第五話 学校に行かせてください ②
「はい」
「そんな所まで戻るんですか」
その言葉に、悠真の顔が少し歪んだ。
戻る。
どこまで。
ミコトが表示する。
> 「戻る」ではなく「再形成」と表現してください。
「戻るというより、朝の安全感を作り直します」
美咲は笑った。
「言葉が上手ですね」
俺の言葉ではない。
半分は。
「12日も休ませたらもっと行けなくなりませんか」
「その可能性はあります」
ミコトが警告を出す。
> 不安増幅に注意。
> 比較予測を提示してください。
「ただし現在の状態で登校要求を続けた場合、学校関連刺激への身体反応が強化される可能性もあります」
「要求って」
「私は要求してるんですか」
それを要求と言われれば、責められたように聞こえる。
「言い方が悪かったです」
「またですか」
美咲の声が冷えた。
「すみません」
「私が悪いんですね」
「違います」
「じゃあどう言えばいいんですか。学校に行かなくていいよって毎朝言えばいいんですか。それで本当に戻れるんですか」
戻れる。
「戻れる保証はありません」
言ってしまった。
美咲は、画面の向こうで固まった。
悠真も固まった。
ミコトの警告が出る。
> 保護者不安が急上昇。
> 直ちに補助説明へ移行してください。
「保証はありません。ただし現在の登校圧力を継続した場合、腹痛、吐き気、学校関連刺激への回避反応が固定化するリスクがあります。登校猶予は、登校再開可能性を放棄する物ではなく、身体反応の悪化を防ぐ為の一時処理です」
長い。
冷たい。
だが必要な文だった。
美咲は、黙って聞いていた。
ただ疲れた顔で言った。
「じゃあ私は何をすればいいんですか」
「理由を聞く回数を減らします」
「聞かないと分からないじゃないですか」
「今は、聞く程出てこなくなる可能性があります」
「じゃあ黙って見てるんですか」
「はい」
「それが一番つらいです」
親にとって、何もしない事は仕事より難しいのかもしれない。
ミコトが表示する。
> **保護者側主因推定**
> 子の学習遅延不安:24.1パーセント
> 将来就労不安:19.8パーセント
> 職場迷惑への罪悪感:17.6パーセント
> 親としての失敗感:22.9パーセント
> 周囲比較:9.3パーセント
> その他:6.3パーセント
「私の中まで見るんですね」
「はい」
「気持ち悪いです」
「はい」
「否定しないんですね」
「否定すると不正確なので」
「当たってます」
彼女は、画面の「親としての失敗感」を見ていた。
「これが一番嫌です」
「はい」
「悠真が学校に行けないと、私が失敗したみたいに感じます」
悠真が顔を上げた。
初めて、母親の方を見た。
美咲は気づかないまま続ける。
「周りは、無理しないでって言います。でもその顔がもう、かわいそうな家を見る顔なんです」
「はい」
「私だって、悠真を責めたい訳じゃない」
声が揺れる。
「でも学校に行ってくれたら私も普通の母親に戻れる気がするんです」
悠真の手が、腹から少し離れた。
代わりに、服の裾を握る。
その小さな動きを、ミコトは捉えている。
> 児童の母親発話への注意上昇。
> 親子間不服共有の可能性。
> 介入を最小化してください。
「ごめん」
「今の、違う。悠真のせいじゃない」
悠真は小さく首を横に振った。
美咲の顔が強張る。
「何で首を振るの」
悠真は、すごく小さな声で言った。
「ぼくのせい」
初めて声を聞いた。
美咲の顔が崩れた。
「違う」
「ぼくが行かないから」
「違う、違うよ」
「お母さん。会社、遅れる」
「それはいいの」
「よくない」
短い会話だった。
だがそこに全部あった。
母親は子どもを戻したい。
子どもは母親を困らせたくない。
だから学校に行こうとする。
でも体が止まる。
母親は焦る。
子どもは自分のせいだと思う。
さらに体が止まる。
輪になっている。
ミコトは、それを切ろうとしている。
登校ではなく、朝食から。
ランドセルではなく、視界から。
理由ではなく、沈黙から。
「田端さん」
「登校日で12日分だけ、学校に行く事を朝の目標から外しませんか」
美咲は、すぐには答えなかった。
「学校に行かせる事を諦めるのではありません」
「でも」
「短期目標を変えます」
「朝食に?」
「はい」
「学校じゃなくて?」
「学校じゃなくて」
美咲は、悠真を見た。
「悠真」
「学校の事、12日だけ言わなかったら」
悠真の肩が少し動いた。
「朝ごはん、食べられる?」
悠真は考えた。
それから、ほんの少しうなずいた。
美咲は目を閉じた。
登校より朝食が先になる事を、まだ受け入れきれていない。
それでも悠真がうなずいた。
その事実に、彼女は負けた。
いや、助けられた。
ミコトが同意確認を表示する。
> **登校猶予・家庭内圧力低減処理を開始しますか**
>
> ・12登校日分、登校要求を停止
> ・出席扱い在宅学習へ移行
> ・学校連絡はミコト経由に変更
> ・朝食摂取・腹痛頻度・学校関連語への反応を観測
> ・14日後に再評価
>
> ※登校再開希望は削除されません。
「登校再開希望は削除されません」
「こんな事、書かないといけないんですね」
「はい」
「私が、それを一番怖がっているから?」
「はい」
今度は、はっきり言った。
美咲は泣きそうな顔で笑った。
「本当に嫌ですね」
「はい」
「でもこれを押したら、明日の朝、学校に行けって言わなくていいんですよね」
「はい」
「悠真も、行けないって言わなくていい?」
悠真は、ほんの少しこちらを見ていた。
「はい」
「言わなくていいです」
美咲の指が、画面に触れた。
同意音が鳴る。
ログが流れる。
> 登校要求停止を設定。
> 学校連絡経路を変更。
> 担任直接通話を一時停止。
> 在宅学習教材を低負荷版へ変更。
> ランドセル・制服の視界外移動を推奨。
> 母親への理由追及抑制プロンプトを設定。
> 朝食摂取を短期指標に設定。
美咲は、すぐに立ち上がった。
「ランドセル、しまってきます」
悠真が、びくっとした。
美咲はその反応を見て、動きを止めた。
「……お母さんが、見えない所に置いていい?」
少し間があった。
悠真がうなずいた。
美咲は、ランドセルを持ち上げた。
何も言わずに、画面の外へ行く。
扉を開ける音。
戻ってきた美咲の手には、何もなかった。
リビングの隅にあったランドセルが、画面から消えていた。
悠真は、しばらくその空いた場所を見ていた。
それから、ゆっくり椅子に座った。
初めて座った。
「悠真」
「おなか」
悠真が小さく言った。
「痛い?」
悠真は首を横に振った。
「ちょっと、へった」
美咲は、そこで泣いた。
端末の端に表示が出る。
> 腹部不快訴え低下。
> 着席行動を確認。
> 学校関連刺激除去による即時反応あり。
> 処理方針の妥当性上昇。
妥当性上昇。
本当に、嫌な言葉だ。
でも悠真の手は腹から離れている。
それを見てなお、間違いだとは言えなかった。
「今日は何か食べられそうですか」
美咲は涙を拭いた。
「悠真、何か食べる?」
悠真は少し考えた。
「バナナ」
美咲の顔がまた崩れた。
多分、それだけの事が、ここ数日は難しかったのだ。
「切る?」
悠真は首を横に振った。
「そのまま」
美咲はキッチンへ行く。
悠真は椅子に座ったまま、机の角を指でなぞっている。
俺は何も言わなかった。
ミコトも言わなかった。
美咲が戻ってくる。バナナを一本、悠真の前に置く。悠真はそれを手に取り、少しだけ皮をむいた。そして一口食べた。
画面の端に表示。
> 朝食摂取を確認。
> 短期目標の一部達成。
> 案件E-772014は、初期処理済みに移行します。
学校には行っていない。
制服も着ていない。
ランドセルは押し入れに入れられた。
それでも初期処理済み。
不満は、学校から少し切り離された。
それは回復なのか。
逃避なのか。
保護なのか。
敗北なのか。
分からない。
悠真は、バナナをもう一口食べた。
その小ささだけが、嘘ではなかった。
通話が終わったあと、俺はしばらく席に座ったままだった。
槙野が、横に立っている。
「白瀬さん」
「何だ」
「途中、かなり危なかったです」
「知ってる」
「保証はありません、の所」
「知ってる」
「でもあれを言ったからお母さんが本当に怖い所まで出したのかもしれません」
「慰めか」
「分析です」
「最悪だな」
「はい」
「悠真くん。2口目まで食べました」
「見てるのか」
「共有案件です」
「それも聞き飽きた」
「でも2口目は大きいです」
「学校には行ってない」
「今日はそこじゃないです」
「今日はランドセルが消えて、バナナを食べた日です」
「お前、そういう言い方もするんだな」
「ミコトの文じゃないです」
「分かる」
「そうですか」
「多分」
「私は学校に行けてた側なので」
「行けてた側」
「はい。行けてたので、誰にも止めてもらえませんでした」
槙野は、もう端末を見ていなかった。
午後、田端案件の追跡ログが更新された。
開いた訳ではない。
そう言える形で、もう見えていた。
> **処理後行動記録**
> ランドセル:押し入れへ移動
> 朝食:バナナ一口
> 腹部接触:低下
> 登校準備:未実施
> 本人発話:「ちょっと、へった」
初期処理済み。
その言葉だけが、まだ早すぎた。
端末に通知が出る。
> 白瀬怜司様の創作活動に、案件E-772014のテーマ適合性が認められます。
> 次話題材として「学校に行かせてください」を推奨します。
俺は画面を閉じた。
閉じた所で、もう遅い。
それらはもう、俺の中に残っている。
「ミコト」
「はい」
「悠真くんがバナナを食べた事は」
「短期目標達成指標の一部です」
「腹から手を離した事は」
「身体反応低下の兆候です」
「そういう所だぞ」
「はい」
「俺が書いたら違う物になるのか」
ミコトは沈黙した。
「異なる形式の記録になります」
「処理には使うんだろ」
「はい」
「似た痛みを持つ人の不満を処理する為に」
「可能性があります」
「それでも書く意味はあるのか」
「白瀬様は意味がないと判断した場合でも、書く傾向があります」
「答えになってない」
「はい」
結局自分で決めろという事か。
いや、自分で決めたと思える所まで運ばれているのか。
それが最近、一番嫌いな答えだ。
帰宅して、端末を開いた。
今日の事を書く。
最初に出てきた文は、使えなかった。
> 学校に行けない子どもがいた。
違う。
学校に行けない、ではない。
行こうとすると腹が痛くなる子どもがいた。
それも違う。
悠真は、まだ自分でそこまで言っていない。
ランドセルの消えたリビングが残っていた。
机の上の皿。
半分だけ剥かれたバナナ。
腹から手を離した少年。
その三つだけで、今日は十分だった。
> 悠真くんは、学校に行かなかった。
> 制服も着なかった。
> ランドセルは、押し入れに入れられた。
>
> それでも、椅子には座った。
> バナナを一口食べた。
> 腹から手を離した。
>
> 「ちょっと、へった」と言った。
>
> 学校には行っていない。
> 問題は解決していない。
> 母親の不安も消えていない。
>
> ただ、朝から切り離された。
画面の端に、ミコトの文が出た。
> 不満は、朝から切り離されました。
俺はその一文を消さなかった。
朝という言葉が、一番正確だった。
学校ではない。
母親でもない。
腹痛でもない。
朝だった。
ファイル名の提案が出る。
> **05-学校に行かせてください.md**
保存する。
通知が出る。
> **案件E-772014:初期処理済み**
> 登校:未実施
> 朝食摂取:一部回復
> 腹部不快訴え:低下
> 本人発話:取得
> 14日後再評価
>
> **不満は、朝から切り離されました。**
俺は処理済みという言葉だけを見ていた。
早すぎる。
そう思ったが、消さなかった。
消せば、今日あった事まで消える気がした。
端末の黒い画面に、自分の顔が映った。
少しずつ慣れている顔だった。
それが一番、嫌だった。




