温かい庭
この庭に仕えて、五年になる。
丘があり、林があり、谷があり、中央に鏡のような池がある。
主人の姿は、一度も見たことがない。
先代の庭師から受け継いだのは、三つの掟だけだ。
一、霧の朝は、鋏を入れるな。
二、池の水は、汲むな。
三、庭が温かい日は、静かに歩け。
私は忠実に守ってきた。先代は口癖のように言ったものだ。庭師とは、庭に許されて棲む者だと。
庭は生きている。比喩ではない。夜ごと地の底から低い唸りが響き、丘が潮のようにゆっくり上下する。
私は土に耳を当てて眠る。どくん、どくんと、庭の心音がする。
先代は「主人の寝息だ」と言った。私は笑わなかった。美しいものが息をするのは、当然だと思ったからだ。
類のない美しさだった。
春には丘に桃色の苔が咲き、冬には白い霧が谷を満たす。松の幹は膝の関節のように節くれ立ち、林はどこまでも同じ向きになびく。
谷の斜面には紅い実が点々と生り、齧ると鉄の味がした。庭の味だ、と私は思った。夜は谷底の温かな赤い溜まりに身を浸す。傷は一晩で塞がった。
先代は、ある朝「庭が痒がっている」とだけ言い残して谷へ降り、二度と戻らなかった。その日、紅い実がひとつ増えた。
剪定の日、枝を落とすと透明な汁が滲み、遠くで風が長く細い声をあげる。私はその汁を朝の茶に一滴垂らして飲む。庭と一つになれる気がするのだ。
落とした枝を焚くと、髪の焦げるような匂いがした。私はそれを芳香と呼んだ。
切り口は数日で癒え、枝は驚くほど早く伸びる。庭は私の鋏のために生え変わる。これを愛と呼ばずして、何と呼ぼう。
庭には時おり、害虫が湧く。庭を荒らす小さな黒い虫だ。見つけ次第、鋏の先で潰してきた。そのたび地が小さく身震いし、私は、庭が礼を言っているのだと思った。
ところが今朝、庭が温かかった。
三つ目の掟を思い出し、足音を殺して池へ向かった。大地は熱を帯び、じっとりと湿っている。
遠くで、大きな息が一度だけ庭を撫でた。池のふちの黒い葦が、ぴくぴくと痙攣している。長い、睫毛のように。
覗き込むと、水底に白い円があった。その中心に、さらに黒く深い円。
瞳だ、と悟った瞬間、それが動いた。ゆっくりと、私を捉えた。
黒い水面に、鋏を握りしめた豆粒ほどの私が映っていた。
長年、水面だと思っていたものが、まばたきをした。
すべてが繋がった。丘は肩。林は産毛。風の声は悲鳴ではなく、くすぐったさに耐える笑い。
紅い実は、主人が痒みに耐えかねて掻き潰した痕の瘡蓋――先代が消えた朝に増えた、あの一粒も。
頭上が翳った。見上げると、天井のように巨大な指が降りてくる。指の腹には、渦を巻く山脈のような指紋。
久しぶりに目覚めた主人は、ひどく痒い場所を掻こうとしていた。
掟の意味を、私は初めて理解した。霧は吐息、池は瞳、熱は目覚めの兆し。
庭のためではない。主人を起こさぬための知恵だったのだ。
この庭に棲みつき、血を啜り、庭師を名乗ってきた、我々虫けらの。
爪の影が私を覆う。私が黒い虫を潰してきたように、今度は私が。
鋏を捨て、両手を広げた。
ようやく、主人に触れていただけるのだ――。




