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狂気の標本室  作者: ノアキ光


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8/8

異端読書


祖父の経営していた古書店は、畳まれることになった。


夏休み最後の日、中学生のぼくは、棚の埃を払っていた。

帳場の隅では、六つ下の妹・凛(りん)が国語の教科書を音読している。

漢字を指でなぞり、声に出さないと読めない子だ。


祖父は真夏でも白い手袋を外さなかった。

頭を撫でられるたび、布越しの掌が、ごわごわと紙のように乾いていたのを覚えている。

そんな祖父が亡くなった。

棺の中でさえ、手袋ははめたままだった。


店の最奥(さいおう)に、鎖で縛られた一冊の本がある。貼り紙は祖父の字だ。


〈素手で触れるな。最後まで読ませるな。〉


本に読まされるな、という意味だとぼくは受け取った。

受け取りながら、鎖を外していた。好奇心は、禁止の文字より先に指を動かす。


表紙は湿って、人肌のように温かかった。しおり紐は黄ばんで薄く、爪のかけらに似ている。


一行目。〈朔(さく)は、鎖を外した。〉


息が止まった。

次の行。〈朔は、息を止めた。〉


書かれたから止めたのか、止めたから書かれたのか。

頁を繰るたび、紙がぼくの指紋に吸いつき、ぺり、と皮が一枚剥がれた。

剥がれた皮は頁に貼りつき、黒く滲んで文字になる。

〈朔の人差し指の腹が剥がれた。〉


痛みは、読んだあとに来た。


紙の裏では、血管のような細い筋が脈打っていた。

閉じようとしても指が離れない。文章はいつも、ぼくの一歩先を歩く。

〈朔は悲鳴を飲み込んだ。妹に聞かせたくなかったからだ。〉


そのとおりに、ぼくは飲み込んだ。


終盤、最後から二枚目の空白に、鉛筆の走り書きを見つけた。祖父の字だ。


〈ここで止めたら、手だけで済んだ。〉


手袋の下を、ぼくは理解した。祖父は最後の一行を読まず、本を閉じたのだ。

だから紙になったのは、両手だけ。


ならば、ぼくも読まなければいい。

目を固く閉じる。それでも頁は閉じられない。皮を失った指先が紙に溶け、手首まで白く乾いてゆくのが分かった。


「お兄ちゃん、なに読んでるの?」


背後に凛の気配。小さな指が、ぼくの肩越しに、開いたままの最後の頁へ伸びる。


「見るな、凛」


遅かった。

あの子は、声に出さないと読めない子だ。


「さくは、さいごの、いちぎょうを……よまなかった」


背骨が綴じ糸にほどけ、肋骨が折り畳まれ、肺の息が頁と頁のあいだへ押し込まれた。

ぱたん、と閉じる音を、ぼくは内側から聞いた。


凛は泣きながら兄を呼び、店中を探し回り、やがて手の中の本の一行目に、兄の名前を見つけた。


「お兄ちゃん、ここにいる」


あの子は帳場の引き出しから祖父の予備の白手袋を出してはめ——偶然だ、と思いたい——ぼくを開いた。


〈朔は、鎖を外した。〉


完結した物語は、何度でも読める。

そして凛は今夜も、一文字ずつ指でなぞりながら、ゆっくり読む。


そのたびに、ぼくの人差し指の腹が、ぺり、と剥がれる……。

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