第6話 「魔王様、本人確認で引っかかる!?」
《修正》
その二文字が見えたのは、ほんの一瞬だった。
森の向こうへ伸びた金色の光。それと重なるように現れた文字は、誰かの頭上に浮かんだわけでも、何かから流れてきたわけでもない。
視界そのものに刻みつけられたように見えた。
「……なんだ、今の」
「レイン?」
隣に座り込んでいたリシェルが顔を上げる。
「何か見えたの?」
「見えた。けど……」
レインは森を見る。アルベルトがいたはずの街道には、もう金色の光はない。
「《修正》って見えた」
「修正?」
「ああ」
「誰の意味?」
「それが分かんねえ」
これまで見てきた意味には、必ず持ち主がいた。
腹を空かせたゴブリンには《飢餓》があった。怯えていた魔物たちには《逃げろ》があった。リシェルからは《助けて》が届いた。
アルベルトにまとわりついていた《使命》《討伐》《完遂》ですら、少なくとも勇者の身体から見えていた。けれど、今の《修正》は違う。
「どこから見えたの?」
「……全部」
「全部?」
「変なんだけどさ。森とか空とか、そういう場所じゃなくて……」
レインは両手で四角を作り、自分の視界を囲った。
「ここ全部に、いきなり出た感じ」
「全然分からないわ」
「安心しろ。俺も分からん」
「あなたの力でしょう?」
「説明書もらってねえんだよ」
リシェルは呆れたように息を吐いた。そして立ち上がろうとして、
「っ……」
「ほら見ろ」
「平気よ」
「どこがだよ。帰るぞ」
「村へ?」
「ああ」
「駄目」
即答だった。
「アルベルトが来る」
「今は止まってるだろ」
「今は、でしょう?」
「じゃあどうすんだよ。お前、そのまま歩いてたら勇者より先に傷で死ぬぞ」
「…………」
反論はなかった。さすがに自覚はあるらしい。
「村のことも考えなきゃならない」
レインは続けた。
「アルベルトがお前を追ってくるなら、村に戻すのが正しいかは分からない。でも、一人で勝手に消えられても困る」
「どうして?」
「俺が探しに行く羽目になるから」
「放っておけばいいでしょう」
「できたら、とっくにやってる」
「…………」
レインは手を差し出した。
「ほら」
「何?」
「立てないんだろ」
「立てるわ」
「じゃあ立ってみろよ」
「…………」
「ほら」
「あなた、時々腹が立つわね」
「今日会ったばっかなのに、もう時々あるのかよ」
リシェルはしばらくその手を睨んでいたが、やがて諦めたように掴んだ。立ち上がった途端、身体が傾く。
「おっと」
レインが肩を貸す。
「重いって言ったら殺すわよ」
「まだ何も言ってねえよ!」
二人はゆっくりと村へ戻った。
◇
「馬鹿かお前らは!」
診療所へ戻った途端、ガルドの怒声が飛んだ。
「なんで俺まで!?」
「病人を外へ出す奴があるか!」
「俺が出したんじゃねえ!」
「じゃあ誰だ!」
「本人!」
「止めろ!」
「いなかったんだよ!」
ガルドの拳が上がる。
「待って」
弱い声がした。リシェルが、おずおずと手を挙げている。
「私が勝手に出たの」
拳が止まった。レインはほっとした。これで分かってもらえる。
ガルドはゆっくりリシェルへ向き直った。
「お前も馬鹿か!」
「……え?」
「死にかけの人間が歩き回るな!」
リシェルが目を丸くした。魔王が村医者に叱られている。なかなか見られない光景だろう。
「とにかく寝ろ。傷を見る」
ガルドはリシェルをベッドへ戻すと、包帯を解いていった。やがて、その手が止まる。
「……妙だな」
「どうした?」
「光が弱くなってる」
レインが横から覗こうとする。ガルドの手に押し戻された。
「邪魔だ」
「ちょっとくらい見せろよ」
「お前が見て傷が治るのか?」
「治らない」
「座ってろ」
「はい」
レインは素直に椅子へ戻った。ガルドは傷を確かめながら、難しい顔をしている。
「傷そのものは悪くなってる。走り回ったせいで開いてるし、熱もある。それなのに、この金色の光だけが弱くなってる」
「良いことなの?」
リシェルが尋ねた。
「分からん」
「医者でしょう?」
「普通の傷ならな。光る傷なんぞ医学書には載ってない」
「光る傷専門の医者とかいねえの?」
「いたら連れてこい」
「ですよね」
ガルドは新しい包帯を巻き終えると、薬と水を置いた。
「今度こそ寝てろ。次に抜け出したらベッドに縛る」
「…………」
「返事」
「……はい」
魔王が負けた。ガルドは満足そうに部屋を出ていった。
「強いな、あの爺さん」
「……嫌い」
「人類で初めて魔王に勝ったんじゃね?」
「アルベルトに謝りなさい」
レインは笑った。リシェルも少しだけ笑った。けれど、アルベルトの名前が出た途端、その表情が曇った。
「……さっきさ」
レインは椅子へ座り直す。
「あいつ、喋ったよな」
「ええ」
「『逃げろ』って」
「聞こえたわ」
「じゃあ、生きてるんじゃないのか?」
「死んだ」
迷いのない答えだった。
「でも」
「死んだのよ、レイン」
リシェルは膝の上で手を握った。
「心臓が止まるところも見た。呼吸もなかった。聖剣も手から落ちた。私は……確認した」
敵の死を語っているようには聞こえなかった。
「じゃあ、さっき喋ったのは?」
「分からない」
「身体だけ動いてて、アルベルト本人もどっかに残ってるとか?」
「分からないわ」
「死んでるのに?」
「だから私にも分からないの!」
声が大きくなった。二人とも同時に扉を見る。
「…………」
「小声」
「……分かってるわよ」
リシェルがため息をつく。その横に、二つの意味が浮かんだ。
《恐怖》
そして。
《期待》
レインは少し迷った。
「……助けたいのか?」
リシェルの目が動く。
「誰を?」
「アルベルト」
「…………」
「あ、悪い。今のなし」
「なぜ?」
「勝手に見えたもの使って何でも聞くの、良くねえかなと思って」
リシェルはしばらくレインを見つめた。
「あなた、そんなことを気にするのね」
「どういう意味だよ」
「もっと無神経なのかと」
「ひでえな!」
ほんの少し、リシェルが笑う。それから視線を落とした。
「……分からない」
「うん?」
「助けたいのか、確かめたいだけなのか。それとも……」
言葉が止まる。
レインは待った。
続きはなかった。
だから、聞かなかった。
窓の外は、いつの間にか夜になっていた。
◇
異変に最初に気づいたのは、村の犬だった。
一匹が吠えた。
それにつられるように別の犬が吠え、やがて村のあちこちから鳴き声が聞こえ始める。
「なんだ?」
レインが窓を見る。外が騒がしい?男たちの声、走る足音。
そして。
鐘が鳴った。
三回。
少し間を置いて、また三回。
魔物、あるいはそれに類する危険を知らせる鐘だ。
「まさか……」
リシェルが身体を起こす。
「寝てろ」
「でも!」
「俺が見てくる」
「レイン!」
「お前が出たら余計ややこしくなるだろ!」
それだけ言い残し、診療所を飛び出した。
村の中央にはすでに人が集まり始めている。
「森か!?」
「何か来たのか!?」
「分からん! 光だ!」
見張り台から男が叫んだ。
「森の中に金色の光が見える!」
レインは森を見た。暗い。
最初は何も見えなかった。
だが、木々の隙間から、遠くで淡い金色が灯った。
消える。
しばらくして、また灯る。
今度は少し近い。
「……嘘だろ」
分かった。
ーーアルベルトだ。
距離が遠すぎて姿までは見えない。それでも、あの光を見間違えるはずがない。
そして、今度は意味まで見えた。
《使命》
《討伐》
《完遂》
レインの喉が鳴る。
同じだ。
なら、その奥にあるはずだった。
《やめろ》
ない。
《逃げろ》
ない。
《守れ》
ない。
「……なくなってる」
「何がだ?」
隣にいた村長が聞く。
「いや……」
答えられない。レインは目を凝らした。どこにも青い意味がない。
代わりに。
あの奇妙な文字が、一瞬だけ視界を横切った。
《修正済》
「…………」
背中が冷たくなった。
修正。
何を?
アルベルトはさっき、自分の右腕を左腕で止めた。
《逃げろ》と言った。
《守れ》と願っていた。
そして。
今は、それがない。
「まさか……」
言うことを聞かなくなった勇者を。
直した?
その考えに至った瞬間、レインは自分で否定したくなった。もしもそんなものを「修正」と呼ぶ何かが存在するなら。
勇者も。
魔王も。
そいつにとっては――。
「レイン!」
振り返る。診療所からリシェルが出てきた。
「お前、寝てろって言っただろ!」
「アルベルトなの?」
村人たちがこちらを見る。レインは慌てて声を落とした。
「たぶん」
「どういう状態?」
「さっきあった意味がない」
「……え?」
「《守れ》も《逃げろ》もない。《使命》《討伐》《完遂》だけだ」
リシェルの顔から血の気が引いた。
「そんな……」
「だから戻れ。見つかったら――」
唐突に、村の誰かが声を上げた。
「人だ!」
ざわめきが止まる。
森の入口。
暗闇の中から、一人の男が現れた。
傷だらけの鎧。
ぼろぼろの外套。
右手には、淡い金色を放つ剣。
その姿を知っている者がいた。
「……勇者様?」
誰かが呟く。
「アルベルト様だ……」
「勇者様だ!」
ざわめきが一気に広がった。
「本物か?」
「どうしてこんな村に?」
「怪我をしてるぞ!」
何人かが近づこうとする。
「待て!」
レインは叫んだ。
村人たちが止まる。
「近づくな!」
「何を言ってる、レイン」
「勇者様だぞ?」
「分かってる! でも今は――」
何と説明すればいい。勇者は死んでいる。その身体だけが魔王を追っている。しかも、その魔王は診療所に隠している少女です。
言えるわけがない!
そうしている間にも、アルベルトは歩いてくる。
一歩。
また一歩。
レインの視界には変わらず意味が見えていた。
《使命》
《討伐》
《完遂》
リシェルが小さく息を呑んだ。
勇者の顔が、こちらを向いた。
「下がれ」
レインはリシェルの前へ出る。
「レイン」
「いいから」
アルベルトが歩く。
村の入口まで、あと十歩。
九歩。
八歩。
レインの足が震え始める。
五歩。
三歩。
一歩。
そして。
アルベルトは村の境界で止まった。
「…………」
誰も声を出さない。
勇者はそこに立っている。
聖剣を握ったまま。
確かにリシェルの方を向いている。
なのにーーー
入ってこない?
「……何?」
リシェルが呟く。
「知らん」
レインにも分からない。アルベルトの意味を見る。
《使命》
ある。
《討伐》
ある。
《完遂》
ある。
だったら、なぜ動かない?
「勇者様?」
村長が恐る恐る声をかける。
返事はない。
アルベルトの視線は動かない。
やがて。
金色の糸が揺れた?
《対象確認》
レインは眉をひそめる。
「……対象?」
もう一度。
《対象確認》
そして。
《照合》
金色の糸がリシェルへ伸びた。
「おい……」
レインは反射的にリシェルの前へ立った。糸は構わず伸びる。レインを通り抜け、リシェルへ触れる。
その瞬間。
リシェルの周囲に、これまでとは違うものが見えた。
《魔王》
レインは息を呑む。今まで見た意味とは違う。
《恐怖》でも。
《孤独》でも。
《助けて》でもない。
もっと固い。まるで誰かが最初から、そこへ貼り付けた札のようなもの。
《魔王》
その文字がーーー
揺れた。
「……え?」
重なるように、もう一つ。
淡く細い光が現れる。
《リシェル》
レインの目が見開かれた。
「……なんで」
それは意味なのか、名前なのか。それすら分からない。
ただ、《魔王》しかなかった場所に
《リシェル》がある。
二つは消し合わない。
どちらもそこにある。
アルベルトから伸びていた金色の糸が揺れた。
《照合》
沈黙。
《再照合》
また沈黙、そして。
ゆっくりとーーー
《未確定》
「…………は?」
レインの口から間の抜けた声が出た。
「どうしたの?」
リシェルが聞く。
「いや……」
レインはリシェルを見る。
魔王だ。間違いなく魔王なのだろう。
アルベルトと戦った。魔族を従えていた。聖剣に傷つけられた。それでもーーー
レインにとっては、もうそれだけではなかった。
勝手に診療所を抜け出す。村医者に怒られる。意外と口が悪い。すぐ「殺す」と言う。
そしてーーー
助けて、と叫んでいた。
「……リシェル」
「何?」
名前を呼んだ、それだけだった。何かをしようとしたわけではない。魔法など使えない。そもそも魔力がない。けれどーーー
《リシェル》
その意味が、ほんの少しだけ、強くなった。
アルベルトの聖剣が揺れる。
《魔王》
《リシェル》
《照合》
《未確定》
《再照合》
勇者は動かない。
「……おい」
レインはようやく気づいた。何が起きているのかは分からない。どうしてこうなったのかも分からない。
でも、
目の前で起きていることだけなら分かる。
「こいつ……」
アルベルトを見る。
次にリシェルを見る。
「お前が魔王かどうか、分かんなくなってる」
「…………は?」
「俺も意味分かんねえよ!」
リシェルは目を丸くした。
勇者は、なおも村の外で停止している。
世界にとって。
彼女は《魔王》だった。
それは今も消えていない。
けれど。
その隣に。
昨日まで存在しなかった何かがある。
《リシェル》
魔王ではない、という意味ではない。
魔王であることを否定したわけでもない。
ただ。
それだけではなくなった。
レインにはまだーーー
その意味が分からなかった。




