青天の記
山上の観測所へ赴任したのは、秋の長雨がようやく上がった日であった。
迎えた老技師は、乾いた咳をひとつして言った。
「予報は夕刻に出す。村の者が訊きに来るゆえ、答えは定まっておる。『明日は晴れ』。雨と言うてはならぬ」
「しかし、気圧の如何によっては」
「如何にもよらぬ。雨とは、決して」
日誌を繰ると、十年分の頁がことごとく「晴」の一字で埋まっていた。筆跡はどこか見覚えがあったが、疲れのせいであろう。
そもそも私は、汽車に乗った覚えこそあれ、切符をどうしたのか思い出せずにいた。
麓の村は奇妙であった。人々は礼儀正しく、手に触れれば冷たく湿っている。
軒先に傘はなく、宿の女将は洗濯物を決して干さない。
「干すほどのものがございませんので」と笑う。
井戸の水は美味そうに飲むのに、風呂へ入る者はひとりもなかった。
夕刻になると、村人は観測所の前に静かに並び、「明日は」と問う。
「晴れです」と答えれば、皆ほっと息をつき、深々と頭を下げて帰ってゆく。
まるで命乞いでもするように。
老技師は三月ほどで、「療養に出る」と言い残して去った。
別れ際、私の肩に置いた手は、やはり水のように冷たかった。
「君は濡れやすい質だ。気をつけなさい」
その夜、気圧計の針が崖のように落ちた。私は学問に誠実でありたかった。
翌夕、並んだ村人へ、私は告げた。
「明日は、雨です」
沈黙ののち、女将が微笑んだ。
「そうですか。やっと」
誰も怒らなかった。むしろ重い荷を下ろしたような顔で、いつにも増して丁寧に礼をした。
翌朝、雨が降った。
窓から見下ろすと、村人たちが傘もささず戸外へ出ていた。
両手を広げ、仰向いて雨を受けるうち、その輪郭が蝋のように崩れ、着物も、髪も、笑顔も、ざあと音を立てて水となり、道を流れ、川へ落ちていった。
叫ぼうとして、私は手の甲に雫の落ちるのを見た。天井の雨漏りではない。私の指先から、ぽたり、ぽたりと。
戸口に、老技師が立っていた。濡れそぼちながら、少しも崩れぬ。いや、崩れかけて、なお笑っていた。
「十年、彼らを晴れの内に留めた。雨粒が人の真似をして暮らせるのは、日照りの間だけだ。……私は一番はじめの一粒でな。己の終わりを、己の口では言えぬ」
足先が、すでに水になっていた。
「だから君を拵えた。長雨のあと、軒先の水溜まりから。雨と、正直に言える者を。筆跡が似ていたろう。私の手を写したのだ」
老技師の声も、水音にほどけてゆく。
「許せ。……ありがとう」
私は最後の力で日誌を引き寄せ、筆を執って一字だけ書いた。
雨
それきり、観測所には、濡れた日誌と、ふたつの水溜まりばかりが残った。
やがて川は雲となり、雲は山に降り、また新しい水溜まりを作る。
麓の村に人々がぞろぞろと立ち上がり、「明日は」と問いに来るのは、それから十年ののち、よく晴れた日のことである。




