第47話 オカアサン
※一部に少々過激な流血描写があります。苦手な方はご注意ください。
目の前に広がるのは薄暗い空間。
ここはおそらく地下室で――私は今、縄で椅子に縛られている。
音一つない静かな空間。
そこに、奥の方からこつ、こつ、と足音が近づいてくる。
目の前に来た彼女は、しゃがみこんで私の顔を覗き込み、にんまりと笑った。
「あはは、目が覚めたんだね。今日もおはよう」
――あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
出された紅茶を口に含み唐突な眠気に襲われて以降、私はずっとこの部屋に監禁されている。
身動きも取れない私は、ただ彼女のいいなりになっていることしかできなかった。
初めはどうにかして逃げようと必死になってもみた。
本能がそうさせていた。
だが、私を縛る縄が緩むことはなく――
生きる気力をなくした私には、抵抗する力などもはやなかった。
どんなに叫んだとしても、助けは来ない。
人殺しの私を助けてくれる人なんて、誰もいない。
私の周りにはもう、誰も――
ふと、最初に出会ったときの彼女の笑顔が頭を過って、吐き気がした。
あの時彼女に出された紅茶には、睡眠薬が入っていた。
私に向けられた偽りの笑顔。偽りの温もり。
分かっていたはずなのに――本当に私を助けてくれる人なんて、いるはずなかったのに。
「そろそろお腹が空いた頃だと思って。はい、今日のご飯だよ」
私の目の前でしゃがんだ彼女はそう言って微笑むと、手元のスープを口に近づける。
「口開けて。ほら、あーんして」
わざと作ったような甘ったるい彼女の声。
スプーンに入った真っ赤なスープが、不気味に揺れる。
これだけは、食べてはいけない――本能がそう感じた。
「……また、食べてくれないの?」
彼女は不満げにため息をついた。
その瞬間――やばい、と感じた。
「言うことを聞かない悪い子は、お母さんがおしおきをしなきゃね」
彼女はおもむろに立ち上がった。
立ち上がった彼女の表情に、暗い影が落ちる。
全身から汗がふきだしていく。
手足の震えが止まらなくなる。
キリキリ、と鋭い音がするのが聞こえた。
彼女の手元で、何かがキラリと光を放つのが目に入った。
やめて――と声を出す力などもはや私にはない。
全身が震え、椅子がガタガタと音を立てる。
私は恐怖に怯えた目で、ただひたすら彼女に懇願することしかできなかった。
――どど、どうか、ゆ、ゆゆ、ゆるしてください。
お、お願い、します。どど、どうか――
しかし、私を見下ろす彼女の瞳は凍り付くように冷たく、
次の瞬間、私は小さく悲鳴を上げた。
彼女の手が、私の傷だらけの右腕を掴む。
はあ、はあ……
全身に戦慄が走る。
はあ、はあっ、はあっ……
呼吸が荒くなる。
私は彼女に祈るような視線を送ることしかできなかった。
彼女の慈悲を請うことしかできなかった。
しかし、鈍く光る小さな刃は――真っ直ぐに私の腕に突き刺さった。
「ああぁああああっ――――……!」
私の口から掠れた叫び声が出ていく。
呼吸が早まっていく。
流れ落ちる血液が、ぽたり、ぽたりと膝の上に落ちる。
苦痛がこれだけでは終わらないことを、私の身体は覚えている。
彼女の右の掌の中から、不気味にキリキリ、と音が響く。
彼女は私の右腕を強く握り直すと、錆びた刃を少しずつ手前に引いていった。
「――――……っ!」
肉が割け、腕に縦の直線が引かれていく。
カッターナイフの通った後の傷口から、血が溢れるようにこぼれていく。
声にならない悲鳴が、力なく喉を通り抜けていった。
彼女は5センチほど私の右腕を切り裂いたところで、その手を止めた。
「今日はこれでおしまいにしてあげる」
彼女はもとの笑顔に戻ると、再びしゃがみ込んだ。
彼女が私の耳元に顔を近づけた瞬間、首筋がゾクりとした。
彼女は耳元で囁くようにして言った。
「次は……ちゃんと食べてね」
その言葉を聞いた瞬間、私の首の筋肉が、反射的に何度も頭を縦に振らせた。
彼女はにっこりと微笑んでから、再び真っ赤なスープをスプーンで掬った。
不気味な輝きを放つスープが口元に運ばれていく。
理性が拒否するより前に、私の口が開いていた。
次はない――本能がそう感じていた。
味が分からなくなる頃にはもう、スープは全て私の喉を通っていた。
彼女は満足気に微笑み、空になった皿を片付けると、再び暗闇の奥へと消えていった。
誰もいなくなった部屋で私はゆっくりと息を吸った。
呼吸が少しずつもとのペースを取り戻していく。
彼女がいなくなった空間で、全身にじんわりと安堵と疲労が広がっていった。
――あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
光の差し込まない薄暗い部屋の中、椅子に縛られたまま、私はずっと動けないままだった。
既に何本もの縦の線が入った右腕から、血が滴り落ちて地面に赤い染みを作っていく。
どんなに叫んでも、私の叫び声は届かない。
どんなに助けを求めても、私を助けてくれる人はもう、ここにはいない。
コンクリートの無機質な壁を眺めながら、私は静かに呼吸をした。
右腕の痛みは時折波のように強くなったり弱くなったりしたが、その痛みもだんだんと感じなくなってきた。
私はたくさんの人を傷つけてきた。
これはその報いなのかもしれない、と思った。
この部屋で彼女に監禁されてから、既に時間の感覚は分からなくなった。
ここに来て何時間、いや、何日、何ヶ月が経ったのだろう。
何も分からなかった。
逃げ出す気力も体力も、もはや持ちあわせていなかった。
下手に逃げ出そうとしてまた右腕の傷を増やすことになったら――そう考えると、全身が震えあがるような思いがした。
私は逃げられない。
助けてくれる人も、誰もいない。
だとしたら、私はこのままずっとここにいるのだろうか。
彼女のなすがままになって、ここで死んでいくのだろうか。
――この苦痛が終わるのは、いったいいつになるのだろう。
この苦痛は、いつまで続くのだろう。
右腕がじんじんと痛む中で、再びぼんやりと意識が遠のいていった。
☆★☆
その日の彼女はご機嫌だった。
「ふふ、今日もちゃんと残さず食べたね。さすが、良い子」
彼女はにっこりと微笑んだ。
丸ぶちの眼鏡が傾き、頬に飛び散った赤い絵の具がぐにゃりと曲がった。
彼女はお皿を片付けながら言った。
「みんな、悪い子はみんな、いなくなってしまったの。だから、ずっと一人きりだった」
一瞬、彼女の顔に暗い影が差した。
――コワイ。
無意識のうちに全身が強張っていた。
鼓動が早くなる。
「でもね、あなたは良い子だから、大丈夫。ずっと一緒だよ」
彼女が再び明るい笑顔に戻る。
――ヨカッタ。
その瞬間、全身の力が抜け、私はゆっくりと肩を下した。
彼女は私の頭を撫でてから、部屋の奥へと向かっていった。
彼女の笑顔で、私は心の平安を取り戻した。
いったい、どれくらいこうして彼女と過ごしていただろう。
いつからこうして過ごしていただろう。
それでも、まあ、そんなことはもう、どうでもいい。
今まで何に怯えていたのかは分からないが、彼女の笑顔こそがすべてだった。
彼女の笑顔はまるで太陽のようで、彼女が笑ってくれるだけで、私は幸せだった。
部屋の奥でパタパタと音がする。
彼女が作業をする音だ。
彼女が傍に居るだけで、私は安心していた。
ふと、部屋の天井を見上げた。
薄暗かった部屋が今日は少し明るくて、今までは見えなかったものがそこに見えた。
真っ暗な天井に、くっきりと、白い月が浮かんでいた。
白い絵の具が、他のどの色よりも澄んでいた。
その瞬間、瞳から自然と涙が零れていた。
どうして涙を流しているのかも分からぬまま、それでも目から涙が溢れて溢れて、止まらなかった。
「あ…………」
長い間震わせなかった喉が震え、唇の間から声が漏れだした。
思い出したのだ。
あの日、一人でベンチで夜空を見上げ、こんな風に涙していたことを。
思い出したのだ。
私は、彼女に監禁されていたのだということを――
喉の奥から、急に吐き気が込み上げてきた。
先程飲んだスープを吐き出したくなった。
頭を撫でられ安心していた自分に、寒気がした。
暗闇の奥から聞こえてくる彼女の作業する音が、不気味でたまらなく感じた。
「い……いや……」
しばらく使っていなかった喉から、弱々しい声が出ていく。
「にげ……なきゃ……」
意識がはっきりとしてくる。
私は何とか縄をほどこうと全身に力を込めた。
しかし、私がどんなにもがいても、縄は緩む気配がない。
しばらくして、こちらに足音が近づいてきた。
椅子のガタつく音を聞いて、彼女がやってきたのだ。
「何……してるの」
彼女は蒼褪めた表情でこちらを見ていた。
私は縄をほどこうと、必死にもがく。
「ここ、から……にげ……なきゃ……」
小さな声で繰り返し呟きながら、私は足掻いた。
もがいて、足掻いて、あがいてあがいて――
その瞬間、彼女の強烈な殴打に、弱った私は抵抗することもできずあっけなく倒された。
椅子に縛り付けられた私は、椅子とともに地面に転倒する。
「そう……また家出しようとするんだ……あなたも」
彼女の顔がみるみるうちに陰っていく。
私は本能で危険を感じた。
――しまった、と思った。
だが、時はもう遅かった。
右腕の傷が疼きだし、激しい痛みを思い出す。
脳味噌が全身に逃げろ、と命令を出すが、縄で縛られた私は身動きをとることができなかった。
彼女がパタ、パタと部屋の奥に向かう。
私は地面で必死にもがいた。
やばい。逃げなければ。
また、あの苦痛が――
だが、暗闇の奥から現れた彼女の表情は少し違った。
寂しそうな表情。
それに、彼女の掌から、いつもの不気味な音がしなかった。
彼女は一言だけ、冷たい声で言い放った。
「もう、あなたに用はない」
彼女が握っていたのは血の付いた錆びれた包丁で、
私は逃げる間もなく――その瞬間、錆びついた刃が私の胸元に突き刺さった。
目の前が真っ暗な闇に包まれていく中、私は何故か、彼女の最後の言葉が忘れられなかった。
《モウ アナタニ ヨウハ ナイ》




