへ来たのではない。
真噤町の夜は、静かすぎた。
静けさとは、音がないことではない。
誰もが同じ言葉を飲み込んでいる時に生まれる、圧力の名前なのだと、真琴はその夜、初めて知った。




