助けを呼ぶ声とリムの正体
巨大な黒いスライムのような魔物を前に、三人の間から自然と会話が消えた。
漂ってくる禍々しい魔力は距離が離れている今でさえ肌を刺すようで、あれに不用意に近づいてはいけないという本能的な危機感だけが、静かな森の中に重く広がっている。
やがて最初に口を開いたのはリムだった。
「……とにかく、一度戻ろう」
その声には、今までの余裕はなかった。
「これは俺たちだけでどうにかできる相手じゃない。ギルドへ報告して、腕の立つ冒険者たちと一緒に来るべきだ」
普段は飄々としているリムがここまで断言するのを見て、ハルもコウも状況の深刻さを改めて理解する。
「……う、うん」
「だな……」
二人とも緊張した面持ちのまま、小さく頷いた。
コウはもう一度だけ上空へ目を向け、周囲に他の魔物がいないことを確認すると、翼を大きく広げた。
「よし、急いで戻――」
その時だった。
『……た、たすけ……』
あまりにもか細く、風へ溶け込むような声。
耳を澄まさなければ聞き逃してしまうほど小さなその声は、確かにハルの耳へ届いた。
『……たすけて……』
ハルは思わず足を止める。
「え……?」
帰ろうと踵を返しかけていた身体が、無意識のうちに再び森の奥へ向き直る。
鼓動だけが急に早くなった。
「ねえ、今の聞こえた?」
ハルは振り返り、コウとリムの顔を交互に見た。
「『助けて』って……誰かが言ったような気がしたんだけど」
森は静まり返っている。
風が枯れ枝を揺らす音しか聞こえない。
コウとリムは顔を見合わせ、それからゆっくりと首を横へ振った。
その直後だった。
『……たすけて……』
先ほどよりも、ほんの少しだけはっきりとした声が、森の静寂を縫うように三人の耳へ届く。
今度は聞き間違いではなかった。
コウの羽がぴくりと震える。
「……聞こえた、な?」
警戒を解かないまま小さく呟くと、ハルとリムも真剣な表情で静かに頷いた。
誰も言葉を発しない。
三人は互いの顔を見つめ、どうするべきかを目だけで探り合う。
重たい沈黙を破ったのは、やはりリムだった。
「……リスクが高すぎる」
視線は巨大な黒い魔物から一瞬たりとも逸らさない。
「そもそも、その声が本当に人のものなのかすら分からない。この森全体がおかしい以上、魔物の罠って可能性だって十分ある」
一度息を吐き、言葉を続ける。
「やっぱり一度戻るべきだ。ギルドへ報告して、人を集めてから来た方がいい」
コウも苦い表情で頷く。
「だよなぁ……」
そう言いながらも、何度も巨大な魔物の方へ視線を向けてしまう。
もし本当に誰かが助けを求めているのだとしたら。
そんな考えが頭をよぎり、簡単には割り切れない。
一方のハルは、今にも飛び出しそうなほど身体へ力が入っていた。
声が聞こえた方向だけを見つめ、その一歩を踏み出そうとする。
その様子に気づいたリムが、とっさにハルの肩へ手を伸ばした。
「待て、ハル!」
いつになく強い口調だった。
「安全が確認できるまで絶対に行くな!」
肩をしっかり掴み、真っ直ぐ目を見る。
「もしあれが罠だったらどうする。助けに行ったお前まで捕まったら、助ける相手が一人から二人に増えるだけだ。そんなことになったら、もうどうにもならない」
ハルは唇を強く噛み締める。
頭では分かっていた。
リムの言うことが正しいことも。
今は冷静になるべきだということも。
それでも――。
「でも……」
震える声が漏れる。
「行かないと……助けないと……」
視線は巨大な魔物の向こうから聞こえてきた声の方角へ釘付けのまま動かない。
顔は青ざめ、拳はぎゅっと握り締められていた。
目の前で誰かが助けを求めている。
その事実だけが、ハルの心を激しく揺さぶっていた。
目の前で今にも飛び出しそうになっているハルを見つめ、リムは小さくため息を吐いた。
その表情には焦りも苛立ちもなく、何かを決意したような静かな覚悟だけが浮かんでいる。
「……わかった」
ぽつりと呟くと、腰の剣へそっと手を添えた。
「だったら俺が確認してくる」
その一言に、ハルとコウは同時に顔を上げる。
「お前たち二人は街へ戻れ。そしてギルドへ知らせてくれ」
迷いのない口調だった。
しかし、その言葉を聞いたハルは勢いよく首を横へ振る。
「そんなこと、できるわけないじゃないか!」
思わず一歩前へ出る。
「僕も一緒に行く。一人より二人、二人より三人の方がいいに決まってる!」
真っ直ぐリムを見つめ、その瞳には一歩も引くつもりのない強い意志が宿っていた。
「それに――」
何かを続けようと口を開く。
だが、その言葉をリムが静かに遮る。
「いや、お前たちは足手まといだ」
その一言だけで、場の空気がぴんと張り詰めた。普段の柔らかな口調は消え、命令するような力強い声で言い切った。
「今すぐ街へ戻れ」
一歩だけ前へ出ると、ハルとコウを真っ直ぐ見据えた。
「本当なら、これはまだ言うべきではなかったんだが…… でも、こうなった以上は仕方ないか」
一度だけ深呼吸し、静かに告げる。
「俺はAランク冒険者だ」
ハルとコウの表情が一瞬で固まる。
「……そして、お前たち二人のAランク試験官でもある」
その事実を隠していた理由は、今は語らない。
ただ、それだけを伝えれば十分だった。
「俺は強い」
短く、それでいて揺るぎない言葉だった。
「だから、大丈夫だ」
森の奥から漂う禍々しい魔力の中で、その一言だけが妙に力強く響く。
ハルもコウも、しばらく何も言えなかった。
口を開こうとしても言葉にならず、ただ目の前の少年を見つめる。
今までずっと年の近い冒険者だと思っていた。
同じ目線で話し、同じように悩み、一緒に考えてくれていた。
そのリムが――。
Aランク冒険者。
しかも、自分たちの試験官。
あまりにも突然明かされた事実に、二人はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
ツムギの物語はしばらくの間不定期更新、ハルの物語は月曜日の23時ごろまでに1話投稿します
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