第8話 「女神様へのお問い合わせはこちらから!?」
結局、女神は来なかった。
いや、本当に来ると思っていたわけではない。空から光が降り注いで美女が現れるとか、雲が割れて巨大な顔が出てくるとか、そんなものを期待していたわけではないのだが、《調停要求》などという物々しい意味を見せられれば、何かが起きると思うのが普通ではないだろうか。
ところが何時間待っても、勇者アルベルトは聖剣を地面へ突き立てたまま動かなかった。
「……何も起きねえな」
欠伸を噛み殺しながら、レインは東の空を見た。エルネ大森林を覆っていた夜の色が薄れ、木々の向こうが白み始めている。
アルベルトが聖剣を地面へ突き立ててから、もう何時間も経っていた。地面に広がった金色の紋様は夜中よりずっと弱くなったものの消えてはおらず、レインにだけ見える《調停要求》も同じ場所に浮かび続けている。
要求した。
でも、返事がない。
「女神様、寝てんのかな」
「その発言、教会の人間に聞かれたら怒られるわよ」
すぐ隣から返事があったので、レインは眉をひそめて振り返った。
「……なんでいるんだよ」
「何よ」
リシェルは診療所から持ち出してきたらしい毛布を肩からすっぽり被り、壁にもたれていた。昨夜よりは多少ましに見えるものの、夜明け前の薄暗さでも分かるほど顔色は白い。
「寝ろって言ったよな?」
「寝たわ」
「いつ?」
「少し」
「少しってどれくらい」
「……一時間くらい」
「それを寝たって言うな」
レインが呆れている間にも、肩から毛布がずり落ちる。リシェルはそれをゆっくり引き上げたが、普段なら何でもないはずの動作に妙に時間がかかっていた。
「お前が倒れたら、ガルドに怒られるの俺なんだからな」
「どうしてあなたが怒られるの?」
リシェルは本当に分からないらしく、小さく首を傾げた。
「知らねえよ。あいつ、俺なら怒っていいと思ってるから」
「日頃の行いでしょう」
「昨日拾われた奴に言われたくない」
毛布を引き上げていた手が止まり、リシェルの眉間に皺が寄った。
「……拾われたって言わないで」
声だけは魔王らしく低かったが、毛布にくるまった姿ではいまいち迫力がない。
そんな話をしている間にも、朝は少しずつ村へ入ってきていた。
家々の煙突から細い煙が上がり、鶏が鳴き始める。牛小屋からは餌を求める声が聞こえ、井戸の方では桶が石へ当たる乾いた音が響いた。いつもなら、それでリト村の一日が始まる。畑へ向かう者がいて、パンを焼く者がいて、子どもたちが眠そうな顔で水を汲みに来る。
けれど今日は、誰もが何かにつけて村の入口を気にしていた。
当然だ。
そこに勇者が立っている。
「母ちゃん、勇者様まだいる!」
「見れば分かるから近づくんじゃないよ!」
「ちょっとだけ!」
「駄目!」
家から顔を出した少年が道へ駆け出そうとして、すぐに母親に襟首を掴まれた。そのまま引きずられていく少年は最後までアルベルトから目を離さず、まるで珍しい魔物でも見つけたような顔をしている。
別の家では、畑へ向かうはずの男が鍬を肩に担いだまま立ち止まっていた。
「東の畑、行けねえな」
「裏から回れ」
「倍かかるぞ」
「勇者様の横を通りたいなら止めんが」
男はアルベルトを眺め、ほんの少し考えた。
「……裏から行く」
決断が早い。
昨夜から見張りをしていた男たちのところには、女たちが温かいスープを運んでいる。子どもたちは家の窓や物陰から勇者を覗き、見つかるたびに親に追い払われていた。
伝説の勇者がいるのに、腹は減るし、牛には餌をやらなければならない。
レインはなんとなく、それがおかしかった。
「食べないのかねえ」
聞き覚えのある声が背後からした。
嫌な予感とともに振り返ると、案の定、婆ちゃんがいた。片手には杖、もう片方には布を被せた籠を持っている。
杖は一本だけだった。
レインは少し安心した。
「何しに来たんだよ、婆ちゃん」
「朝飯持ってきたんだよ」
婆ちゃんが籠を持ち上げると、焼いた黒パンの匂いがした。
「誰に?」
「勇者様に決まっとるだろ」
「やめろ!」
思わず大声を出すと、婆ちゃんは露骨に嫌そうな顔をした。
「なんでだい。怪我人に飯をやるのの何が危ないんだい」
「そいつの場合は色々あんの!」
婆ちゃんは村の入口に立つアルベルトを上から下まで眺め、それから疑わしそうにレインへ視線を戻した。
「勇者様も飯くらい食べるだろ」
「普通の勇者ならな!」
「じゃあ、あれは何なんだい」
「それを今調べてんだよ!」
「頼りないねえ」
「うるせえ!」
婆ちゃんの手にある杖が、すっと持ち上がった。
「すみませんでした」
レインは即座に頭を下げた。
隣から、かすかに息が漏れる音がした。
顔を上げると、リシェルが口元を毛布で隠している。
「……笑った?」
「別に」
「笑っただろ」
「あなた、あの人には弱いのね」
「八十二年生きてる奴に勝てると思うなよ」
「八十二だよ!」
婆ちゃんの声がすぐ近くから飛んできた。
「そこにいたの!?」
続いて杖も飛んできた。
レインは身体をひねって避ける。地面へ転がった杖を見ながら、昨日から命を狙われすぎじゃないかと思った。魔王を拾い、勇者に斬られかけ、最後は八十二歳の婆ちゃんに杖を投げられている。
もしかすると一番怖いのは最後かもしれない。
「……勇者って大変なのね」
リシェルがしみじみと言った。
「今の見てその感想になる?」
「だって、こんな村まで来て、朝から杖を投げられて」
「俺に投げたんだよ!」
とうとう堪えきれなくなったらしく、リシェルが小さく笑った。
ほんの一瞬だったが、レインは少し驚いた。
昨日、森で拾った時の彼女は笑うどころか、生きているだけで精一杯だった。アルベルトが現れてからは、怯えるか、自分一人で死ぬ覚悟を決めるか、そんな顔ばかりしていた。
笑えるんだな。
当たり前のことなのに、なぜかそのことが妙に印象に残った。
その時、リシェルの周囲にごく細い意味が浮かんだ。
《安堵》
《戸惑い》
さらに、ほんの一瞬だけ《居場所》という意味が見えたが、それはレインが確かめるより早く消えてしまった。
「何?」
リシェルが笑みを引っ込め、訝しげにこちらを見る。
「いや」
「また見えた?」
以前なら、そのまま答えていたかもしれない。
けれど、見えるからといって何もかも口にしていいわけではない。相手が隠しておきたい気持ちまで勝手に覗いて、それを本人へ突きつけるのは、たぶん違う。
「……内緒」
「気になるんだけど」
「見られてる側はもっと嫌だろ」
リシェルは一瞬きょとんとした。何か言い返すのかと思ったが、やがて視線を逸らし、肩の毛布を少しだけ引き上げる。
「……そうね」
それだけだった。
◇
太陽が森の上へ顔を出した頃、村へ続く街道の向こうから馬の蹄の音が聞こえてきた。
最初に気づいたのは見張りだった。
「二騎来るぞ!」
声を聞いた村人たちが一斉に街道を見る。レインも手を額へかざして目を凝らすと、遠くから二頭の馬がこちらへ近づいてくるのが見えた。
前を走るのは革鎧を着た若い男で、腰には剣を下げている。その少し後ろを走る女は灰色の外套を羽織っていたので、最初は二人とも旅人かと思った。
だが、距離が縮まるにつれて外套の隙間から白い服が見えてくる。
「あれ……」
村長が目を細めた。
「教会の方ではないか?」
女の胸元には、朝日を反射する銀色の飾りが下がっていた。
三つの輪を重ねたような紋章。
レインにも見覚えがある。
女神セレスティアを表す、調和の聖印だ。
「教会?」
隣でリシェルの声がわずかに硬くなった。
レインが見ると、さっきまで緩んでいた彼女の表情は消え、毛布の端を握る指にも力が入っている。
「まずい?」
「……分からない」
「分からないって」
「教会の人間すべてが、魔族を見た瞬間に襲ってくるわけじゃないわ」
「そうなの?」
リシェルは呆れたようにこちらを向いた。
「あなた、魔王より教会に詳しくないの?」
「うちの村に教会ねえもん」
「威張ることじゃないでしょう」
実際、レインが神官を直接見る機会などほとんどない。リト村で病人が出ればガルドが診るし、結婚式や葬儀も村の古い習慣で済ませる。年に何度かグランツ方面から巡回の神官が訪れることはあるが、その時もレインは説教より、子どもたちへ配られる菓子の方に興味があった。
二頭の馬は村の手前まで来たところで、急に速度を落とした。
道の真ん中に勇者が立っているのだから、当然だった。
「……止まれ」
先頭の男が短く言って手綱を引く。馬が鼻を鳴らしながら足を止めると、後ろの女も少し距離を空けて止まった。
二人ともアルベルトを見たまま動かない。
先に馬を降りたのは女の方だった。
三十歳には届かないくらいだろうか。淡い栗色の髪を後ろでまとめ、旅の埃がついた外套の下には白い修道服を着ている。腰に剣はなく、代わりに小さな鞄と、使い込まれた杖を背負っていた。
「……アルベルト様?」
その声には、隠しようのない驚きが混じっていた。
女は二、三歩進みかけたが、すぐに護衛らしい男が馬から降りた。
「シスター、待ってください。様子がおかしい」
「ええ……」
女も気づいているらしい。アルベルトは自分の名前を呼ばれても振り向かず、地面へ聖剣を突き立てたまま、ただ一方向を見続けている。
その先にいるリシェルが、レインの隣でわずかに身を固くした。
村長が二人へ近づいた。
「旅の方ですかな?」
「はい。突然お騒がせして申し訳ありません」
女はアルベルトから目を離し、胸元の聖印へ手を添えて軽く頭を下げた。
「セレス調和教会所属、巡回修道女のマリエラと申します。こちらは護衛を務めてくださっている冒険者のロイドさんです。グランツへ向かう途中だったのですが、エルネ大森林の魔物が街道付近まで出ておりまして、迂回して参りました」
「やはり森が……」
村長の顔が曇ると、マリエラも神妙に頷いた。
「ええ。ただ、襲われたわけではありません。むしろ妙でした。オークも角狼も私たちには目もくれず、森から少しでも遠くへ行こうとしているように見えたのです」
レインはリシェルと目を合わせた。
森は、まだ逃げている。
「それよりも」
マリエラは再びアルベルトを見た。
「なぜ、勇者アルベルト様がこちらに?」
「ご存じなのですか?」
村長が尋ねると、マリエラは少し驚いたように振り返った。
「もちろんです。直接お話ししたことはありませんが、三年前、王都セレスで行われた勇者選定の儀には、私も参列していました」
「勇者選定?」
聞き慣れない言葉に、レインは思わず口を挟んだ。
マリエラがこちらを見る。
「ええ」
「教会が勇者を選ぶのか?」
「いいえ。教会が行うのは、候補者を集めて選定の儀を執り行うところまでです。誰を勇者とするかを、人が決めることはできません」
レインが首を傾げると、マリエラは胸元の聖印へ指を添えた。
「女神セレスティア様がお選びになるのです。正確には、女神様より授けられた聖剣が、その御心に適う者を選びます。王族である必要も、高名な騎士である必要もありません。聖剣が応えた者こそが、その時代の勇者となります」
「……アルベルトも?」
「はい」
マリエラはアルベルトへ視線を戻した。その眼差しには、疑いや警戒より先に敬意がある。
「三年前、十二人の候補者の中で、ただ一人、聖剣がアルベルト様に応えました。その瞬間、大聖堂が光で満たされたのを覚えています。あれほど美しい光を、私は今まで見たことがありません」
その時の光景を思い出しているのだろう。マリエラの口元には、ごく自然な笑みが浮かんでいた。
レインはそれを見て、少しだけ困った気持ちになった。
彼女にとってアルベルトは、本当に女神に選ばれた英雄なのだ。魔王を討つために動かされている死体でも、同じ命令だけを繰り返す人形でもない。人々を守るために旅立った勇者であり、きっとこの世界のほとんどの人間も、彼女と同じアルベルトを知っている。
目の前にいるものが、もうそのアルベルトではないかもしれないと知っているのは、レインとリシェルだけだった。
「それで、アルベルト様はいつこちらへ?」
マリエラが村長へ尋ねる。
「昨夜です」
「昨夜?」
彼女の笑みが消えた。
「森から?」
「はい」
「お一人で?」
「そのようです」
マリエラは眉を寄せ、しばらく考え込んだ。
「……そんな」
「おかしいのか?」
レインが尋ねると、彼女はすぐには答えず、街道の向こうへ視線を向けた。
「アルベルト様は、魔王討伐へ向かわれたはずです」
「知ってる」
「討伐隊がノクス方面へ入ったという報告は、グランツにも届いていました。ですが、結果はまだ――少なくとも私が昨日グランツを発った時点では、魔王を討ったという正式な報せは届いていません」
隣で、布が擦れる音がした。
リシェルが毛布を握りしめている。
「それなのに、なぜアルベルト様だけがこんな場所に……?」
マリエラは本気で困惑していた。
レインは答えなかった。
答えを知っている者なら隣にいる。けれど、その答えを口にした瞬間、今度は「どうしてその娘が知っているのか」という話になる。
そして、その先に待っている質問には、もっと答えられない。
マリエラはしばらくアルベルトを見つめた後、意を決したように一歩踏み出した。
「待って」
レインが声をかけると、彼女は足を止めた。
「近づかない方がいい」
「なぜです?」
「それは……」
またこれだ。
昨日から何度、同じ説明に困っているのだろう。
「今のあいつ、ちょっと変なんだ」
マリエラは一度アルベルトを見てから、真顔でレインへ視線を戻した。
「見れば分かります」
「あ、分かる?」
「呼びかけに応じない勇者様を見て、正常だと思うほど楽観的ではありません」
レインは思わずリシェルを見た。
「この人、話が早い」
「あなたの説明が遅いのよ」
「うるさいな」
二人のやり取りを見て、マリエラが少し不思議そうな顔をしたが、今は追及しなかった。
「でしたら、なおさら状態を確認する必要があります。怪我や呪いで意識を失っている可能性もありますから」
「でも危ない」
「私には治癒術があります」
「そういう問題じゃ――」
「レイン」
リシェルの声が変わった。
見ると、彼女はアルベルトの足元を凝視している。
「見て」
何を、と聞く必要はなかった。
昨夜から消えずに残っていた金色の紋様が、少しずつ光を強めていた。
その上には、今も同じ意味が浮かんでいる。
《調停要求》
レインの背筋を、冷たいものが走った。
「シスター、ちょっと待って」
マリエラは足を止めたまま、怪訝そうにレインを見る。
「どうしました?」
「そのまま。動かないで」
彼女には理由が分からない。それでもレインの顔を見て何かを感じたのか、言われた通りに立ち止まった。
光は弱まった。
レインはそれを確かめてから、マリエラとアルベルトの間を見比べる。
「……一歩だけ、前に出てみて」
「レイン?」
リシェルが低い声を出した。
「大丈夫。たぶん」
「その『たぶん』、さっきから信用できないんだけど」
「俺も信用してない」
「駄目じゃない」
マリエラは二人の会話を聞いて少し迷ったものの、慎重に一歩だけ前へ出た。
光が強くなる。
「止まって!」
レインが言うと、マリエラはすぐに足を止めた。
間違いない。
彼女が近づくと反応している。
レインがそう確信した瞬間、マリエラの胸元に下がっていた銀色の聖印が、淡い金色の光を帯びた。
「え……?」
マリエラ自身が一番驚いていた。
反射的に聖印へ手を伸ばしかけ、途中でその手を止める。
「どうして……」
「シスター?」
ロイドが駆け寄ろうとした。
「待ってください」
マリエラが片手で制した。その声には動揺が混じっていたが、目だけは聖印から離れない。
村人たちの間にも、ざわめきが広がっていく。
「女神様の聖印が……」
「光ったぞ」
「奇跡じゃないのか?」
奇跡。
村人たちには、そう見えるのだろう。
マリエラもまた、信じられないものを見るように自分の聖印を見つめている。
だが、レインには別のものが見えていた。
アルベルトの聖剣から地面の紋様へ流れ込んだ金色の光。その一部が細い糸のように伸び、マリエラの胸元にある聖印へと繋がっている。
そして、ずっと浮かんでいた《調停要求》の文字が揺らいだ。
代わりに現れたのは、
《接続》
だった。
「……接続?」
思わず漏れた声に、リシェルが顔を向ける。
「何が見えたの?」
「待って」
さらに意味が変わる。
《応答待機》
レインはアルベルトの聖剣と、マリエラの聖印を交互に見た。
マリエラに見えているのは、たぶん光だけだ。
「セレスティア様……?」
彼女は聖印を両手で包み込むように持ち、震える声で女神の名を呼んだ。
その横顔に恐怖はなかった。驚きはある。それ以上に、長く信じてきたものが本当に自分へ触れてくれたのだとでもいうような、純粋な喜びがあった。
その表情を見ているうちに、レインの中へ妙な違和感が生まれた。
マリエラは女神へ祈っている。
けれど、レインには祈りが女神へ届こうとしているようには見えなかった。むしろ逆で、アルベルトの聖剣から伸びた何かが、マリエラの聖印を足掛かりにして、どこかへ繋がろうとしている。
昨夜、アルベルトは《調停》を要求した。
何時間待っても、何も起きなかった。
そして朝になって、女神の聖印を持ったシスターが村へやって来た。
偶然。
たぶん偶然だ。
そう考えたレインは、光る聖印を眺めながら嫌そうに眉を寄せた。
「……女神様、代理人で済ませようとしてないよな?」
「レイン!」
村長の怒声が飛んでくる。
「冗談だよ!」
「冗談でも言うな!」
「昨日から女神様には怒られてばっかだな……」
「私には村長に怒られているように見えるけど」
「細かいこと気にすんなよ」
リシェルが呆れたように息を吐いた、その時だった。
マリエラの手の中で、聖印の光が一度だけ大きく脈打った。
レインは口を閉じた。
浮かんでいた《応答待機》が消えていく。
代わりに現れた意味は、たった二文字だった。
《応答》
来た。
何かが、返事をした。




