第9話 「圏外ですか、ここ!?」
《応答》
その二文字が見えた瞬間、レインは反射的に息を止めた。
何かが返事をした。それだけは分かるのだが、誰が、どこから、何に対して返事をしたのかはまるで分からない。
アルベルトは動かない。地面へ突き立てられた聖剣も、そこから広がる金色の紋様も昨夜からほとんど変わっていなかった。ただ一つ違うのは、その紋様から伸びた細い光が、今は確かにマリエラの胸元にある聖印へ繋がっていることだった。
「セレスティア様……」
マリエラがもう一度、女神の名を呼んだ。
しかし、返事はない。少なくとも声は聞こえず、空から光が降り注ぐこともなければ、雲が割れて女神が姿を現すこともなかった。朝日を浴びたリト村では鶏が鳴き、少し離れた家から鍋の蓋を落としたらしい派手な音まで聞こえてくる。
女神が降臨するには、ずいぶん生活感のある朝だった。
「……来ないな」
レインが呟くと、隣にいたリシェルが横目で見る。
「何を期待してるの?」
「いや、返事したならなんか言うだろ。普通」
「女神に普通を求めないで」
「じゃあ何のための《応答》なんだよ」
「私に聞かれても知らないわよ」
リシェルは呆れたように答えたが、視線だけはアルベルトから離さなかった。肩に掛けた毛布の端を握る指にも、いつの間にか力が入っている。
その周囲には《警戒》が浮かんでいた。
レインはそれに気づいたものの、口にはしなかった。
「レイン君」
マリエラに呼ばれて顔を上げる。
「今、《応答》と仰いましたか?」
「あ」
どうやら声に出していたらしい。
マリエラは聖印を両手で包んだまま、真っ直ぐレインを見ていた。先ほどまでの驚きだけではなく、何かを慎重に確かめようとする色がその顔に浮かんでいる。
「えっと……言った」
「何が、応答したのです?」
「それが分かったら俺も困ってない」
「では、なぜその言葉を?」
当然の質問だった。
レインが頭を掻いている間にも、村人たちの視線が集まってくる。村長も、護衛のロイドも、少し離れた場所にいる見張りたちもこちらを見ていた。
隣ではリシェルだけが、嫌な予感でもしたように目を細めている。
「レイン」
「分かってるよ」
「本当に?」
「たぶん」
「それを分かってないって言うのよ」
小声で釘を刺され、レインは少し考えた。
全部を話すわけにはいかない。リシェルが魔王だということはもちろん、アルベルトが一度死んでいることも、今この場で口にすれば何が起こるか分からなかった。
とはいえ、ここまで目の前で異常が起きている以上、何も言わずに済ませるのも難しそうだ。
「俺、たまに変なものが見えるんだ」
マリエラが瞬きをする。
「変なもの?」
「言葉みたいなやつ。人とか物とか……たまに、こういう変なのにも出る」
レインはアルベルトの足元を指差した。
「昨夜から、そこに《調停要求》って出てた」
村長が目を見開く。
「待て、レイン。お前、昨日そんなこと言っとらんかっただろ」
「言ったら信じた?」
「……言ってみんと分からん」
「絶対信じなかった顔してるぞ」
村長が何か言い返そうと口を開いたが、その前にマリエラが一歩前へ出た。
「《調停要求》……」
彼女はその言葉を確かめるように繰り返した。
「それが、今は?」
「《応答》。その前に一回《接続》になって、そのあと《応答待機》になった」
マリエラの表情が変わった。驚いたというより、理解できないものを前にして、自分の知識と照らし合わせているようだった。
「そんな……」
「教会だと普通じゃないの?」
「普通ではありません」
即答だったので、レインは少し安心した。
「よかった」
「何がです?」
「教会では毎朝やってるとか言われたら、俺だけ何も知らないみたいで恥ずかしいだろ」
「気にするところ、そこ?」
リシェルが呆れている。
マリエラは困ったように眉を下げたが、すぐに真剣な顔へ戻った。
「聖印が祈りに応じて光を帯びるという伝承はあります。高位の神官が祝福を受けた際、聖印に光が宿ったという記録も残されています。ただ、《接続》や《応答待機》という言葉を、私は教義でも聖典でも聞いたことがありません」
「じゃあ、これが女神様からの返事ってわけでもない?」
「分かりません」
マリエラは迷わずそう答えた。
レインは少し意外に思った。教会の人間なら、聖印が光った時点で「女神様の御業です」と言い切るものだと勝手に思っていたのだが、彼女は自分の聖印を見下ろしながら慎重に言葉を選んでいる。
「私はセレスティア様を信じています。だからこそ、分からないことを何でも女神様の御業だと決めつけるべきではないと思っています」
「へえ」
「何です?」
「いや。教会の人って、もっと何でも女神様のせいにするのかと思ってた」
「どういう偏見ですか」
「村に教会ないから」
「それは理由になりません」
少し怒られた。
隣を見ると、リシェルが口元を緩めている。
「なんだよ」
「別に」
「今絶対笑っただろ」
「あなた、会って十分で聖職者に怒られるのね」
「才能かもしれない」
「要らない才能ね」
その時、マリエラの胸元で光っていた聖印がもう一度脈打った。
今度は先ほどより強く、マリエラが驚いて手を離すのとほぼ同時に、アルベルトの足元に広がっていた金色の紋様まで一気に明るくなる。
「シスター!」
ロイドがすぐさまマリエラの前へ出て、剣の柄へ手をかけた。村人たちもざわめきながら距離を取り、リシェルは反射的にレインの腕を掴んで後ろへ引こうとする。
「待って」
「何が見えるの?」
「今、変わった」
先ほどまで浮かんでいた《応答》は消えていた。その場所に新しく現れた意味を、レインは目を細めて読む。
《照会》
「照会……?」
「どういう意味?」
「知らねえよ。なんか調べてるとか、問い合わせてるとか……そういう感じじゃないのか?」
答えながら、レインは妙な違和感を覚えていた。
これまで見てきた意味とは、やはり何かが違う。
ゴブリンから見えた《飢餓》や《恐怖》には、その向こうに生き物がいた。リシェルの《孤独》にも、アルベルトの《守れ》にも、それを抱いている誰かがいた。
けれど、《照会》からは何も感じない。怒りも、焦りも、誰かの意志さえ見えてこない。
そこにあるのは、ただ何かを確かめようとする働きだけだった。
やがて《照会》の下へ、もう一つの意味が浮かぶ。
《対象情報要求》
「……なんだそれ」
さっきまでの軽口が自然に消えた。
「レイン?」
リシェルが腕を掴んだまま、顔を覗き込んでくる。
「《対象情報要求》って出た」
「対象って……誰のこと?」
レインはアルベルトを見た。
最初は彼のことかと思ったが、すぐに違うと気づく。聖剣から伸びた金色の線が地面を這うように進み、その先がまっすぐこちらへ向かっていた。
正確には、レインではない。
リシェルだ。
「……私?」
自分の足元まで届いた光を見ているのか、それともレインの顔から察したのか、リシェルが小さく呟いた。
金色の線が彼女の足元で止まると、そこに以前にも見た硬質な意味が現れた。
《魔王》
リシェルの表情が強張る。
しかし、それだけでは終わらなかった。《魔王》のすぐ隣に、あの時と同じようにもう一つの意味が浮かび上がる。
《リシェル》
二つは重ならず、どちらかが消えることもない。同じ一人の少女を示しながら、《魔王》と《リシェル》は並んで存在していた。
「まただ」
レインは思わず呟いた。
「何が?」
「お前、やっぱり二つある」
「二つ?」
「《魔王》と《リシェル》」
リシェルは何も言わなかった。
その代わり、少し離れたところでマリエラが息を呑む音がした。
「今……なんと仰いましたか?」
「あ」
しまった、と思った時には遅かった
リシェルは逃げようとはしなかった。毛布を肩に掛けたまま静かに立ち、ただレインの横顔を見ている。
「違う。いや、違わないけど、違うんだ」
「どっちなのよ」
隣から小さな声が飛んできた。
「今お前は黙ってて!」
「あなたが言ったんでしょう!」
「そうだけど!」
「レイン君」
マリエラの声は静かだった。
怒鳴りもしなければ、聖印を掲げて祈り始めることもない。それでも先ほどまでとは明らかに違う目でリシェルを見ている。
「その方は……?」
レインが何とか答えを探そうとしたところで、足元の金色の紋様が再び脈打った。
問い詰められるのを待ってくれる気はないらしい。
《魔王》と《リシェル》の間を確かめるように、細い光が何度も行き来する。そのたびに新しい意味が浮かび、《照合》から《不一致》へ、《再照合》から再び《不一致》へと変わっていった。
「……まだ分かんねえのか」
レインの小さな呟きに、リシェルが眉を寄せながら囁いて応える。
「何が?」
「こいつだよ。昨日と同じだ。お前が魔王なのかどうか、まだ決められてない」
「私は魔王よ」
「知ってる」
「なら何を迷ってるのよ」
「俺に聞くなって」
言い返した瞬間、アルベルトの右手が動いた。
指がゆっくりと聖剣の柄を握る。
それだけの動きだったのに、昨日あの剣が石を砕いた光景を知っているレインの身体は勝手に強張った。
「みんな、下がれ!」
叫ぶと、村人たちが一斉に後退した。ロイドが剣を抜き、マリエラを庇うように半歩前へ出る。
リシェルも身構えようとしたが、傷ついた身体は意思についてこなかった。膝から力が抜け、傾いた身体をレインが慌てて支える。
「無理すんな!」
「今それ言ってる場合!?」
リシェルはレインの肩を借りながら、それでもアルベルトから目を逸らさなかった。
聖剣が地面から抜ける。
刃に付着していた土がぱらぱらと落ち、同時に地面を覆っていた金色の紋様が薄れていった。
アルベルトの周囲には、昨日と同じ冷たい意味が戻ってくる。
《使命》
《討伐》
《完遂》
その下へ《対象確認》が加わった瞬間、アルベルトの顔がゆっくりとリシェルへ向いた。
「また始まる……」
リシェルの声に、昨日までの強さはなかった。
レインは彼女を支えていた腕を離し、そのまま一歩前へ出た。
「レイン!」
「大丈夫。こいつ、俺は斬らない」
「それは昨日の話でしょう!」
「今日もたぶん!」
「たぶんで命を張らないで!」
正論だったが、退くわけにもいかなかった。
アルベルトがリシェルを狙うのなら、自分が間に入ることで止まる可能性がある。それは昨日、実際に確かめている。
もちろん、《修正済》になった今でも同じ保証などどこにもない。
それでもレインは、アルベルトとリシェルの間に立った。
ロイドが後ろから声を上げる。
「おい、少年! 退け!」
「ちょっと待って!」
「何を待つんだ!」
「俺にも分かんない!」
「なら退け!」
「今考えてる!」
「考えてから出ろ!」
それも正論だった。
アルベルトの聖剣がゆっくりと持ち上がる。
さすがに怖い。
昨日は何度も目の前で見たはずなのに、慣れるものではなかった。聖剣が少し動くだけで喉が乾き、足の裏が地面に張り付いたようになる。
それでも、レインは逃げなかった。
アルベルトの剣が肩の高さまで上がったところで、その動きが止まる。
《対象確認》の下で《照合》が瞬き、すぐに《不一致》へ変わった。もう一度《照合》が現れても結果は同じで、最後には昨日と同じ《未確定》が浮かび上がる。
レインは息を吐きながら、肩越しにリシェルを見た。
彼女の周囲には今も《魔王》がある。
そして、その隣には《リシェル》がある。
どちらも消えていない。
世界がどちらを選ぶのか、レインには分からなかった。
ただ、見ているうちに別の疑問が浮かんできた。
そもそも、どうしてどちらか一つを選ばなければならないのだろう。
リシェルは魔王だ。それは本人も否定していないし、レインも否定するつもりはない。
同時に、彼女はリシェルでもある。
昨日、名前を聞いた。
口が悪くて、無茶をして、怪我人のくせに勝手に診療所を抜け出して、婆ちゃんが杖を投げるのを見て笑った。
その全部があっても、魔王ではいられるはずだ。
「……何が駄目なんだよ」
レインが誰にともなく呟いた時、マリエラの聖印が強く輝いた。
これまでで最も強い光だった。
「きゃっ……!」
マリエラが胸元を押さえ、ロイドが咄嗟に彼女の肩を支える。その光に呼応するようにアルベルトの身体がわずかに震え、レインの視界を埋めていた意味が一斉に揺らいだ。
《使命》も《討伐》も《完遂》も、まるで光に溶けるように薄れていく。
「……え?」
レインは目を凝らした。
意味が弱くなったのではない。《対象確認》も《未確定》も消え、それまでどんな相手にも何かしら見えていたものが、今のアルベルトからは本当に何一つ見えなくなっていた。
持ち上げられていた聖剣が傾く。
アルベルトの指が柄から離れると、剣は地面へ落ちて乾いた金属音を響かせた。その直後、身体からも力が抜け、糸を切られた人形のように前へ傾いていく。
「アルベルト様!」
マリエラが駆け出した。
ロイドもほぼ同時に動き、地面へ倒れる寸前でアルベルトの身体を抱き止める。
「重っ……!」
「ロイドさん!」
「大丈夫です。それより、この人……」
途中まで言いかけたロイドの表情が変わった。
彼はアルベルトをゆっくり地面へ寝かせると、首筋へ指を当てた。しばらく黙ったまま位置を変え、それでも何も感じなかったのか、今度は鼻と口元へ手を近づける。
さっきまでざわついていた村人たちが、いつの間にか静かになっていた。
「どうした?」
村長が恐る恐る尋ねる。
ロイドはすぐには答えなかった。
代わりに、彼の横へ膝をついたマリエラの顔から血の気が引いていく。
「……嘘」
小さな声が漏れた。
ロイドはもう一度アルベルトの首筋を確かめてから、ようやく顔を上げた。
「脈がありません。呼吸もしていない」
誰も言葉を発しなかった。
朝の風が村の中を抜け、どこかの家の軒先に吊るされた木札が小さく鳴っている。ついさっきまで勇者を見ようと騒いでいた子どもたちも、大人たちの様子を察したのか声を潜めていた。
レインは地面に横たわるアルベルトを見つめた。
知っていたはずだった。
アルベルトはすでに死んでいる。心臓も呼吸も止まり、その死をリシェル自身が確かめたことは昨日のうちに聞いていた。
それでも、あれだけ歩き、剣を振り、自分の身体に抗って「逃げろ」とまで言ったのだから、どこかにまだアルベルト自身が残っているのではないかと、レインも心のどこかでは思っていたのかもしれない。
けれど、今のアルベルトからは《使命》も《討伐》も、あれほど強く輝いていた《完遂》さえ見えない。そして何より、あの夜に一度だけレインへ届いた《守れ》も、もうどこにもなかった。
マリエラが震える手でアルベルトの頬へ触れる。
「アルベルト様……?」
返事はなかった。
彼女にとっては、三年前に大聖堂で女神に選ばれた勇者なのだ。光に包まれ、人々の歓声を受け、魔王を討つために旅立った英雄が、名も知られていない小さな村の入口で、何の説明もなく冷たい身体になっている。
マリエラはもう一度名前を呼ぼうとしたようだったが、声にはならなかった。
レインも何を言えばいいのか分からず、視線を落とした。
その時だった。
視界の端で、何かが揺れた。
アルベルトではない。
地面に落ちた聖剣の表面へ、それまでなかった意味が一瞬だけ浮かび上がる。
《切断》
「……何から?」
レインの呟きに答える者はいなかった。
地面に横たわる勇者は動かず、マリエラの胸元にある聖印も、いつの間にか光を失っていた。




