燃える女性の肖像
山の館に着いた日から、雨は一度も止まなかった。
先生と呼ばれる女は、黒い服を着た痩せた人だった。
手紙には「三月で、私の肖像を仕上げてほしい」とあった。
画家の私に、断る理由はなかった。
館には鏡がなかった。アトリエの扉の向こう、廊下の突き当たりに、金の額縁がひとつ、中身を抜かれたように空のまま掛かっている。
「あれは、まだ埋まっていないの」
先生はそう言って笑った。
毎日、先生は椅子に座り、私はイーゼルの前に立つ。それだけの日々だった。
けれど不審な点は、少しずつ増えていった。
先生は私の絵を決して見なかった。
「完成まで見ないのが礼儀よ」と言う。
そのくせ視線だけは、キャンバスではなく私の顔ばかりを、舐めるように追っている。描かれているのは先生ではなく、私のほうだと錯覚するほどに。
暖炉の火は、いつも同じ形で燃えていた。
揺れず、爆ぜず、熱もない。
寒がりの私が、三月のあいだなぜか一度も震えなかった。
食事をした記憶もない。
朝は決まって、イーゼルの前に立ったまま目覚めた。
先生の爪の際には、栗色の絵具がこびりついていた。私の髪と、同じ色だった。
何より嫌だったのは、私の描く先生の顔だ。日ごとに、別の顔へ寄っていく。頬が丸くなり、右の目尻が下がる。
ある夜、手洗いの水面に自分の顔を見て、私は筆を取り落とした。描いていたのは、私の顔だった。
「描くたびに、私の顔になるんです」
翌朝そう訴えると、先生は静かに頷いた。
「そう。描く側は、描かれる側に似るのよ」
その夜から先生は、窓辺にテレピン油の瓶を、一本ずつ並べはじめた。
そして三月目の朝、雨が上がった。
「できました」
先生は初めて立ち上がり、キャンバスを覗き込んだ。
私の顔をした女が、先生の黒い服で座っている。先生は長いこと見つめ、やがて泣き笑いの顔になった。
「ええ、ええ。私の自画像だわ」
「先生の、ですか。これは、私の顔です」
「そうよ。だって、あなたは私が描いたのだもの」
意味がわからなかった。
先生は愛おしそうに、私の頬へ手を伸ばした。指先から、亜麻仁油の匂いがした。私の肌と、同じ匂いだった。
「昔ね、私は肖像を描いてやった女を、絵ごと焼いてしまったの。その罪を、自分の顔のまま背負って燃やすのは怖かった。だから三月かけて、他人の顔で自画像を描いたの。あなたに筆を持たせたのは仕上げのため。私の罪を、あなたへ写し終えるため」
先生はマッチを擦った。
逃げようとして、足が動かないことに気づいた。床に絵具で貼りついたかのように。テレピンの匂いが、部屋じゅうに立ち込めている。暖炉の火が、初めて揺れた。
熱い。生まれて初めて、熱い。
炎に包まれながら、私は先生を見た。
先生は泣いていた。頬を伝う涙は、いつまでも乾かず、油のように鈍く光っている。
その肩越し、開いたままの扉の向こうで、廊下の突き当たりの額縁が、もう空ではないことに気づいた。
額の中に、先生がいる。いま目の前で泣いている先生と、寸分違わぬ姿で。
そして額縁の外から、見知らぬ誰かの手が伸びてきて、まだ乾かぬ先生の頬に、そっと筆を置くのが見えた。




