第1話 「森が逃げる!?」
魔力ゼロ。剣の才能もない。
辺境の村で暮らす少年レインにあるのは、世界に存在する「意味」が見えるという、役に立つのかも分からない力だけだった。
そんな彼が森で見たのは、人間を襲うはずのゴブリンが抱える《幼子》《飢餓》という意味。
そして、オークも、オーガも、ドラゴンさえもが共有する――《逃げろ》。
森で何かが起きている。
その日、人類最強の勇者が死んだ。
そしてレインのもとへ、たった一つの「意味」が届く。
《助けて》
声の主は、人類最大の敵――魔王だった。
世界中が彼女を《敵》と呼ぶ。
けれど、レインにだけ見えたのは、誰にも届かなかった彼女のSOS。
「……この子は、ただの人間だ」
魔力ゼロの少年がついた一つの嘘から、世界の「意味」は少しずつ変わり始める。
これは、敵を倒す力を持たない少年と、世界から敵と呼ばれた少女が、「勇者と魔王」の本当の意味を探す物語。
「――まじかよ……死んじゃうかもだってのに……ここでも見えるのかよ」
少年は、震える声でそう言った。
目の前にはゴブリンがいた。
緑色の皮膚。濁った黄色い目。欠けた牙。そして右手には、錆びた鉈。
どう考えても、話し合いのできる相手ではない。
対する少年――レインの手にあるのは、薪だった。
剣ですらない。
レインは必死になって薪を振り回しながら叫ぶ。
「お前が、ここへ来た意味が……俺には見える!」
だが、そんなことでゴブリンが止まるわけがない。
「ギャァァァッ!」
「待て待て待て! 俺はいま結構大事なことを――」
ゴッ、と鈍い音がした。
振り下ろされた鉈の付け根が、レインの腹をまともに打ちつける。
「ぶへっ!」
薪が飛んだ。
ついでにレインも飛んだ。
背中から地面に叩きつけられ、肺から空気が全部抜ける。
「いっ……てぇぇ……!」
やはり、意味が見えたところで殴られれば普通に痛い。
十六年間生きてきて何度目か分からないその事実を、レインは改めて噛み締めた。
しかし、ゴブリンは待ってくれない。
再び鉈を振り上げる。
「ギィッ!」
地面に倒れたレインには、もう逃げる余裕すらなかった。迫ってくる鉈を見ながら叫ぶ。
「ちょ、待――!」
その瞬間――。
世界から、音が消えた。
レインの瞳にだけ、奇妙な光が映る。
ゴブリンの胸から、細い糸のようなものが伸びていた。
赤。黒。灰色。
いくつもの光が絡まり合い、森の奥へと続いている。
レインは、それを見た。
いや、正確には――読んだ。
《飢餓》
《恐怖》
《焦燥》
そして――
《幼子》
「…………は?」
気づけば、鉈が止まっていた。
レインの鼻先、わずか数センチ。
ゴブリンの腕が震えている。
その震えの奥にあったのは、殺意ではない。
――恐怖だ。
こいつは怖がっている。
何を?
俺を?
いや――。
「お前……」
レインはゆっくりと顔を上げた。
「俺を食いに来たんじゃないのか?」
「ギ……」
ゴブリンの視線が動く。
レインではない。
その後ろ――村の共同穀物庫へと向けられていた。
「…………麦?」
ゴブリンの肩が、ぴくりと跳ねる。
レインはしばらく黙っていたが、やがて頭を抱えた。
「いや分かんねえよ! そこまで見えるなら言葉も分かれよ!」
「ギャッ!?」
ゴブリンが驚いたように声を上げ、鉈を持ったまま後ろへ飛び退く。
「お前に怒ってねえよ!」
「ギ……」
さらに一歩、ゴブリンが退く。
怖いのはこっちだ、とレインは思った。
だが、《幼子》という意味が頭から離れない。
「お前……そんななりして、親なのか?」
返事はない。
「だったらよ、傷つくだろ」
レインはゴブリンに怯えながらも、なぜか説教を始めていた。
「お前が食い物を盗んだりしたら、お前の家族だって殺されんだぞ!」
言葉など理解できるはずがない。
それなのに――。
「ギ……」
ゴブリンは鉈を下ろし、明らかに悲しそうな顔をした。
「そんな顔すんなよ!」
ゴブリンは困惑していた。
レインも困惑していた。
たぶんこの森の歴史上、人間とゴブリンがこれほど意味の分からない会話をしたことはない。
そのときだった。
ドン――。
地面が揺れた。
「……え?」
木々がざわめき、森にいた鳥たちが一斉に空へ飛び立つ。
鉈を持ったまま、ゴブリンが森の奥を振り返った。
「……ギィ」
その声を聞いた瞬間、レインにも分かった。
様子が違う。
――恐怖。
さっきまでとは比べものにならないほど、濃い恐怖。
そして森の奥――木々の向こうで。
巨大な何かが、動いた。
「……なんだよ、あれ」
次の瞬間、レインの瞳へ無数の光が流れ込んできた。
一匹や二匹ではない。
ゴブリン。
オーク。
オーガ。
グリフォン。
そして――ドラゴン。
「……嘘だろ」
森に生きる魔物たちから、無数の意味の糸が伸びている。
種族も違う。
力も違う。
普段なら互いに殺し合うはずの魔物たちが、今だけはすべて同じ意味を抱えていた。
《逃げろ》
《逃げろ》
《逃げろ》
《逃げろ》
《逃げろ》
「…………そういうことか」
レインは、ようやく理解した。
ゴブリンが村を襲ったんじゃない。
森に住む魔物すべてが、何かから逃げている。
「じゃあ……何から?」
その問いに応えるように、レインの視界のさらに奥で何かが揺らいだ。
森を越え。
さらにその向こうにある山を越え。
人間なら決して見ることのできないほど遠くから――一本だけ、レインのところまで届いている光があった。
黒い。
今まで見たどんな意味よりも深く、暗い。
なのに、なぜだろう。
レインにはそれが、とても悲しいものに見えた。
恐る恐る、その意味の糸へ触れる。
途切れ途切れに、何かが流れ込んできた。
《勇者》
《聖剣》
《王都》
「なんだ、これ……?」
そして――
《死》
「……死?」
最後に。
消えてしまいそうなほど微かな意味が、ひとつだけ残った。
《助けて》
「…………誰だ?」
もちろん、答えはなかった。
この日。
遥か遠く離れた地で、一人の勇者が死んだ。
人類最強と呼ばれた男だった。
聖剣を携え、十二の魔将を討ち、ただ一人で魔王城へ辿り着いた英雄。
けれど、その死を、このとき王国の人々はまだ知らない。
やがて報せが王都へ届いたとき、王国は三日三晩、彼の死を悼むことになる。
人々は魔王を呪い、王は復讐を誓い、教会は新たな勇者を選ぶと宣言する。
そして後の歴史書には、こう記されることになる。
――勇者アルベルト、魔王との決戦に敗れ死す。
ただし。
その報せが王都へ届くよりも早く。
世界でたった一人、レインだけが知っていた。
勇者が死んだその瞬間、遥か彼方から届いた意味を。
それは《勝利》でもなかった。
《憎悪》でもない。
《殺意》ですらない。
ましてや――《世界を滅ぼす》でもなかった。
魔王から世界へ伸びていた意味は、たったひとつ。
《助けて》
だった。




