第46話 優しい人
――深夜。
昼間の突然の大雨がまるで嘘であったかのように、雨音一つしない静かな夜。
晴れ渡った夜空には月が輝き、秋の澄み切った空気が私の肌に触れる。
家々の明かりは消え、人も寝静まった頃。
私は一人、夜道を歩いていた。
行くあてもなく、ただ、ぼんやりと外の道を歩いていた。
ある公園に目が留まった。
通学路の途中にある、さびれた公園。
水の枯れ果てた噴水が、その寂寥感を煽る。
――取り壊してしまえばいいのに。
ふと、そう思った。
ゆっくりと、公園の中のベンチに腰を掛けた。
夜空を見上げ、大きく息を吸う。
星一つない、真っ暗な闇の中に、月だけがくっきりと輝いていた。
雨雲のない、澄んだ綺麗な空。
暗闇の中にたった一つだけ輝く白い月を見ていると、余計に寂しくなってくる気がした。
物音一つしない公園に、私の呼吸だけが響く。
このまま闇の中に溶けてしまいたいと思った。
――もう、自分の存在する意味が、分からなくなったから。
《永美ちゃん……本当に事故だったのかな》
友にとって自分は敵。
私が、私達の関係を壊した。
《お父さんも拓也もいつまでも帰ってこないんだもの》
母はもう、私のことなど見ていない。
それに、拓也を救えなかったのは――私だ。
だから母親を壊してしまったのも、私のせい。
《これが、俺の仕事だから》
もう、私の傍にミタはいない。
彼にはやることがある――わかっていたはずなのに。
勝手に力を奪っておいて、一人で悩んで、苦しんで、挙句に頼ろうとして、すがろうとして……
最悪じゃん、私。
たくさん、たくさん、たくさん人を殺してきた。
友達もこの手で殺した。
《人の大切なものを奪っておいて笑っていられるなんて、最低よね》
《私から大切なものを奪っておいて平然と笑っている、この男――》
《人を殺して平然と笑って、のうのうと生きている。そんなあんたの言うことを、誰が信じると思う?》
《所詮あんたは人殺し。ゲーム感覚で私達の命を弄ぶ、連続殺人犯じゃない》
私だって……弟を殺したあの男と同じだった。
私に味方してくれる人なんて、誰もいない。
――そんなの、あたりまえだよ……
だって、私は――
ただの人殺しだから。
――死にたい。
もう、誰も傷つけたくないよ……。
《私は、同じように苦しむたくさんの人達の心を、救うことができる》
「そんなの嘘だ……もう、私なんていない方がいいんだ」
《この力はきっと、神様からもらった力だから》
「私なんて……本当は、最初から神様に見捨てられてた」
夜空に浮かぶ月を見上げる。
涙で月がにじんでいく。
人気のない公園でひとり、私はすすり泣いた。
私の周りには、誰もいない。
このまま消えてしまいたかった。
そのとき、自分の方に近づいてくる足音を聞いて、私ははっとしてその方を向いた。
「どうしたの、あなた?」
そう言って、その人物はにこりと笑ってから、私に優しく声をかけた。
「ずっとこんなところにいたら、風邪ひいちゃうよ」
「…………」
思わず言葉を失う私を見て微笑みながら、彼女は「ちょっと隣座っていい?」と言って隣に座った。
優しそうな人だった。
三十代前半くらいの女性で、黒髪のショートカット。真っ白な肌の美人――なのだろうが、少し変わった丸眼鏡がそれを台無しにしている。
服のあちこちに、よく見ると様々な色のシミのようなものがついていた。
「はは、ごめん、変な恰好だよね」
そう言って笑う彼女の丸眼鏡が、少し傾く。
落ち着きのある優しい声だった。
彼女は自分のことを画家だと言った。
よくアトリエにこもって絵を描いているのだが、今日はイメージに詰まってここに来たらしい。
このベンチは彼女の特等席で、なんでも、ここに座っていると絵のイメージが湧きやすいのだそうだ。
「あなたこそ、どうしてこんなところにいたの?」
「私は……」
「それに、こんな夜中じゃ、ご家族も心配するんじゃない?」
――家族。
そんなもの、もう私には……
私が言葉に詰まっていると、彼女はクスリと笑いながら続けた。
「なるほど、家出してきたんでしょ」
「……そんなところです」
私は彼女の言葉に抵抗する気力もなかったので、とりあえず、適当に話を合わせることにした。
その後も彼女がしきりに私に話しかけてくるので、私は適当に話を合わせた。
彼女は人懐っこい性格のようで、初対面の私にも何の躊躇いも遠慮もなくいろいろなことを話してくるし、聞いてくる。
そして、何やら嬉しそうに話す彼女の笑顔は明るかった。
私に向けるのがもったいないくらい、明る過ぎた。
「……もう、私のことなんて放っておいてください」
彼女の隣にいることにいよいよ我慢できなくなった私は、思わず小さな声で言葉を漏らしていた。
きっと優しい人なのだろう。
孤独だった私を構ってくれる、優しい笑顔の彼女。
でも、関わったらまた、傷つけてしまうだろうから。
私は所詮、誰も救うことのできない、人殺しで……
「だめ、こんな夜中に、女の子一人放ってなんかおけないでしょ」
「…………」
彼女は腕を組んで頬を膨らませる。
一旦しかめ面をした表情がまた元の笑顔に緩んだとき、彼女は優しい声で言った。
「とりあえず、今日はうちに来たらいいよ。あ、でも私一人暮らしだから、その、キャンバスとか絵の具とかいろいろ散らかってるし、何にもお構いできなくて申し訳ないんだけど」
「そんな……私なんか……いいですから」
「ふふ、だめだよ、こんなとこいたら風邪ひいちゃうんだから。あったかいもの飲んで、まずは冷えた身体温めないとね」
彼女の手が私の手をとる。
温かい手だった。
私にそれを拒めるだけの気力もなく、私はなすがままに、彼女に手をひかれていったのだった。
誰もいなくなった公園のベンチに突然、冷たい風が通り抜けていった。
☆★☆
彼女の家は大きかった。
まるでどこかの倉庫を借りているかのようなその家の1階は、最低限の家財道具だけが揃えられているといった印象を受けた。
コンクリートの壁に、赤や黒、黄色や紫といった独特の色使いで絵が描かれている――というよりは、絵の具がそのまま塗りつけられているようなイメージだった。
家に入った瞬間思わず口を塞ぐことができずにいた私を見て、彼女は恥ずかしそうに笑いながら言った。
「はは、私の家ね、入ったときは皆そんな顔してるの」
「す、すみません……」
「ううん、別に謝らなくてもいいんだよ」
これがアートとでもいうのかもしれない。
個性豊かな部屋だった。
「とりあえず、そこのソファに腰かけててね。今紅茶入れてくるから」
「……ありがとうございます」
彼女は「自分の家だと思ってくつろいでていいからね」と言って私に微笑むと、軽い足取りでキッチンへと向かっていった。
キッチンの奥から時折鼻歌が聞こえてくる。
私はなんだか心がむず痒くなった。
彼女はどうして私にここまで優しくしてくれるのだろう。
こんな私に、どうしてここまでのことをするのだろう。
私は、たくさんの人を傷つけてきた人間で。
こんなことしてもらう価値なんて、ないはずなのに。
ソファに少し深く腰をかけた。
私の体重で、古びたソファがギシリ、と鈍い音を立てる。
あちこちから綿が飛び出し、ピンクや黄色の絵の具が飛び散ったソファ。
おそらく彼女はこのソファと何年も過ごしてきたのだろう。
彼女の用意したソファは、決してお客様向けのソファとはいえない。
それでも、そんな彼女の飾らない優しさがたまらなく嬉しくて、孤独で冷え切っていた私の心が少しずつ温まっていくのを感じた。
壊れかけていた心が、少しずつ、温もりを取り戻していくような気がした。
「はい、これ飲んで元気出して」
「ありがとう……ございます……」
紅茶に手を伸ばそうとする私の手に、温かいものが零れ落ちた。
気がつけば視界は潤み、声は涙ぐんでいた。
「家族と何があったかは知らないけどさ」
彼女は私の隣に座り、遠くを見つめるような顔で呟いた。
「そういうのはね、大切にした方がいいよ」
落ち着いた声だった。
「私には……本当の家族は居なかったから」
彼女は遠くを見つめていた。少し寂しそうな表情だった。
「だからこうして……ずっと一人で、絵を描いてきた。絵を描きながら、求めてきたんだ。温もりと――」
視界が少しずつ霞んでいく。
飲んでいた紅茶のカップが、手の中から零れ落ちた。
意識が遠のいていく中、私の頭の中で彼女の声がぼんやりとこだましていた。
「――私だけの、自由を」




