口ずさむメロディー
母は今夜も、あのメロディーを口ずさんでいる。
低く、湿った、どこか調子の外れた旋律。曲名は知らない。
ただ、聴くたびに体の芯がじんと痺れる。
私はもう長いこと、白くて硬い寝床に横たわっている。
障子の向こうは夜ばかりで、朝が来た記憶がない。
あの日、家じゅうがごうごうと燃えた。あれほど熱かったのに、今はちっとも寒くない。不思議なものだ。
手も足も、いつからか感じない。ただ首のあたりだけが、奇妙に冴えている。
「起きていたの」
襖が開き、母が入ってくる。
口元でこりこりと小さな音がする。
何か硬いものを噛んでいるらしい。台所の煮物の匂いと、鉄錆のような息の匂いが、一緒に流れ込んでくる。
母の頬は日ごとに痩せ、目だけが濡れたように光っていた。
「お腹は空かないでしょう。あなたはもう、そうだものね」
母は笑い、私の枕元に座る。
それから決まって、私を胸元に抱き寄せ、自分の首筋にぴたりと押し当てる。
あの火事で喉を焼いた母の声は、そうしないと旋律にならない。ただ掠れた息が漏れるだけなのだ。
押し当てた途端、母の喉が震え、メロディーが始まる。
振動が骨の隅々まで染み渡るとき、私は生きていた頃を思い出す。
産声を上げた夜。熱を出して、母の膝で眠った夜。母の声はいつも、私の内側へ直接響いた。
「あなたは、声のきれいな子だったわ」
母の指が、私の首のあたりを撫でる。爪の間に黒ずんだ赤が詰まっている。煮物の人参だろうか。
「ほかのところはね、みんな私の中にいるの。ここだけは、とっておいたのよ。仏さまが座っているみたいにきれいでしょう」
言葉の意味を、私は考えないようにしている。考えると、ここにいられなくなる気がするから。
その夜、母はいつもより長く歌った。
涙が一粒、私の上に落ちた。生温かくて、塩辛い。母の吐息が顔にかかる。腐りかけた果実と、煮詰めた骨の匂い。
「もうね、ひとりでは歌えないのよ」
母は私を、そっと持ち上げた。ふわり、と。片手で。羽根のように。
視界が傾く。母の掌が眼前に広がった。
深い皺が谷のように刻まれ、その向こうに巨大な顔が浮かんでいる。唇は山脈のようだ。
ああ、そうか。
寝床だと思っていたのは、小さな白い骨壺の底だった。
障子に見えたのは、蓋の裏の影。
朝が来ないのは当たり前だ。私は最初から、暗い器のなかにいたのだ。
私は、ひとかけらの喉仏だった。
「一緒に歌いましょう。ずっと、ずっとね」
母の口が開く。
赤黒い洞窟。舌のざらつきが迫り、歯茎の鉄の味と唾液の熱が私を包む。私は押し込まれ、母の喉をごくりと滑り落ちていく。
暗くて、温かくて、懐かしい。
母の体温が四方から私を抱いている。あの日の火より、ずっと優しい。
やがて頭上から、声が降ってきた。母が、口ずさんでいる。
母の声帯が震えるたび、すぐ隣で私の骨が鳴る。共鳴する。
母の喉が空気を揺らし、私が骨の芯でそれを受けて鳴る。二つが重なって初めて、あの湿った旋律になるのだ。
ああ、そうだったのか。
あれは母の歌ではなかった。掠れた息に震え、私という骨が奏でていた、私自身の声だったのだ。
母はもう、二度とひとりでは歌わない。
私が母の喉で鳴り続けるかぎり。
口ずさむのは、いつも母。
けれど、メロディーを奏でるのは、私だった。




