豪雨災害の後わり
線状降水帯が居座って七時間。
川は茶色い獣のように唸り、山のあちこちで土の崩れる音がする。
防災無線は、私の声だけを繰り返していた。
「こちらは役場です。ただちに避難してください」
里の者は全員、公民館へ誘導した。
二百十三人、名簿に印も付けた。
点呼の返事は不思議なほど揃っていて、あれだけ濡れていたのに、誰一人くしゃみもしなかった。
墨の印がやけに古びて見えたのは、雨のせいだろう。残るは山上の一軒だけだ。
ぬかるみを登り切ると、軒下に壺がずらりと並び、雨だれを受けていた。
壺の腹には、墨で名が書いてある。
「雨番のシゲじゃ。あんたも、数えに来たんかね」
腰の曲がった老婆は、着物の腹だけが妙に丸かった。それを赤子のように撫でながら笑う。
「雨はな、降っとるんじゃない。帰ってきとる」
昭和三十四年の水害で、この里は一夜で消えたという。
生き残ったのは、高台にいた幼い彼女だけ。
以来、大雨のたびに溺れた村人が雨となって戻り、生き残りを水底へ連れ戻そうとする。六十七年かけて一人、また一人。
今夜ついに、二百十三人が揃うのだという。だから壺で受け、名を呼び、腹で温めてやってから、山へ還すのだと。
「冷えとるでな、みんな。毎度、ご苦労なこっちゃ」
彼女は壺の水をひしゃくですくい、旨そうに啜った。唇が、いつまでも濡れている。
「あんたも飲むかね」
「結構です」
その腹の奥で、ごぼ、と何かが答えた。水音だろう。
私は苦笑した。妄想に付き合っている暇はない。
ただ、気になることはあった。これほどの豪雨なのに、私の肩は少しも濡れていない。登ってきた泥道に、足跡もない。
「避難してください。里の方は、全員公民館にお連れしました。二百十三人、点呼も済んでいます」
「ああ。数えとったよ。ようけ、連れてきてくれたねえ」
土間の隅に、一つだけ空の壺があった。札は白紙だ。
「二百十三の壺は埋まった。あと一つ。あんたの名を書かせておくれ」
「私は役場の者で、橋も渡って——」
「あの橋はな、昭和三十四年の夕方に落ちとる」
雷光が走った。照らされた私の足は、床板の木目を透かしていた。
思い出した。
あの夜、避難を伝えに走った若い役場の男は、橋の真ん中で足場を失った。
胸の名簿の墨は、そのとき私自身が書いたものだ。それから私は、豪雨のたびに目を覚まし、同じ名簿を携えて同じ坂を登ってきた。
六十七年、毎回、死者を「避難」させるために。
「ありがとなあ。これで、数が揃うた」
婆が筆を走らせる。
私の名が、壺の札に滲んだ。体がふやけていく。
水面に並ぶ二百十三の顔が、そろって私に会釈するのを見た。
私は頭上の雨だれの一滴になり、壺へ落ち、持ち上げられ、口へ傾けられた。
ごくり。
暗くて温かい。ゆるやかに揺れている。
二百十三の「はい」が、点呼に応えた。そして私は気づいた。ここには、六十七年分の雨が、一滴も欠けずに溜まっている。
誰も、山へなど還されていない。
外で、婆の声がした。
「還すもんかい。置いて逝ったのは、そっちじゃろ。もう誰も、わしを置いていかせん」
——翌朝、雨は止んだ。
捜索隊が見つけたのは、二百十四の空の壺と、老婆の遺体だった。
唇だけが、満足そうに濡れている。臨月のように膨れた腹に、救助隊員が耳を寄せた。
中から、若い男の声がした。
「こちらは役場です。ただちに、避難してください」
続けて、数えきれない声が、きれいに揃って答えた。
「はい」




