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第2話 「落し物にはご用心!?」

森が静かだった。


 いや、正確には静かになった、というべきなのだろう。


 ついさっきまで地面を揺らしていた何かの気配は消え、空へ逃げていった鳥たちも少しずつ戻り始めている。それでもレインには、いつもの森とはまるで違う場所のように感じられた。


 木々も、草も、吹き抜ける風も何も変わっていない。


 なのに、一度見てしまった。


 ゴブリン、オーク、オーガ、グリフォン、そしてドラゴン。


 本来なら人間の方が逃げ出すような魔物たちが、たった一つの《逃げろ》という意味に染まり、何かに追われていた。


 そして、そのさらに向こうから届いた――。


 《助けて》


「……なんだったんだよ、あれ」


 誰に聞かせるでもなく呟いてみる。


 当然、返事はない。


「ギ」


「お前まだいたのかよ!」


 返事はあった。


 振り向くと、例のゴブリンが少し離れた木の陰からこちらを覗いていた。錆びた鉈は腰に差している。どうやら、少なくとも今すぐレインを殺すつもりはなくなったらしい。


「……帰れよ」


「ギ?」


「家族いるんだろ。帰れって」


 通じているはずがない。


 それでもゴブリンはしばらくレインを見つめたあと、森の奥へ視線を向けた。その体が、わずかに震える。


「…………」


 レインは眉を寄せた。


 帰れないのか。


 そう思った瞬間だった。


 また、見える。


 ゴブリンから伸びる意味の糸。


 《恐怖》


 《幼子》


 《飢餓》


 そして今度は、新しい意味があった。


 《帰れない》


「……やめろよ」


 レインは思わず目を逸らした。


「そういうの見せんなよ」


 見たところで、どうにもできない。レインには魔力がないし、魔物を倒す力もない。


 剣術だって村の自警団で少し習った程度で、さっきもゴブリン一匹に殺されかけたばかりだ。


 何か恐ろしいものが森の奥にいるとして、自分に何ができるというのか。


 知らなかったことにして帰ればいい。そもそも薪を拾いに来ただけなのだ。


「…………くそ」


 レインは地面に転がっていた薪を拾った。


 一本、二本、三本。


 それから、自分でも何をやっているのかと思いながら、拾った薪を貯めていた薪束の脇へ置く。


「そこで待ってろ」


「ギ?」


「だから待ってろって。……ああもう、言葉通じねえの面倒くせえな!」


 叫びつつ、レインは村の方へ走り出した。


 ◇ ◇ ◇


「パン?」


 村の小さな食料庫で、管理をしている老婆が目を丸くした。


「ああ。昨日のでもいい。できれば固いやつ」


「薪を拾いに行った子が、どうしてパンを欲しがるんだい」


「腹減った」


「昼飯を三つも持っていっただろう」


「育ち盛りなんだよ」


「十六にもなって育ち盛りねえ」


 老婆は疑わしそうにレインを見る。こういうとき、村というのは面倒だった。


 百人にも満たない小さな村では、誰が何をしているのか、だいたい誰かが知っている。レインが朝から森へ薪を拾いに行ったことも、昼飯として黒パンと干し肉を持っていったことも、なぜかこの老婆は知っている。


「で?」


「……何だよ」


「誰にやるんだい」


「なんでそうなるんだよ」


「お前が自分で食べるなら、固いパンなんて選ばないだろう」


「くっ……」


 ぐうの音も出ない。


 老婆は鼻を鳴らすと、棚から昨日焼いた黒パンを二つ取り出した。


「持ってきな」


「いいのか?」


「あとで薪を二束、余計に持ってくるんだよ」


「三束持ってくる」


「二束でいいよ」


「じゃあ二束」


 レインはパンを受け取った。


「ありがとう、婆ちゃん」


「誰が婆ちゃんだい」


「八十三だろ!」


「まだ八十二だよ!」


「誤差だろ!」


 めっちゃかったい杖が豪速でぶっ飛んできた。


「いってぇ!」


 今日二度目である。


 どうして自分はこうも殴られるのだろう。レインは頭をさすりながら食料庫を飛び出した。


 そのまま村の門へ向かう。


 だが――。


「……あれ?」


 足が止まった。


 門の外から、何人かの男たちが戻ってくるところだった。いつもなら鹿や兎を担いで帰ってくる連中が、今日は何も持っていない。それどころか、一人は肩から血を流していた。


「どうしたんだ?」


「森に入るな、レイン」


 先頭にいた男が険しい顔で言った。


「東側にオークが出た」


「……オーク?」


「ああ。それも一匹じゃない。五、いや六はいた」


 レインの背中を冷たいものが走った。


「そいつら、人を襲ったのか?」


「いや」


「え?」


「それが妙なんだ。こっちなんか見向きもしなかった。何かから逃げるみたいに、森を突っ切っていった」


「…………」


 嫌な予感がした。


「その傷は?」


「逃げる途中の一匹にぶつかられた。剣を抜く暇もなかったよ」


 男は苦笑したが、レインは笑えなかった。


 やっぱりだ。


 あれは自分だけが見た幻なんかじゃない。


 ――森で何かが起きている。


「レイン?」


「……なんでもない」


 男たちの横を通り抜けようとする。


「おい、どこへ行く」


「薪、置いてきた」


「馬鹿。今の話を聞いてなかったのか?」


「森の入り口だよ。すぐ戻る」


「明日にしろ」


「…………」


「レイン」


 男の声が低くなる。


 分かっている。普通なら行くべきではない。


 オークが六匹も逃げ出してくる森へ、魔力も持たない十六歳の少年が入る理由などない。ましてや、その理由が――ゴブリンにパンを届けるため。


 言えるわけがない。


 言えば今度こそ頭を割れるほど殴られる。


「分かったよ」


 レインは答えた。


 そして男たちが村の中へ入っていくのを待った。


 十秒。


 二十秒。


 三十秒。


「…………ごめん」


 レインは森へ走った。


 ◇ ◇ ◇


「いない」


 さっきの場所まで戻ってきたレインは、息を切らしながら辺りを見回した。


 あのゴブリンの姿はない。


「おーい!」


 呼んでから、自分が何をしているのか分からなくなる。


「いや名前知らねえし!」


 森の中から返事はない。


「ゴブリンー!」


 自分からゴブリンを呼ぶ人間など、おそらく王国広しといえどもレインくらいだろう。


「パン持ってきたぞー!」


「ギ」


「いた!」


 茂みから顔が出た。


「お前なぁ!」


 レインは安堵した。


 なぜ安堵したのか、自分でもよく分からない。数十分前まで殺されかけていた相手だというのに。


「ほら」


 黒パンを一つ放る。


 ゴブリンは慌てて鉈を捨て、両手で受け取った。匂いを嗅ぎ、裏返す。


 レインを見る。


 またパンを見る。


「食っていいぞ」


「ギ……?」


「毒なんか入ってねえよ。俺だって食う」


 もう一つのパンをちぎり、口に入れる。


 ……固い。


「……かってぇ」


 老婆が昨日のパンを選んだ理由が分かった気がした。


 ゴブリンはしばらく警戒していたが、やがて小さくパンをかじった。その目が見開かれる。


「うまいか?」


「ギ!」


「そりゃよかった」


 ゴブリンはもう一口だけ食べた。


 しかし、それ以上は食べず、大事そうに胸元へしまった。


 ――レインには、その理由が分かってしまった。


 《幼子》


「……持って帰るのか」


「ギ」


「でも、帰れないんだろ?」


 ゴブリンの動きが止まった。


 そのとき、遠くから鐘が鳴った。


 カァン――。


「……え?」


 カァン、カァン、カァン。


 村の鐘。


 三回。


 間を置いて、また三回。


 レインの顔から血の気が引いた。


「魔物だ」


 村で決められている警鐘だった。


 森から魔物が出たときに鳴らす鐘。


「嘘だろ……!」


 レインは走り出した。


 背後からゴブリンの声が聞こえたが、振り返る余裕はなかった。


 ◇ ◇ ◇


「どこだ!」


 村へ飛び込む。


「魔物は!?」


「レイン!」


 門番が叫んだ。


「お前どこに行ってた!」


「そんなことより魔物!」


「……それが」


 門番の男は、困惑した顔で村の中央を指差した。


「分からん」


「は?」


「魔物なのかどうかも……分からん」


 人だかりができていた。


 レインはその間を押し分ける。


「通して!」


「レイン?」


「ちょっとごめん!」


 そして、人垣の中央へ出た。


 そこにいたのは――。


「……女の子?」


 少女だった。


 レインと同じくらいか、少し年下に見える。


 長い黒髪。


 泥と血にまみれた黒い服。


 裸足。


 そして、恐ろしく白い肌。


 少女は村の門まで歩いてきたところで力尽きたらしく、地面に倒れていた。


「生きてるのか?」


「息はある」


「触るな。魔族かもしれんぞ」


「でも角もないぞ?」


「耳も人間と同じだ」


 村人たちが口々に言う。


 レインは少女を見つめた。


 確かに、人間にしか見えない。


 だが、何かがおかしかった。


 胸の奥がざわつく。


「……まさか」


 レインは人垣から一歩前へ出た。


「おい、レイン!」


 止める声を無視して、少女のそばへしゃがむ。


 ――ひどい傷だった。


 肩から胸にかけて服が裂け、その下には焼け焦げたような傷がある。左腕にも深い切り傷があり、乾いた血が指先までこびりついている。


 そして胸の中央には――。


「これ……」


 小さな穴が開いていた。


 何かに貫かれた痕だろうか。


 傷の周囲には、微かな金色の光が残っている。


「これって、聖……属性?」


 誰かが後ろで呟いた。


 レインには魔法のことなど分からない。


 ただ、この少女が死にかけていることだけは分かった。


「医者を――」


 手を伸ばした。


「待て、レイン!」


 誰かが叫ぶ。


 それでもレインは、少女の冷たい指先に触れた。


 その瞬間。


「――っ!?」


 世界が消えた。


 今までとは違う。


 ゴブリンのときとは比較にもならない。


 意味の糸などという生易しいものではなかった。


 黒。


 赤。


 金。


 青。


 数え切れないほどの意味が、まるで世界そのものが砕け、そのすべてが一度に流れ込んできたかのように、レインの意識を埋め尽くす。


 《憎悪》


 《恐怖》


 《孤独》


 《王》


 《契約》


 《裏切り》


 《勇者》


 《聖剣》


「う……あ……!」


 頭が割れそうだった。


 離さなければ。


 そう思うのに、手が動かない。


 そして濁流の奥に、レインは見つけた。


 ほんの数時間前から自分の頭にこびりついて離れなかった、あの意味。


 《助けて》


「…………嘘だろ」


 その瞬間だった。


 今まで一度も起きたことのない何かが起きた。


 意味ではない。


 ――景色。


 見たこともない巨大な城。


 天井の見えないほど広い謁見の間。


 黒い石で造られた玉座。


 その前に、何十、何百という異形の者たちがひざまずいている。


 角を持つ者。


 翼を持つ者。


 獣の姿をした者。


 その誰もが、玉座に座る一人の少女へ頭を垂れていた。


 ――今、目の前に倒れている少女へ。


「……なんだよ、これ」


 景色が変わる。


 炎。


 崩れ落ちた壁。


 折れた剣。


 死体。


 玉座の前に立つ、一人の男。


 血まみれになりながら、それでも男は立っていた。


 両手で握られているのは、眩しいほどの光を放つ剣。


 レインは、その言葉を知っていた。


 聖剣。


 そして男は――。


「勇……者……?」


 その声が届いたのかどうかは分からない。


 記憶の中の男が、剣を構える。


『――魔王!』


 男が叫んだ。


『今日こそ、お前を討つ!』


「――っ!」


 景色が砕けた。


 森でもない。


 城でもない。


 レインは再び村の中にいた。


「レイン!」


「……え?」


「大丈夫か!?」


 誰かが肩を揺する。


 周囲には村人たちがいる。


 そして目の前には、血まみれの少女。


「…………」


 レインは少女を見る。


 もう一度、先ほどの景色を思い出す。


 玉座。


 ひざまずく無数の魔族。


 聖剣を構えた勇者。


 そして、勇者が確かに叫んだ言葉。


 ――魔王。


「…………まじかよ」


 少女の瞼が、わずかに動いた。


 ゆっくりと赤い瞳が開き、焦点の合わない目がレインを捉える。


「……あなた……」


 か細い声だった。


 人類最大の敵と呼ばれる存在とは到底思えない、人間の少女と何も変わらない声。


「私の……心が、わかるの……?」


「……え?」


 レインは息を呑んだ。


 どうして、この少女はそんなことを聞く?


「お前……俺が何を見てるか、分かるのか?」


 少女は答えなかった。


 ただ、長い間探し続けていたものをようやく見つけたように、ほんの少しだけ笑った。


「……よかった」


「何がだよ」


「やっと……見つけた……」


「待て。何の話だ」


「あなたを……」


「…………は?」


 少女の瞳が閉じる。


「おい!」


 力の抜けた体を、レインは反射的に抱き止めた。


「ちょっと待て! 俺をって何だよ! おい!」


 返事はない。


 腕の中に残ったのは、死にそうなほど冷たい少女の体。


「レイン」


 背後から声がした。


「……何を見た?」


「…………」


 レインの心臓が跳ねた。


 振り返る。


 村人たちがこちらを見ていた。


 当然だ。


 少女に触れた途端、レインは突然苦しみ出した。そのうえ《勇者》だの《魔王》だのと口走っていた可能性すらある。


「その子……何者なんだ?」


 聞かれた。


 レインは腕の中の少女を見る。


 ――魔王。


 子供でも知っている。


 人類の敵。


 魔族を統べる王。


 幾千、幾万もの人間を殺し、勇者によって討たれた――はずの存在。


 ここで言えばどうなる?


『こいつ、魔王みたいです』


 言えるわけがない。


 この場で首を刎ねられてもおかしくない。


 それが正しいのかもしれない、とさえ思う。


 魔王なのだから。


 人類の敵なのだから。


 殺してしまえば、世界は救われるのかもしれない。


 ――なのに。


 レインの頭に浮かんだのは、勇者へ向けられていた憎悪でも、玉座にひざまずく魔族たちでもなかった。


 《孤独》


 そして。


 《助けて》


 あれだけだった。


 意味を見なければよかった。


 何も知らなければ、きっと自分だって「魔王だ」と叫べた。


 だけど、見てしまった。


 知ってしまった。


 この少女が何者なのかではない。


 この少女が、何を抱えてここまで来たのかを。


「レイン?」


「…………」


 どうする。


 分からない。


 魔王を助けるなんて正しいはずがない。


 そんなことをしたら、自分まで人類の敵になるかもしれない。


 それでも――。


 腕の中の少女は、あまりにも軽かった。


 冷たかった。


 そして、死にかけていた。


「……何でもない」


「え?」


 レインは少女を抱き直した。


「この子は……ただの人間だ」


 言った。


 言ってしまった。


 自分でも信じられない。


 たった今、人類最大の敵を庇った。


「医者んとこ運ぶ」


「お、おいレイン!」


「死んじまうだろ!」


 それだけ言って、レインは歩き出した。


 腕の中の少女は目を覚まさない。


 村人たちのざわめきが背中から聞こえてくる。


 レインは空を見上げた。


 今日の朝までは、薪を拾って帰るだけの一日だった。


 それがゴブリンに殴られ。


 オークが森から逃げ出し。


 意味の分からない《助けて》を見た挙げ句――。


 今。


 人類最大の敵を抱えて、医者のところへ向かっている。


「…………」


 しばらく考えて。


 呆然と空を見つめながら、レインは呟いた。


「俺、なんか悪いことしたかなぁ……」


 こうして。


 勇者が死んだその日。


 魔力を一滴も持たない少年レインは――


 魔王を拾った。

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