本音と建前
――建前を剥がせば、人間は何色をしているのだろう。
この国では、嘘をつくと舌が少しずつ黒くなる。
誰もそれを不思議とは思わなかった。嘘は社会を円滑にする潤滑油であり、黒い舌は大人の証だったからだ。
人々は毎朝、鏡の前で舌を確認する。黒ずみが薄ければ、まだ本音が漏れている。真っ黒なら一人前。会社では黒さに応じて昇進が決まり、結婚相談所では舌の色が年収より重視された。
ただし、黒くなりすぎると舌が腐る。
腐った舌は、本人の意思に関係なく本音を喋り始める。そうなった者は「正直者」と呼ばれ、社会から隔離された。
僕は、本音を一度も口にしたことがなかった。
妻の作る煮物が泥の味でも、「おいしいよ」と言った。
上司の顔を見るたびに吐き気がしても、「尊敬しています」と頭を下げた。
舌は、完璧な漆黒だった。
そんな僕に、ある日、市役所から封書が届いた。
――本音葬のご案内。
本音葬とは、死者の建前を焼却し、残された本音だけを遺族に返す儀式である。近年、死後に本音が漏れ出して家庭や職場を破壊する事例が多発したため、国が義務化したらしい。
対象者は、余命三日と診断された僕だった。
医者は言った。
「舌の黒化が限界を超えています。三日以内に、本音があなたの体を食い破るでしょう」
妻は隣で泣いていた。
「あなたが死ぬなんて、考えたくもないわ」
その頬を伝う涙が、妙に乾いて見えた。
僕は妻の肩を抱き、「君を残して死ぬのがつらい」と言った。
彼女の目が、一瞬だけ、嬉しそうに光った。
本音葬は、地下深くの白い部屋で行われた。
中央には棺が一つ。その脇に、顔のない葬儀屋が立っていた。
「故人の本音を取り出します。遺族の方は、聞きたくない内容があれば耳を塞いでください。ただし、嘘をついて耳を塞いだ場合、その嘘はご自身の舌に移ります」
妻は僕の手を握った。
「何を言われても、私はあなたを愛しているから」
その手は、氷のように冷たかった。
葬儀屋が僕の口に銀の鉗子を差し込んだ。
舌を引き抜かれる感覚はなかった。ただ、胸の奥から何か長いものがずるずると這い出してくる。黒い糸だった。無数の糸が喉を抜け、口から溢れ、棺の中で人間の形にまとまっていった。
黒い人形には、僕の顔があった。
葬儀屋が尋ねた。
「では、故人の本音を読み上げます」
人形の口が開いた。
『妻を愛していない』
妻が小さく息を呑んだ。
『料理が不味い。笑い声が耳障りだ。できることなら、出会う前に戻りたい』
妻は俯いた。握る手に力がこもる。
『職場の人間は全員、消えてほしい。上司が事故で死んだと聞いたとき、葬式で泣きながら、腹の底では笑っていた』
僕は目を閉じた。
これでいい。死んだあとまで取り繕う必要はない。
だが、黒い人形はまだ喋り続けた。
『そして、何より――』
そこで声が途切れた。
葬儀屋が首を傾ける。
「妙ですね。まだ本音が残っているはずですが」
人形の口が裂けるほど開いた。
『私は、この男が大嫌いだ』
僕は目を見開いた。
声が、僕のものではなかった。
人形がこちらを向いた。
『毎朝、鏡の前で舌を確認していた。黒ければ安心した。妻に愛していると言うたび、上司に頭を下げるたび、少しずつ私を殺していることに気づきながら、やめようともしなかった』
僕の胸が激しく軋んだ。
『私は本音だ。こいつの中で、何十年も息を潜めてきた。本当は一度だって、誰かを傷つけたくなかった。なのにこいつは、傷つけたくないふりをしながら、何度も人を見捨てた』
人形が笑った。
『お前は嘘つきだから嫌いなのではない。嘘をつく自分を、善人だと思っていたから嫌いなのだ』
僕の舌が、急速に白くなっていった。
皮膚の下で、何かが剥がれていく。
妻が手を離した。
その瞬間、葬儀屋が初めて、顔のない頭を僕に向けた。
「遺族の方。ご質問はありますか」
妻は静かに言った。
「この男の本音は、これですべてでしょうか」
「いいえ。まだ一つ、重大な本音が残っています」
「聞かせてください」
僕は叫ぼうとした。やめろ、と。もう十分だ、と。
だが声は出なかった。
黒い人形は妻を見た。
『こいつは知っている』
妻の指が、ぴくりと動いた。
『こいつの本音が漏れ始めたのは、三日前じゃない。十年前だ。あの夜、こいつは私に言った。「もう、こんな生活は嫌だ」と』
僕は震えた。
あれは、たしかに口にした言葉だった。
十年前、妻の妊娠がわかった夜。僕は逃げたかった。父親になるのが怖かった。妻の笑顔が重たかった。
翌朝、僕は「嬉しいよ」と言った。
『その日から、こいつの本音は私に押しつけられた。私はこいつの中で、黒い舌になった。こいつは善良な夫を演じ、私は醜い本音を引き受けた』
人形が妻に顔を近づけた。
『だが、子供は生まれなかった。流産した日、こいつは泣いた。泣きながら、心の奥で安堵した。私はその声を忘れていない』
妻が顔を上げた。
その目には涙がなかった。
「そう。やっと思い出したのね」
彼女の舌は、真っ白だった。
「あなたはあの夜、私に『子供なんていらない』と言った。でも翌朝は『嬉しい』と言った。私はどちらが本当なのか、十年間ずっと知りたかった」
妻は葬儀屋に微笑んだ。
「本音は、遺族に返されるんですよね?」
「そのとおりです」
「では、受け取ります」
妻が口を開いた。
その舌の裏には、小さな黒い文字が無数に刻まれていた。
――あなたなんか、死ねばいい。
――私は、あなたを愛していない。
――あの子が死んで、ほっとした。
黒い文字が、虫のように動き始めた。
妻は笑っていた。泣きながら、笑っていた。
「これが私の本音。十年間、あなたの前で一度も口にしなかった言葉よ」
彼女の舌から黒い虫が溢れ、床を埋めた。虫たちは僕の足を這い上がり、全身を覆った。痛みはなかった。ただ、ひどく懐かしい感触がした。
僕はようやく理解した。
妻もまた、ずっと建前を演じていたのだ。愛されたいふりをしながら憎み、許すふりをしながら罰を待っていた。
僕たちは十年間、互いの嘘を愛情と呼び、互いの本音を怪物と呼んでいた。
床の虫が、ひとつ残らず僕の口へ入った。
白くなった舌が、根元から裂けた。
最後に僕は、人生で初めて、心から言った。
「君を愛していたよ」
妻は穏やかな顔で頷いた。
「ええ。知っているわ」
その言葉が本音なのか、建前なのか。
確かめる時間は、もうなかった。
翌朝、妻は市役所へ出向き、夫の死亡届を提出した。
窓口の職員は、事務的な笑顔で言った。
「ご主人は最後に、何とおっしゃいましたか?」
「私を愛していた、と」
「そうですか。よい最期でしたね」
妻は一礼した。
帰り際、ガラス戸に映った自分の舌を見た。
真っ白だった。
彼女は少しだけ安心し、それから、ぞっとした。
自分の口が勝手に開いていた。
舌の上に、黒い文字が浮かんでいた。
――あの男が死んで、せいせいした。
妻は口を押さえた。
文字は消えなかった。
そのとき、窓口の職員が背後から声をかけた。
「ご安心ください。これは本音葬の正常な反応です」
振り返ると、職員の舌も真っ黒だった。
彼は親切な笑顔を浮かべた。
「本音をお預かりするお仕事ですからね。私たちも、もう慣れました」




