夜の声は歌う
私の住まいには、窓がない。
昼と夜の区別は、声だけが教えてくれる。
壁は生ぬるく、触れると脈を打つ。
四方から、遠雷のような、どくん、どくん、という音がする。
建物の鼓動だろう、と私は思っている。
へそには太い縄が繋がれ、毎日どこからか、重湯のようなものが流れてくる。
縄は時おり私の首にも巻きつく。
操っているのは、きっと隣の女だ。
私は毎晩それをほどく。そうしなければ、殺されるからだ。
住まいは年々せまくなり、いまでは寝返りも打てない。
膝を抱え、顎を胸にうずめて暮らしている。
問題は、その隣の女である。
薄い壁一枚へだてた隣室から、午前二時きっかりに、湿った声が聞こえてくる。
「ごめんね。ごめんね。もうすこしだからね。あなたが全部、持っていっていいからね」
子守唄まじりの、気味の悪い猫なで声だ。
昼間は昼間で、遠くから男と女の言い争う声がする。
「ひとりぶんしか、足りないんだ」
「いやよ、どちらも産むの」
私はそれを昼の声、隣の女を夜の声と呼んで、警戒した。
夜の声は、ときどき壁をなでる。
小さな指のような影が、私の足の裏にそっと触れてくる。品定めだ。
「お母さんね、名前をふたつ考えてたのよ。あなたのと、わたしの。わたしのは、使わなくていいからね」
意味不明の戯言である。
あの女は、私の食事を盗んでいる。
重湯が日ごとに薄くなるのが証拠だ。
壁越しに透ける女の影も、日ごとに小さく、溶けかけの氷菓子のように縮んでゆく。
盗んだ分を、どこかへ貯めこんでいるのだ。
私は毎晩、壁を蹴った。
そのたび女は、
「あ、いたた……元気ねえ」
と、うれしそうに笑った。
馬鹿にしている。許せない。
そして今夜。
壁が万力のように迫り、足もとから生ぬるい水があふれ出した。
遠くで昼の声が叫ぶ。
「今夜だ!」
殺される、と私は思った。ならば先に殺す。
渾身の力で、隣の壁を蹴り破った。
膜が裂け、小さな影が崩れた。
それは水のように私の口へ流れこみ、ぬるく、甘く、ひどく懐かしい味がした。
「……ああ、よかった」
夜の声が、耳の奥でほころぶように言った。
次の瞬間、私は狭い闇の出口へ押し出され、まばゆい光の中へ放り出された。
「おめでとうございます、男の子ですよ!」
私は産声をあげた。
はずだった。
ところが喉から出たのは、あの湿った女の声だった。
子守唄の節で、あの猫なで声で。
「ごめんね。ごめんね。もうすこしだからね」
分娩室が静まり返る。
母は泣きながら私の顔を見つめ、なぜか二人分の名前を呼んだ。
ようやく私は理解した。
盗んでいたのは、私のほうだったのだ。
それからどれくらい過ぎただろう。
午前二時になると、私の喉は今も勝手にあの唄を歌いだす。
「ごめんね。ごめんね。もうすこしだからね」
鏡の中の私の顔が、昨日より少しだけ、女に近づいた。




