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狂気の標本室  作者: ノアキ光


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5/8

都の苑


都市の中心に、苑(その)がある。


眠らない街。

ビルは夜通し光り、人は歩き、誰もが睡眠を後回しにして生きている。街角には栄養剤の自販機が、墓標のように並んでいる。眠る者は怠け者と蔑まれ、夢は贅沢品と呼ばれた。

その都で、ただ一か所、眠ることを許された場所がこの苑だった。


夕刻、整理券を握った人々が、芝に身を丸めて横たわる。

鐘が三度鳴るまでの、束の間の眠り。

庭守の私は、二度目の鐘で客の肩を叩き、起こして回る。

庭守は眠ってはならない。私はもう十一年、一睡もしていない。腹も減らない。

そういう体質の者が、庭守に選ばれるのだろう。


「苑という字を見ろ」


庭守になった日、耳元で誰かがそう言った。顔は思い出せない。声だけが、ひどく聞き慣れていた。


「草の下に、夗。夕べに人が身を丸めて眠る形だ。草が人を抱いて眠る字なんだよ」


そして、もうひとつ。


「三度目の鐘までに起きない客は、起こすな。起こそうとした者は、苑に呼ばれる」


私は規則を守った。起きない客は、月にひとりかふたりいた。

三度目の鐘が鳴ると、芝が内側へゆっくり巻き、貝が閉じるように苑は丸くなる。

巻かれた芝の縁から、ときどき指が一本はみ出して、しばらく空を掻いた。

くぐもった寝言が、底からいつまでも聞こえる。

朝には刈り揃えた青い芝だけが残り、客は「帰宅した」ことになる。誰も何も訊かない。眠れぬ都は、眠らせてくれる苑に、何も訊かないのだ。

都は何事もなかったように光り続ける。


哀しくはあったが、私は苑を愛していた。

あの深い青は、人の眠りの色だ。芝は一本ずつ閉じた瞼のように微かに震え、刈り取れば、ときどき人の髪の匂いがした。

足裏の芝は、いつも私にだけ、離れがたそうに絡みつく。

胸の札は苔むして、自分の名は読めない。左手の薬指には白い痕があるが、何を嵌めていたのか思い出せない。

庭守に、過去など要らない。


赤いコートの女がいた。

毎夕、私の立つ楠の根元に身を丸め、二度目の鐘が鳴ると、起き上がって、私の足元の芝をそっと撫でる。

その左手の薬指に、細い金の輪が光っていた。

「あなた」と、聞き覚えのない名を囁きながら。そのたび、なぜか肩が温かくなった。

年々、彼女の髪には白いものが混じり、コートは色褪せていったが、肩の温もりだけは変わらなかった。

芝を愛でる客は珍しくない。私は微笑んで、彼女を門まで送った。


昨夕、彼女は撫でなかった。


二度目の鐘が過ぎても、動かず、私の足元をじっと見つめていた。三度目の鐘が鳴りはじめる。

苑が巻きはじめる。彼女は両手をついて、芝を掴んだ。


起こすな——規則が耳の奥で鳴る。私は叫んだ。

「やめなさい、あなたまで呼ばれる」。

声は風のように、彼女を素通りした。


「起きて」


芝を揺する。

爪が割れ、血が滲み、血を吸った芝が、嬉しそうに色を深くした。


「お願い、起きて。」


声は、私の足の下へ向けられていた。


見下ろすと、薄い芝の膜越しに、ひとりの男が丸くなって眠っていた。

痩せて、髪は白く、胸には苔むした庭守の札。

左手の薬指に、細い金の輪。


私の顔だった。


一睡もしていない、と思っていた。

違う。

十一年、一度も目覚めていなかったのだ。

苑は私に「起こす側」の夢を見せ、手放さずにいた。

草の下に、人。私こそが、苑という字だった。


男の瞼が震えた。

私の足がほどけてゆく。青い糸になって、芝へ還ってゆく。その向こうで、芝は彼女の腕に、脚に、赤いコートに絡みつき、貝のように閉じた。彼女は、笑っていた。


目を開けると、朝だった。

私は苑の外の、冷たいアスファルトに座っていた。

十一年ぶりに血が通う肉体が、骨の髄まで軋(きし)む。拳の中に、赤い布の切れ端と、十一年前の日付の整理券。


あの人が呼んでいた名は、私の名だった。呼び返そうとしたが、喉は十一年分の埃で塞がり、掠れた息しか出なかった。


苑は、刈り揃えた青い芝を朝日に光らせている。彼女は「帰宅した」ことになるのだろう。


違う。彼女は、下にいる。


夕刻、私はあの整理券を握って、門をくぐる。楠の根元に身を丸め、眠るのだ。三度目の鐘を待ちながら。


今度は、起こさなくていい。あの人の隣で、ただ、呼ばれればいい。


草の下に、人。

苑という字は、よくできている。

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