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よっさん  作者: 斉彬
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春 - 川沿いの問い

 三月の終わりだった。暦は春を指しているのに、川沿いの空気にはまだ冬の名残があった。高架を走る電車の音が、水面を震わせる。私は紙コップの束を抱え、指先に息を吹きかけた。

 大学二年の最後の日曜日。先輩に誘われ、炊き出しに参加した。鍋のふたを開けると味噌と出汁の匂いが立ちのぼる。その匂いは、どこか実家の台所を思わせた。新潟の家では三月でも雪が残っていることがある。玄関先で祖父が長靴を鳴らす音を、ふいに思い出す。


 「こんにちは」


 並んだ人たちに声をかけるたび、言葉の軽さが胸に引っかかった。こんにちは、という挨拶は、教室でもコンビニでも同じ響きで使われる。それがここでは、少しだけ浮いて聞こえる。


 味噌汁を差し出すと年配の男性が深く頭を下げた。白い頭頂が春の薄い光を受けている。その姿に、私はまた祖父を重ねた。


 列の少し外れに一人の老人が座っていた。毛布を肩にかけているが、背筋はすっと伸びている。膝の上で組まれた手は、舞台の上の俳優のように整っていた。周囲と同じ景色の中にいるのに、輪郭がくっきりして見える。


 私は味噌汁を持って近づいた。


 「どうぞ」


 老人は両手で受け取り、湯気をしばらく眺めてから言った。


 「これはありがたい。温かいものは、それだけで徳がある」


 徳、という言葉が耳に残る。私は軽く会釈をした。


 「君は、大学生かな」


 「はい。四月から三年になります」


 「ほう。三年生。若葉の季節だ」


 声音は穏やかで、どこか芝居がかった響きがある。私は少しだけ身構えた。


 老人は味噌汁を一口すすり、満足げに目を細める。


 「結構。出汁がよく出ている」


 料理を評する客のようだ、と私は思った。


 「君は、なぜここにいるのかね」


 問いは静かだったが、逃げ場を残さない。


 「ボランティアで……炊き出しのお手伝いです」


 そう答えると、老人は首をわずかに傾けた。


 「それは行為の説明だ。動機を尋ねている」


 動機。私は言葉を探す。先輩に誘われ、役に立てたらいいと思い、断る理由も見つからなかった。それをそのまま言うのは、どこか幼い気がする。


 「誰かの役に立てたら、いいなと思って」


 口に出した瞬間、教科書の一節のように響いた。


 老人は私を見つめる。その目は澄んでいて、感情の色が薄い。


 「役に立つ、か。では、もう一つ」


 味噌汁の湯気が二人のあいだをゆらぐ。


 「君は、なぜ“助ける側”に立てているのかな」


 高架を電車が通り、金属の振動が空気を震わせる。助ける側。私はその言い方に戸惑う。自分がどこか高い位置にいる、と示された気がした。


 「たまたま、大学に通えているからです。環境に恵まれていたんだと思います。運が良かっただけで」


 運、という言葉を選びながら、胸の奥が少し軽くなる。理由を一つにまとめられる。


 「ほう。運」


 老人はゆっくりと繰り返した。


 「運とは便利な言葉だ。偶然も、努力も、時代も、ひとまとめにできる」


 責める調子ではない。むしろ感心しているように聞こえる。


 「では、君がこちら側に座る日が来たときも、同じ言葉で説明するのかな」


 私は思わず老人の足元を見た。地面に敷かれた段ボール。薄茶色の繊維が風に揺れる。


 「ゼロじゃないと思います。でも……ちゃんと生きていれば」


 言葉が途中で止まる。ちゃんと生きる、とは何だろう。


 老人はそれ以上追わない。


 「結構だ。若い人が即答できることは、たいてい貴重だ」


 それが褒め言葉なのかどうか、判然としない。


 「君の名は」


 「アユミです」


 「アユミ嬢。歩む、と書くのかな」


 「はい」


 「良い名だ。前へ進む響きがある」


 私は少し照れた。嬢、と呼ばれることに慣れていない。


 「私はよっさんと呼ばれている。由来は知らぬ。名など、風のようなものだ」


 よっさん。親しみやすい響きと、彼の口調とのあいだに小さなずれがある。


 「アユミ嬢」


 彼は味噌汁を飲み干し、紙コップを丁寧に畳んだ。


 「問いに急いで答えを出す必要はない。春は芽吹きの季節だ。根は、まだ土の中にある」


 そう言って立ち上がる。動きに無駄がない。毛布を肩にかけ直し、空を見上げる。


 「今日は良い風が吹いている」


 私は思わず口を開く。


 「また、お話しできますか」


 問いというより願いに近い。


 よっさんは振り返らず、わずかに手を挙げた。


 「春は巡る。君が来れば、私はここにいるかもしれぬ」


 断定を避ける言い方だった。


 背中が人混みの端へ溶けていく。毛布の色が周囲の段ボールと混ざり合い、境界があいまいになる。それでも、彼の姿だけが妙に印象に残る。


 鍋の底をのぞくと、味噌汁はほとんど残っていない。湯気はすでに薄れ、空気の冷たさが戻ってくる。


 助ける側。運。ゼロではない。


 言葉が胸の中で静かに反響する。私は自分の立ち位置を測り直すように、足元を見た。アスファルトの上に伸びた影が、思いのほか長い。


 電車が再び高架を渡る。春の空は淡く、境目が曖昧だ。


 その日から、川沿いの風を感じるたび、私はあの問いを思い出すようになった。答えは出ていない。それでも、問いだけが、私の中で芽を出そうとしていた。

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