閑話 セン爺と透輝液の爪飾り
山道を抜けた先、村の外れにある小高い丘。
柔らかな陽射しの下で、薬草畑が静かに揺れていた。
その縁に立ったハルは、胸いっぱいに息を吸い込むと――
「セン爺ーーー!」
弾むような声を張り上げた。
畑の真ん中で腰を落とし、草を選り分けていた老人が、ぴたりと手を止める。
ゆっくりと背を伸ばし、土に染まった手で帽子を押さえながら顔を上げた。
「……おお。坊か」
くしゃりと皺の刻まれた顔に、確かな笑みが浮かぶ。
「久しぶりじゃな。元気だったか?」
風に乗って届くその声は、畑仕事の合間とは思えないほどよく通っていた。
ハルは満面の笑みで、力いっぱい頷く。
「はいーーー!」
そう返すや否や、畝のあいだを器用に縫いながら、セン爺のもとへと駆けていく。
草を踏まないよう気をつけながらも、その足取りは軽く、楽しさを隠そうともしていなかった。
その様子を見て、セン爺はふっと鼻を鳴らす。
「……相変わらず、風みたいな坊じゃ」
手を止め、立ち上がった老人の足元で、薬草がさらりと揺れた。
ハルは少し息を切らしながら、その前に駆け寄る。
「セン爺……! 今日は、渡したいものがあって来ました」
弾む息の合間から、それでもきちんと伝えようとする声音だった。
セン爺は一瞬だけ目を細め、ハルの顔をじっと見つめる。
その視線は、値踏みではなく、無事を確かめるような静かなものだった。
「……ほう」
短く声を漏らしたあと、ふっと口元を緩める。
「そうかそうか。わざわざ来てくれたか」
帽子のつばを指で押し上げ、ゆっくりと頷く。
「ありがたい話じゃ。……だが、その前にだ」
畑をぐるりと見回し、腰を軽く伸ばすと、
「昼飯は、まだだろう?」
まるで決めつけるような口調に、どこか温かみがあった。
ハルは一瞬きょとんとしたあと、苦笑いして頷く。
「えへへ……はい」
「なら、話は後じゃ。腹が減っては、草の声も聞こえん」
そう言って、畑仕事の道具をまとめ、手早く一段落をつける。
「来い。家に寄っていけ」
一拍置いて、帽子のつばを指で押さえたまま、付け足すように続けた。
「……もちろん、そこのちっこいのも一緒にな」
それだけ告げて、先に歩き出す背中は小さいが、どっしりとしていた。
ハルはその後ろ姿を見て、ほっとしたように笑い、少しだけ歩調を緩めてついていく。
畑を抜け、乾燥棚の横を通り過ぎ、見慣れた山小屋の扉へと向かう。
風に乗って、土と薬草の匂いが、やさしく鼻先をくすぐった。
家に入ると、セン爺は迷いのない手つきで囲炉裏に火を入れ、手早く昼の支度を始めた。
鍋に水を張り、刻んだ根菜や葉物を次々と放り込んでいく。調味は最低限、それでも香りは豊かで、湯気と一緒に胃の奥を刺激した。
ほどなくして並んだ昼飯は、野菜たっぷりの汁物と、素朴な煮込み、それに炊きたての飯。
派手さはないのに、どれも不思議と目を引く。
ハルは箸を取り、一口、口に運ぶ。
(……やっぱり、美味しい)
滋味がじんわりと広がり、食べ進めるごとに体の奥がぽかぽかしてくる。
疲れが抜けるような、魔力の巡りが整うような——そんな感覚。
その隣で、ハルの隣でご飯を食べていたコウが、じっと鍋の方を見つめていたかと思うと、
小さく鼻を鳴らした。
「……うめえな。なんかここの飯、力が湧いてこねぇか?」
思わずハルが笑って、こくりと頷く。
「うんうん。でしょ?」
(この野菜たち……きっと、ちゃんと効くんだろうな)
そう思いながら、無意識に箸が進んでいた。
食事をしながら、ハルはぽつぽつと近況を話す。
最近行ったダンジョンのこと。そこでコウに出会ったこと。
持ち帰った素材で、仲間たちが魔道具や装備を作っていること。
どれも、誇らしさを隠しきれない声だった。
「それでね!」
話の流れが一段落したところで、ハルはポシェットに手を入れた。
「セン爺のことを話したらさ、こんなの作ってくれたんだよ」
そう言って、
コトリと音を立て、木のテーブルの上に小さなボトルを置く。
透き通った液体が中で揺れ、淡く光を反射した。
セン爺は箸を置き、ゆっくりとそれを手に取る。
指先で瓶を回し、光にかざすようにして眺めた。
「……ほう」
低く、感心したような声。
「これは……?」
瓶を傾けながら、じっと観察するその目は、紛れもなく薬師のそれだった。
「……晶樹液、か?」
低く呟き、指先で瓶をくるりと回す。
そう呟き、もう一度、ハルへ視線を向ける。
「うん! 正解!これをね――」
ハルは少し身を乗り出して、嬉しそうに説明を始めた。
「こうして……月影石の粉と混ぜるんだ」
言いながら、ポシェットからパレットを取り出し、筆を使い混ぜ始める。
その後、ハルは実際に自分の指を差し出し、慣れた手つきで透輝液をひと塗りした。
透明の膜が、爪の表面に薄く広がる。
「このあとで……」
小さく息を吸い、
「《ライト》」
やわらかな光が指先を包み込む。
次の瞬間、透輝液は淡く輝きながら硬化し、爪の表面に透明なコーティングを作り出した。
「……ほら。こうやって固まるんだ」
ハルは指を軽く動かし、光を受けてつやりと反射する爪を見せる。
「このコート、結構強くてさ。割れてる爪も、ちゃんと守ってくれると思うんだ」
そこで少しだけ声の調子を落として、照れくさそうに笑う。
「セン爺……前に、爪が割れて痛そうだったでしょ。だから、使ってもらえたらいいなって……それで、持ってきたんだ」
言い終えると、ハルはセン爺の反応を待つように、そっと指を引っ込めた。
囲炉裏の火が、ぱちりと小さく弾ける。
その音の中で、セン爺はしばらく黙ったまま、ハルの指先とボトルを交互に見つめていた。
やがて、深く刻まれた皺の奥で、目を細める。
「……こんな爺のことを考えて、仲間に頼んで、作ってもらったというわけか」
低く、噛みしめるような声だった。
「……ありがたいことじゃ。まったく」
短い言葉だったが、その響きは、囲炉裏の熱よりもあたたかかった。
ハルは少し照れたように笑い、後頭部をかきながら言う。
「えへへ……。それにね、この透輝液の爪飾り、セン爺のおかげで完成したって、みんなすごく喜んでてさ」
ボトルを指でつつきながら、嬉しそうに続ける。
「今度は、普通の爪飾りとして、バザールで売り出すんだよ。医療用とは別で、ちゃんとした商品として!」
セン爺は、うん、うん、と小さく頷きながら話を聞いていた。
「……バザール、か」
ぽつりと呟き、囲炉裏の火を見る。
「……ずいぶん、行っておらんな。ああいう賑やかな場所も、たまには悪くない」
その言葉に、ハルの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあさ、来てよ! バザール!」
勢いよく身を乗り出し、
「ついでに、POTENハウスにも遊びに来てよ。みんな、きっと喜ぶと思うし!」
セン爺は一瞬だけ目を丸くし、それから、ふっと息を漏らすように笑った。
「……やれやれ。若いもんは、誘うのがうまいのう」
けれど、その声音には、断る気配はなかった。
囲炉裏の火が静かに燃え、外では風が薬草を揺らす。
そんな穏やかな午後の時間は、いつの間にか、ゆっくりと夕方へと近づいていった。
——こうして、またひとつ、ささやかな約束が結ばれたのだった。
ツムギの物語は水曜日と土曜日、ハルの物語は月曜日の23時ごろまでに1話投稿します
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