第7話 「女神って暇なのか!?」
勇者アルベルトは、村の入口で止まったまま動かなかった。
右手には淡い金色の光をまとった聖剣。傷だらけの鎧には乾いた血と泥がこびりつき、ところどころが大きくへこんでいる。森から吹いてきた夜風がぼろぼろになった外套を揺らしているのに、その中に立つ男だけは、まるで最初からそこへ置かれていた石像のように微動だにしない。
村人たちは誰も近づけずにいた。
最初に「勇者様だ!」という声が上がった時には、もっと違う騒ぎだった。
家から飛び出してきた者がいた。まだ寝ていなかった子どもを抱き上げ、「見ろ、勇者様だぞ」と教える父親もいた。アルベルトの姿を知らない者たちも、聖剣の金色の光を見れば疑わなかった。
勇者アルベルト。
辺境のリト村に暮らす者にとっても、その名前は遠い王都の王より馴染み深い。
何年も前、北の街道を荒らしていた大型の魔物を一人で討った。百人近い旅人が閉じ込められた洞窟から、最後の一人まで連れ帰った。魔族との戦いでは何度傷ついても前線へ戻り、ついには魔王討伐のため、聖剣を携えて旅立った。
どこまでが本当なのか、レインは知らない。
吟遊詩人なんてものは、酒を一杯奢ればオーガの背丈を二倍にするし、三杯飲ませれば勇者に翼くらい生やしかねない。
それでも、アルベルトが人々を救ってきたことだけは事実なのだろう。
だからこそ、村人たちの興奮が戸惑いへ変わるまでには、少し時間がかかった。
「……勇者様?」
村長がもう一度呼びかける。
返事はない。
「アルベルト様。ここはアルセリア王国東部、リト村です。お分かりになりますか?」
やはり反応はなかった。
村長は困ったように白い眉を寄せた。周囲のざわめきも、先ほどよりずっと小さくなっている。
「怪我がひどいんじゃないか?」
「だったらガルドに診せないと」
「でも、なんで入ってこないんだ?」
「こっちに気づいてないとか?」
「あれだけ呼んでるのに?」
レインはそのやり取りを聞きながら、アルベルトではなく、その周囲に漂うものを見ていた。
《使命》
《討伐》
《完遂》
それらは消えていない。
さっきまであったはずの青い意味――《守れ》も《逃げろ》も、やはりどこにも見当たらなかった。
代わりに何度も繰り返されているのが、
《対象確認》
《照合》
そして、
《未確定》
だった。
意味は分かる。
言葉としてなら、だ。
けれど、何と何を照らし合わせているのか、なぜ確定できないのかとなると、さっぱり分からない。
ただ一つ確かなのは、そのたびにアルベルトの視線が向かう先だった。
レインは隣を見た。
リシェルが立っている。
本来なら診療所のベッドに寝ていなければならない身体で、壁に片手をつきながら、それでもアルベルトから目を逸らそうとはしない。顔色はひどく、夜の暗がりでも分かるほど白い。
「……お前、戻って寝てろよ」
「無理よ」
「なんで」
「アルベルトが目の前にいるのに?」
「だからって倒れたら何にもならねえだろ」
「倒れないわ」
「さっき俺にもたれて歩いてただろ」
「あれは……」
「重かった」
「殺すわよ」
「元気じゃねえか」
リシェルが睨む。
その顔を見て、ほんの少しだけレインは安心した。
だが、すぐに彼女の視線はアルベルトへ戻った。
「……本当に、止まってる」
「ああ」
「どうして?」
「知らん」
「あなたが何かしたんじゃないの?」
「俺が?」
レインは思わず自分を指さした。
「見てただけだぞ」
「でも、さっきあなたが私の名前を呼んだら……」
リシェルが言葉を切った。
レインにも覚えがある。
《魔王》
《リシェル》
二つが同時に見えた。
そして、アルベルトの《照合》が《未確定》になった。
けれど、それだけだ。
「名前呼んだくらいで勇者止められるなら、みんな戦わずに名前呼べばいいだろ」
「そうね」
「だろ?」
「……でも、あなたの力そのものが普通じゃないでしょう」
「力って言うほど便利じゃねえよ」
見えるだけ。
少なくとも、レインはずっとそう思ってきた。
ゴブリンの腹が減っていると分かっても、殴られれば痛い。森中の魔物が恐怖していると分かっても、何から逃げているのかまでは教えてくれない。リシェルの《助けて》が見えたところで、彼女を治す力が手に入ったわけでもない。
意味が見える。
ただ、それだけ。
――だったはずなのだが。
「レイン」
村長に呼ばれ、二人は同時に振り返った。
「何?」
「お前、何か知っておるな」
「…………」
村長は腕を組んでいる。長年この村をまとめてきただけあって、こういう時の目は妙に鋭い。
「なんでそう思うんだよ」
「勇者様を見た瞬間、近づくなと叫んだ」
「それは……」
「森から魔物が逃げ出した時も、お前は何か妙なことを言っておったな」
「言ったっけ?」
「忘れたふりをするな」
逃げ道が塞がれていく。
しかも周囲の村人までこちらを見始めた。
「レイン、勇者様に何かあったのか?」
「お前、森で見たのか?」
「知ってるなら言ってくれ」
困った。
全部言えば簡単だ。
勇者アルベルトは死んだ。
目の前にいるのは、その死体を使って何かが動かしているものらしい。
そして、その目的は魔王の討伐。
ちなみに、その魔王は自分のすぐ隣にいる。
村人全員が気絶するか、自分が殴られるかのどちらかだろう。
「……森で会った」
結局、レインはそこだけを選んだ。
「勇者様に?」
「ああ」
村人たちがざわつく。
「今日?」
「今日」
「何をしておられた?」
「……追いかけてた」
「何を?」
そこを聞くな。
レインは一瞬詰まり、
「何かを」
と答えた。
村長の眉間に皺が寄った。
「お前は嘘をつくのが下手だな」
「嘘じゃねえよ!」
「では、何を追っておられた?」
「それは言えない」
今度は誤魔化さなかった。
ざわめきが少し大きくなる。
リシェルが横で息を呑んだのが分かった。
「ただ」
レインは続ける。
「近づかない方がいい。少なくとも今のアルベルトは、俺たちが知ってる勇者様と同じだと思わない方がいい」
「どういう意味だ?」
「呼んでも返事しないだろ。俺も森で話しかけた。でも、まともに会話できなかった。それに……」
死んでいる。
その言葉だけは飲み込んだ。
「危ないんだ」
「勇者様が、我々を襲うと?」
「それは……たぶん違う」
「たぶん?」
「俺たちには、だ」
村長の顔が険しくなる。
「ますます分からんぞ」
「俺だって全部分かってるわけじゃねえよ!」
思わず声が大きくなった。
誰も何も言わなくなる。
レインは頭を掻いた。
「……悪い。でも本当にそうなんだ。俺にも分からないことばっかりなんだよ」
森が逃げた理由。
リシェルの声が自分に届いた理由。
死んだアルベルトが動いている理由。
あの《修正》という意味。
そして今、勇者が村の前で止まっている理由。
何一つ、答えを持っていない。
ただ、見えてしまったものがあるだけだ。
村長はしばらくレインを見ていたが、やがて長く息を吐いた。
「……分かった」
「信じるのか?」
「全部ではない」
「だよな」
「だが、お前がここまで真面目な顔をしておる時は、だいたい何かある」
「普段の俺どう思われてんの?」
「聞きたいか?」
「やめとく」
村長は周囲を見回した。
「誰も勇者様へ近づくな。今夜はこのまま様子を見る」
「村長!」
当然、反対の声が出た。
「怪我をされてるんだぞ」
「勇者様を村の外に立たせておくのか?」
「女神様に選ばれたお方だぞ」
その言葉を聞いた瞬間、レインの頭に、なぜか勇者でも聖剣でもなく一本の杖が浮かんだ。
それも、かなりの勢いで飛んでくる杖だ。
女神セレスティア。
世界を調停し、異なるものの間に調和をもたらす女神。王都セレスには大きな神殿があり、勇者もまた女神の導きによって選ばれる――その程度のことなら、教会のないリト村で育ったレインだって子どもの頃から聞かされている。
もっとも、レインにとって女神の教えとは、ありがたい教義より先に、あの婆ちゃんを思い出すものだった。
まだレインが今よりずっと小さかった頃。
村の子どもと木の枝を取り合って、本気の取っ組み合いになったことがある。原因が何だったのかはもう覚えていない。おそらく、その程度の理由だったのだろう。
そこへ通りかかった婆ちゃんが、二人の襟首をまとめて掴んだ。
『こら! 喧嘩ばっかりしとると女神様に怒られるよ!』
鼻血を出していたレインは、素直に謝ればよかった。
だが、子どものレインには一つ、とても重要な疑問があった。
『女神様って、そんな暇なのか?』
次の瞬間、杖が飛んできた。
避けた。
もう一本飛んできた。
なぜ二本持っていたのかは、今でも分からない。
ちなみにその婆ちゃんは今も元気である。
つい先日も自分を八十三歳扱いしたレインへ杖を投げてきた。本人によれば八十二歳なので全然違うらしい。
レインには誤差にしか思えないが、口にするとまた飛んでくるので最近は学習している。
「……何を笑っておる」
村長の声で現実へ戻った。
「いや、ちょっと女神様のことを」
「笑うところがあったか?」
「俺の中では割と」
「不敬な奴め」
「俺もそう思う」
リシェルが小声で言った。
「お前、女神信じてんの?」
「そういう話ではないでしょう」
それはそうだった。
村長は呆れながらも、もう一度アルベルトへ視線を戻した。
「女神様に選ばれた勇者様だからこそだ。呼びかけにも答えず、村へ入ろうともせず、あのように立ち尽くしておられる方が普通ではない。今夜は誰も近づくな」
今度は、反対していた者たちも少し黙った。
レインは意外に思った。
勇者だから信じる。
勇者だから近づく。
そうなるものだと思っていた。
けれど村長は逆だった。
勇者だからこそ、今の姿がおかしい。
そう考えたらしい。
「交代で見張りを置く。子どもは家へ戻せ。明るくなるまで何もなければ、その時また考える」
村人たちはまだ不満そうだったが、村長の決定に従って少しずつ動き始めた。
家へ戻る者。松明を追加する者。見張り役を相談する者。勇者をもう少し見たいと駄々をこねる子どもを抱えて帰る親もいる。
ほんの少し前まで静まり返っていた村に、日常の音が戻ってくる。
それでも。
アルベルトだけは動かない。
その姿があるだけで、いつもの村が別の場所になったようだった。
◇
「私が出ていけばいい」
村人たちが散り始めた頃、リシェルが言った。
レインは聞こえなかったふりをした。
「レイン」
「聞こえてる」
「なら返事をして」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないでしょう」
「言っただろ。『私が出ていけばいい』って」
「だったら話が早いわ」
「却下」
リシェルが苛立ったようにレインを見る。
「どうしてあなたが決めるのよ」
「お前が勝手に決めるのもおかしいだろ」
「私を追ってきたのよ。私がここにいるから、この村が巻き込まれている」
「今のところ、あいつ村に入ってきてないけどな」
「だからよ。私が離れれば、アルベルトも離れるかもしれない」
「かもしれない、だろ?」
「試す価値はあるわ」
「その結果、森で二人きりになって殺されました、じゃ意味ねえだろ」
「それでも村は助かる」
あまりにも迷いなく言うので、レインは言葉を失った。
リシェルはアルベルトを見ていた。
「この人たちは関係ないもの」
「…………」
「私とアルベルトの問題よ。少なくとも、この村の人たちが巻き込まれる理由はない」
魔王が言う台詞じゃないな、とレインは思った。
もっとも、魔王がどんな台詞を言うべきなのかなんて知らない。
世界中の人間が知っている魔王は、人類の敵で、魔族の王で、勇者が倒すべき存在だ。
でもレインが知っているリシェルは、村医者に怒鳴られて大人しくベッドへ戻されるし、助けてもらった村を巻き込みたくないと言う。
そのどちらが本物なのか。
たぶん、そんな聞き方自体がおかしい。
どちらもリシェルなのだろう。
「関係あるよ」
レインが言った。
「どうして?」
「お前、今うちの村で治療されてるだろ」
「……それだけ?」
「それだけで十分だろ」
リシェルが黙った。
「ガルドが傷を診て、村の薬使って、俺もお前をここまで運んだ。村長だって、お前が誰か知らねえけど追い出してない」
「それは……私が誰なのか知らないから」
「そうかもな」
レインは否定しなかった。
もし知ったらどうなるのか。
怖くないと言えば嘘になる。
「でも、今はまだここにいる。だったら勝手に一人で死にに行くな」
「……あなたは」
「何」
「本当に変ね」
「魔王に言われたくねえ」
「その魔王っていうの、もう少し小さい声で言ってくれる?」
「あ」
慌てて周囲を見る。
幸い、誰も聞いていなかったらしい。
リシェルが呆れた顔をする。
「いつかあなたのせいで正体がばれる気がする」
「気をつけます」
「絶対よ」
「はい」
少しだけ空気が緩んだ。
その時だった。
アルベルトの右腕が動いた。
「――!」
レインは反射的にリシェルの前へ出た。
村のあちこちから声が上がる。
「勇者様が!」
「動いたぞ!」
家へ戻りかけていた者たちまで振り返る。
アルベルトはゆっくりと聖剣を持ち上げた。金色の光が強くなり、村の入口に集められた松明の赤い明かりまで薄く感じられるほど、周囲を照らしていく。
レインの背中に冷たい汗が流れた。
「リシェル、下がれ」
「分かってる」
「診療所まで――」
「レイン」
「何だよ」
「剣を見て」
言われて気づいた。
アルベルトは聖剣をこちらへ向けていない。
切っ先は、地面へ向いていた。
「……何する気だ?」
誰も答えられない。
アルベルトは両手で柄を握ると、ゆっくり聖剣を地面へ突き立てた。
硬い土へ刃が沈む。
その瞬間、金色の光が足元から広がった。
一本の細い線が円を描き、その内側へさらに幾つもの線が走る。見たこともない文字のようなものが次々と組み上がり、複雑な紋様となって村の入口へ向かって伸びてきた。
村人たちが息を呑んだ。
誰かが、小さく「女神様……」と呟いた。
ついさっきまで杖を二本投げてくる婆ちゃんと一緒に女神を思い出していたレインも、さすがに今度は笑えなかった。
紋様が何なのかは分からない。
けれど、その上に現れたものだけは読めた。
《対象確認》
光が脈打つ。
《照合》
アルベルトの視線が、リシェルへ向く。
そして。
《未確定》
金色の紋様が、一度消えかけた。
これまでと同じだ。
また止まる。
レインがそう思った直後、消えかけた光が再び強くなった。
今度は違う。
何かを確認しようとしているのではない。
自分だけでは答えを出せなかったから、別の何かを求めている。
そんな感覚があった。
そして、これまで一度も見たことのない意味が浮かび上がった。
《調停要求》
「……なんだ、それ」
見間違いではない。
確かに、そう書いてある。
レインはその言葉を知らないわけではなかった。
調停。
異なるものの間に立ち、争いや食い違いを収めること。
そして、この世界でその言葉と最も強く結びついている存在を、レインだって知っている。
世界を調停し、調和をもたらす女神。
セレスティア。
さっきまでなら、女神が村の子どもの喧嘩まで見ているものか、と笑えた。
けれど今。
目の前では、女神に選ばれたという勇者が聖剣を地面へ突き立て、その光の中に《調停要求》という意味を浮かべている。
「……おい」
レインはアルベルトを見る。
返事などあるはずもない。
それでも、思わず聞いていた。
「お前……誰に頼んでんだ?」
アルベルトは答えない。
聖剣だけが、静かに金色の光を放っている。
村人たちはそれを奇跡でも見るように眺めていた。
リシェルは青ざめていた。
そしてレインだけが、その光の中に浮かぶ四文字を見つめていた。
《調停要求》
子どもの頃。
レインは聞いた。
女神様って、そんな暇なのか、と。
今になって。
少しだけ。
笑えない答えが返ってきたような気がした。




