迫り来る怪物とタイムリミット
申し訳ありません。寝落ちしておりました。
ハルは走りながら一度大きく息を吸い込み、頭の中にまとわりついて離れない恐怖を振り払うように、ぶんぶんと首を横に振った。
このままでは駄目だ。
逃げ切れないという焦りばかりが膨らんで、何かを考えようとしても思考が同じ場所をぐるぐると回っている。けれど、怖いからといってただ走り続けたところで、背後から迫る怪物との距離は少しずつ縮まり、頼みのバリアも消えかけているのだから、その先に待っている結果は考えるまでもなかった。
ハルはちらりと隣を走るリムを見る。
(……あとで、絶対怒られるよね)
先ほど交わした約束を思い出せば、迷いがないわけではなかった。
二度目のバリアを使う時は、調査を打ち切って撤退する。それがリムから出された条件だったのだから、これからしようとしていることを知れば、間違いなく怒られる。
それでもハルは護りのイヤーカフへ手を伸ばし、走りながらそっと二度目のバリアを起動した。
消えかけていた半透明の膜が一度淡く揺らぎ、次の瞬間、新たな力を得たように大きく外側へ押し広がる。間近まで迫っていた濁った粘液がまとめて弾き返され、窮屈になっていた三人の周囲に、再び十分な空間が生まれた。
続けてハルは、イヤーカフに備えられたもう一つの機能を起動する。
ツムギが作ってくれたこの護りのイヤーカフには、危険から身を守るバリアや緊急時に仲間へ異変を知らせる機能だけではなく、恐怖や混乱で正常な判断ができなくなりそうな時、一時的に感情の揺れを抑えてくれる機能まで組み込まれていた。
普段なら、できるだけ頼りたくない機能だった。
怖いものを怖くなくするための道具ではないし、感情そのものを消してしまうものでもない。ただ、恐怖に呑み込まれて何も考えられなくなった時に、自分で考えるための場所をほんの少しだけ取り戻してくれる――ハルにとっては、本当にどうしようもなくなった時のための奥の手だった。
機能が働くと同時に、激しく鳴っていた心臓が急に止まったわけでも、背後から迫る怪物が恐ろしくなくなったわけでもない。
けれど、頭の中を埋め尽くしていた焦りが少しずつ遠ざかり、その向こう側に隠れていた状況が、ひとつひとつ形を取り戻していく。
怪物は光を追っている。
走り続けても距離は縮まっている。
光を手放せば、おそらく自分たちは逃げられる。
けれど――本当に、それしかないのだろうか。
ハルの足が、少しずつ遅くなった。
そして、止まった。
「ハル!? 何やってるんだ! 止まるな、走れ!」
すぐに気づいたリムが振り返り、珍しく焦りを隠そうともせず声を上げる。
けれどハルは動かなかった。
胸元に抱えた淡い光を守るように両手で包み込み、迫ってくる怪物を見つめながら、今度は落ち着いて口を開く。
「このまま逃げても、多分捕まる」
「だからって止まってどうする!」
「考えよう。一度だけでいい。数分だけ、ちゃんと考えたい。逃げるのはそのあとでもできる」
「そんな時間ないだろ! バリアだってもう――」
そこまで言ったところで、リムの言葉が止まった。
先ほどまで三人の身体ぎりぎりまで縮んでいたはずの半透明の膜が、今は再び十分な広さを取り戻している。
その意味に気づくまで、ほんの一瞬だった。
「……お前」
リムの眉がぴくりと動く。
ハルは少しだけ視線を逸らした。
「大丈夫。あと十分くらいはもつはずだから」
「おまえっ……!!」
怒鳴り声が森に響く寸前、ハルの肩へ戻っていたコウが、まあ待てと言わんばかりに短い翼を広げた。
「まあまあ。張っちまったもんはもうしょうがねぇだろ」
「しょうがなくない! こいつ、さっき俺と――」
「分かってるって。でもよ、俺もこのまま走ったところで逃げ切れねぇと思うぞ」
コウの声からいつもの軽さが消える。
後方では、三人が止まったことなど関係ないとばかりに怪物が迫り続けており、広がり直したバリアへ濁った粘液が触れるたび、その表面が波打ちながら外側へ弾き返されていた。
「それに、あの光を外へ放り出しゃ俺たちは逃げられるかもしれねぇけど……俺は嫌だな。あいつが俺と似たようなもんだって分かっちまった以上、ここで見捨てたら同族を置いて逃げたみたいで、死ぬほど後味悪ぃ」
コウはそう言うと、ハルの腕の中で弱々しく明滅する光を見下ろした。
「せっかく十分増えたんだ。全部使えとは言わねぇ。数分だけ考えようぜ。それで駄目なら、その時は本気で光を放り出して逃げる。俺もハルの命が最優先だからな」
リムは何も答えなかった。
約束を破ったハルへの怒りは、まだその顔にはっきりと残っている。
けれど同時に、このまま走り続けても逃げ切れないということも、リム自身が誰より理解しているのだろう。
背後から迫る巨大な怪物を睨み、次にハルの腕の中にある光を見て、最後に張り直されたばかりのバリアへ視線を移す。
ハルもまた、その横顔を見ながら静かに息を整えていた。
増えたのは、たった十分。
けれど今のハルに必要だったのは、ただ遠くへ逃げるための十分ではない。
この状況から抜け出す方法を見つけるための――考える時間だった。
迫り続ける怪物と、ハルの腕の中で弱々しく明滅する光を交互に見つめていたリムは、しばらく険しい顔のまま黙り込んでいたが、やがて何かを諦めたように大きく息を吐いた。
「……まず、俺はこいつを回復させる必要があると思う」
それは光を助けることを認めたというより、限られた時間の中で生き残るために、今できることを一つずつ選び直した結果のようだった。
「勘違いするなよ。最悪の場合は、こいつを置いて逃げる。その時になってハルが嫌だって言っても、お前から引っ剥がしてでもバリアの外へ放り出すからな」
念を押すようにハルを睨みつける目は真剣そのもので、その言葉が脅しではないことはすぐに分かった。それでもリムは一度光へ目を落とすと、ほんのわずかに眉を寄せる。
「でも……俺だって、別に見殺しにしたいわけじゃない。最悪そうしなきゃならなくなるなら、今のうちにできることはやっといた方がいいだろ。少しでも回復させられれば、その分こいつ自身が耐えられる時間も延びるかもしれないし……」
そこまでは二人へ説明するようにはっきり話していたものの、そこから先は自分の頭の中で手段を探し始めたらしく、声が次第に小さくなっていった。
「……こういう場合、光魔法か? いや、そもそもこいつが何なのか分からないのに属性だけで判断していいのか……ヒールなら……」
その独り言に近い呟きを拾ったのは、コウだった。
「いや、多分そっちじゃねぇな。普通に薬草とかポーションの方が効くと思うぞ」
「ポーション?」
リムが顔を上げる。
コウはハルの肩から光を覗き込み、自分と似た性質を持つというそれを確かめるように少し首を傾げた。
「本当にこいつが俺と同じような存在なら、同じ属性の魔力をもらっても回復はする。でも即効性はあんまりねぇんだ。ヒールも似たようなもんで、効かねぇわけじゃないけど、普通の生き物に使うほど素直には効かねぇ」
コウはそこで少し考え、自分の感覚をどう説明すれば伝わるのか探すように翼を動かした。
「ほら、モンスターにそいつと同じ属性の攻撃魔法ぶつけても、効きが悪かったりするだろ? あれと似たようなもんだ。俺たちみたいなのは、そもそも魔法そのものに多少耐性があるからな。回復魔法だからって、そのまま全部受け取れるわけじゃねぇんだよ」
「じゃあ、魔石は?」
「食えるぞ。でもあれはどっちかっつーと魔力を取り込んで溜めとく感じだな。今みたいに弱りきってるやつを、すぐ元気にするのには向いてねぇと思う」
リムがなるほどと小さく呟く。
「だから今すぐ何とかしたいなら、薬草かポーション。そっちの方が――」
「分かった!」
コウが最後まで言い切るより早く、ハルは片手をポシェットへ突っ込んでいた。
「お、おい、ハル?」
返事をする暇さえ惜しいとばかりに中を探り、一本、二本、三本と、持ってきていたポーションを次々に取り出していく。
傷を負った時のためのもの。
体力を大きく消耗した時のためのもの。
もしもの時を考えて多めに入れてもらっていた予備まで、使えそうなものを片っ端から地面へ並べると、ハルはその中から一本を掴み、迷うことなく栓を抜いた。
「よし。だったら、使えるだけ使ってみる!」
「いや、ありったけって――」
リムが何かを言うより先に、ハルは腕の中で明滅する光へ、ポーションをゆっくりと注ぎ始めていた。
ツムギの物語はしばらくの間不定期更新、ハルの物語は月曜日の23時ごろまでに1話投稿します
同じ世界のお話です
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