第3話 「勇者って全自動なんだっけ!?」
村で唯一の診療所は、村長の家より少しだけ立派で、教会よりずっと薬臭い。
その奥にある小さな部屋で、レインは椅子に座ったまま、もう何度目になるか分からないため息をついた。
「……なんでこうなった」
目の前のベッドでは、一人の少女が眠っている。
長い黒髪。血の気を失った白い肌。泥と血で汚れていた服は脱がされ、今は村の娘から借りたらしい簡素な寝間着を着ている。
こうして眠っているだけなら、どこにでもいる少女にしか見えない。
問題は、その少女が人類最大の敵――魔王だということだった。
「よりによって魔王って……」
「何が魔王だって?」
「うわっ!」
突然背後から声をかけられ、レインは椅子から転げ落ちそうになった。
振り返ると、この村で唯一の医者である老人、ガルドが怪訝そうな顔で立っていた。
「な、なんでもない」
「そうか」
「ああ」
「ならいい」
「……聞かないのかよ」
「聞いてほしいのか?」
「いや、聞くな」
「面倒なやつだな」
ガルドはそれ以上追及せず、少女の脇に置いてある桶の水を替え始めた。この爺さんが人の話に興味のない性格で、本当によかった。
「それより先生。この子、助かるのか?」
「先生はやめろ。そんな立派なもんじゃない」
「じゃあ爺さん」
「先生でいい」
「どっちだよ」
ガルドは答えず、少女の胸元に目を向けた。
傷には薬が塗られ、何重にも包帯が巻かれている。しかし、それでも完全には隠しきれない淡い金色の光が、布の下からわずかに漏れていた。
「妙な傷だ」
「……妙?」
「ああ。刃物で刺された傷に似ているが、それだけじゃない。傷口の周りが焼けている。それも火傷とは違う」
ガルドが眉を寄せる。
「まるで、傷そのものが治るのを拒んでいるみたいだ」
レインは何も答えなかった。あの光が何なのか、たぶん自分は知っている。少女の記憶の中で見た、眩い剣。
――聖剣。
そして、それを握っていた男。
――勇者。
「……助かる?」
もう一度尋ねると、ガルドはしばらく黙ってから言った。
「分からん」
「分からんって」
「医者にだって分からんものはある。少なくとも今夜を越えられるかどうかだな」
そう言って、ガルドは部屋を出ていった。静かになった部屋で、レインは再び少女を見る。
人類最大の敵。
魔王。
そう考えると恐ろしいはずなのだが、どうにも実感が湧かない。今にも死にそうな少女が寝ているようにしか見えなかった。
「……俺、何やってんだろ」
本当なら村長に話すべきなのだろう。
ーーーこの少女は魔王だ、と。
そうすれば王都へ知らせが飛ぶ。騎士が来る。もしかすると、教会から偉い人間だってやってくるかもしれない。そして――たぶん、この少女は殺される。それが正しいのかもしれない。
ーーだって魔王なのだから。人類の敵なのだから。
けれど、あのとき見えてしまった。
《孤独》
《恐怖》
そして。
《助けて》
「…………」
レインは頭を掻いた。
「だから、そういうの見せんなって……」
知らなければ簡単だった。魔王なら魔王で、それで終われた。けれど知ってしまったら、もう名前だけでは見られない。そんなことを考えていた、そのときだった。
「……みず」
小さな声がした。
レインは顔を上げた。
「え?」
「……水……」
「お、おう!」
慌てて立ち上がり、机に置いてあった水差しを掴む。そのまま少女の口に突っ込もうとして――止まった。
「……これ、どうやって飲ませりゃいいんだ?」
「…………」
「いや、そんな目で見るなよ。病人に水飲ませたことなんかねえんだよ」
「……起こして」
「あ、はい」
言われた通り背中に手を入れ、ゆっくり身体を起こす。
「痛っ……」
「わ、悪い!」
「……大声、出さないで」
「ごめん」
「…………」
「…………」
なんだこれ。なんで俺、魔王に怒られている?
どうにか水を飲ませると、少女は小さく息を吐いた。少しだけ頬に色が戻ったように見える。
「……ありがとう」
「お、おう」
魔王って、ありがとうとか言うんだな。
...口に出したら殺されそうなので黙っておいた。少女はぼんやりと部屋を見回したあと、レインを見た。赤い瞳。そこでレインは、村の入口での出来事を思い出した。
――私の……心が、わかるの……?
――やっと……見つけた。
――あなたを。
「……なあ」
「何?」
「聞きたいことがある」
少女は黙ってレインを見る。
「なんで俺を探してた?」
赤い瞳が、わずかに揺れた。
「俺、お前と会ったことないよな?」
「……ない」
「だよな。俺も魔王と知り合いだった覚えなんかない」
少女の身体が固まった。
...しまった。
レインも固まった。
「…………」
「…………」
「今」
「言ってない」
「言った」
「言ってない」
「魔王って言った」
「言ってないって」
「言ったわよ!」
「声でけえよ!」
「あなたが言ったんでしょう!」
「だから声!」
二人揃って扉を見る。しばらく待った。誰も入ってこない。
「…………」
「…………」
「危ねえ……」
「あなた……」
少女の声が低くなる。
「どうして知っているの?」
さっきまで弱々しかった赤い瞳が、初めて鋭くレインを射抜いた。空気が変わる。ほんの一瞬。
目の前にいるのが瀕死の少女ではなく、人類が恐れ続けてきた何かだと、身体が理解した。背中に冷たい汗が流れる。
レインは唾を飲み込んだ。
「……見えたんだよ」
「何が?」
「お前の……なんて言えばいいんだろうな」
レイン自身、これを誰かに説明したことなどほとんどない。
「俺、人とか魔物とか見てると、たまに変なものが見えるんだ」
「変なもの?」
「言葉みたいなやつ。そいつが怖がってるとか、腹減ってるとか、誰かを守りたいとか。そういうの」
少女が瞬きをする。
「……心?」
「たぶん違う」
レインは少し考えた。
「心が読めるなら、もっと便利なはずだし。何考えてるかなんて全然分からない。ただ……そいつにとって大事なものとか、今そいつを動かしてるものとか。そういうのが見える」
「…………」
「俺は勝手に、『意味』って呼んでる」
少女は長い間、何も言わなかった。やがて、小さく呟いた。
「……意味」
「ああ」
「それで、私が魔王だと?」
「いや」
レインは首を振った。
「そこは違う」
少女が顔を上げる。
「お前に触ったとき、いつもと違ったんだ。知らない場所が見えた。でっかい城と、たくさんの魔族。それから……剣を持った男」
少女の表情が消えた。
「そいつがお前を見て言ったんだ。『魔王。今日こそ、お前を討つ』って」
沈黙。
少女の手が、シーツを強く握った。
「……アルベルト」
「やっぱり勇者なのか?」
返事はなかったけれど、それだけで十分だった。
「じゃあ今度は、お前の番だ」
「……何が?」
「俺の質問」
レインは少女を見る。
「なんで俺を探してた?」
しばらく、少女は答えなかった。やがて彼女は窓の外へ目を向けた。夕暮れの向こうに、黒い森が広がっている。
「……あなたを探していたわけじゃない」
「は?」
予想していなかった答えだった。
「でもお前、俺見て『やっと見つけた』って言ったよな?」
「ええ」
「どっちだよ」
「私にも、あなたの名前は分からなかった。顔も。どこにいるのかさえ知らなかった」
「じゃあ何を探してたんだ?」
少女はゆっくりとレインへ顔を戻した。
「届く人」
「……届く?」
「私の声が」
レインの表情が変わる。森の向こうの山のさらに向こうから届いた、黒く、悲しい意味。
《助けて》
「……あれ、お前だったのか?」
少女の目が見開かれた。
「……見えたの?」
「ああ」
「何が?」
「《助けて》」
その瞬間、少女の顔から表情が消えた。
驚きとも恐怖とも違う。
絶対に起こらないと思っていたことが、本当に起きてしまったような顔だった。
「……本当に」
震える声が漏れる。
「本当に……届いたの……?」
「ああ。だから俺、あの日からずっと――」
「いつ?」
「え?」
少女の手が、レインの腕を掴んだ。
「いつ見たの!?」
「お、お前、傷!」
「答えて!」
「森だよ! 昼前くらいだ! 魔物がみんな逃げてて、そのとき――」
少女の顔色が変わった。
「……魔物が?」
「ああ」
「どのくらい?」
「どのくらいって……ゴブリンもオークもオーガもいたし、グリフォンも――たぶんドラゴンまで」
「全部?」
「全部、森の外へ逃げてた」
少女の指から力が抜けた。
「……そんな」
「おい?」
彼女は窓の外を見た。
明らかに怯えていた。
「……もう、ここまで」
「何が?」
少女は答えない。
代わりに、ベッドから降りようとした。
「おい! 何やってんだ!」
「行かないと……」
「どこにだよ。その身体で歩けるわけねえだろ!」
「ここにいたら駄目」
「だから何が――」
「この村の人たちを逃がして」
レインの手が止まった。
「……は?」
「今すぐ。家も畑も置いて、できるだけ遠くへ」
「待て待て待て。いきなり村捨てろって言われて『はいそうですか』ってなるわけねえだろ」
「でも――」
「何が来る?」
「…………」
「森の魔物は、何から逃げてる?」
少女は唇を噛んだ。
長い沈黙のあと、ようやく答えた。
「……勇者」
「は?」
レインは一瞬、意味が分からなかった。
「いやいやいや」
だって。
「勇者は死んだんだろ?」
「死んだわ」
少女は即答した。
「私の目の前で」
「じゃあ何言って――」
「私にも分からない!」
少女の声が部屋に響いた。
直後、自分で傷を押さえ、苦しそうに息を詰まらせる。
「お、おい!」
「……ごめんなさい」
「謝ってる場合かよ。寝ろ!」
レインに押し戻され、少女は渋々ベッドへ身体を預けた。
呼吸が落ち着くまで、少し時間がかかった。
やがて彼女は天井を見たまま、ぽつりと続けた。
「アルベルトは死んだ。間違いない」
「…………」
「心臓が止まるところまで見た。聖剣も手から離れた。私は……その場にいたもの」
その声には、嘘をついているような響きはなかった。
「じゃあ、森にいる勇者って何なんだよ」
「分からない」
「生き返ったとか?」
「……違う」
今度の答えだけは早かった。
「どうして分かる?」
「見たから」
少女が震える。
「一度だけ」
「何を?」
「動いているアルベルトを」
レインは黙った。
「私が城を離れる直前。確かに死んでいたはずの彼が……立ったの」
「…………」
「声をかけた。でも答えなかった。私を見た。そして聖剣を拾って――」
少女の手が胸元の包帯に触れる。
「斬りかかってきた」
「それで逃げてきたのか」
「ええ」
「……何なんだよ、それ」
「だから分からないのよ」
その言葉には苛立ちより、恐怖が滲んでいた。
「でも、あれはアルベルトじゃない」
「見た目は?」
「アルベルトよ」
「身体も?」
「アルベルト」
「聖剣も持ってる?」
「ええ」
「……じゃあアルベルトじゃん」
「違う!」
また大声を出しかけて、少女が慌てて口を押さえた。レインも扉を見る。
ーー誰も来ない。
二人揃って小さく息を吐いた。
「……違うの」
今度は小声だった。
「私は彼と戦った。だから分かる」
「何が違う?」
少女は答えようとして――やめた。
「……分からない」
「どっちだよ」
「違うことだけ分かるの!」
「無茶苦茶だな!」
「うるさい!」
「お前もな!」
睨み合う。そして二人同時に扉を見る。
「…………」
「…………」
「もう小声で喧嘩しようぜ」
「……賛成」
少しだけ空気が緩んだ。だが、少女の表情はすぐに戻った。
「だから逃げて。あれは私を追っている」
「なんで?」
「私は魔王だから」
その答えだけは、彼女にとって疑う余地がないらしい。
「勇者は魔王を討つ。それだけよ」
レインは何も言わなかった。
勇者は魔王を討つ。当たり前の話だ。子どもだって知っている。昔話でも、教会でも、大人たちはそう教える。勇者は人類を守り、魔王を倒す。
だったら、死んでも魔王を追い続ける勇者というのは、むしろ筋が通っているのかもしれない。
――なのに。何かが引っかかった。
「……なあ」
「何?」
「そいつ、今どこにいる?」
「分からない。でも、私を追っているなら――」
そのときだった。
森から鳥の群れが一斉に飛び立った。二人とも窓を見る。何百羽という鳥が、夕暮れの空を黒く覆っていく。その下の森の奥で、何かが動いている。
姿など見えない。
距離だって遠すぎる。
それなのにレインには――見えた。
細い糸。
森の木々の隙間を縫い、こちらへ伸びてくる、淡い金色の糸。
「……なんだ、これ」
「レイン?」
視界が揺れる。
意味が流れ込んでくる。
《使命》
《討伐》
《完遂》
ひどく冷たい。
今までレインが見てきた「意味」とは、どこか違う。
腹を空かせたゴブリンには恐怖があった。
目の前の少女には孤独があった。
どんな相手から見えるものにも、揺らぎがあった。
なのにこれは。
まるで、決められた言葉を何度も繰り返しているみたいだった。
《使命》
《討伐》
《完遂》
「……勇者?」
少女の顔が強張る。
「見えるの?」
「たぶん」
レインは目を細めた。
そのとき。
三つの意味の奥。
あまりにも細く、今にも消えてしまいそうな別の糸があることに気づいた。
「……待て」
色が違う。
温度が違う。
冷たい金色の奥に、ほんのわずかに残った青い光。
そこに浮かんだ意味を見て、レインは息を止めた。
《やめろ》
「…………え?」
もう一つ。
《守れ》
次の瞬間、すべての糸が消えた。
「レイン?」
「……なあ」
「何?」
レインは森を見たまま呟いた。
「お前さっき、あれはアルベルトじゃないって言ったよな」
「ええ」
「……たぶん、それ合ってる」
少女が息を呑む。
「どういう意味?」
「分かんねえ」
「は?」
「分かんねえけど……」
レインは、自分の手を見る。
《使命》
《討伐》
《完遂》
そして、その奥にあった。
《やめろ》
《守れ》
同じ人間から出ているとは思えない、二つの「意味」。
「なんか変だ」
レインは顔を上げた。
「勇者が魔王を殺そうとしてるんじゃない」
「……え?」
「あれは――」
何と言えばいい。
まだ分からない。
だから、見えたことだけを口にする。
「勇者の身体が、魔王を殺そうとしてる」
少女は何も言わなかった。
夕暮れの森の向こうで。
また一つ、鳥の群れが空へ逃げていった。
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