第18話 「俺の眉毛があああ!?」
グランツを目指すと決めてから、旅は驚くほど平和だった。
街道は緩やかな丘の間を西へ伸び、ときどき森の近くを通りながら、ずっと先まで続いている。荷馬車とは何度かすれ違ったし、昼を過ぎる頃には反対方向から歩いてくる旅人も増えてきた。
そのたびにリシェルが妙に大人しくなるので、最初は魔王だと気づかれないよう警戒しているのかと思った。
どうも違うらしい。
「……ねえ、レイン」
「ん?」
「今の人、どうして私を見てから少し早足になったの?」
「お前がずっと見てたからじゃね?」
「見ていただけよ」
「真顔でな」
リシェルは納得がいかないらしく、遠ざかっていく旅人の背中を見つめた。そうやってまた凝視するから怖がられるんだと思う。
「知らない人とすれ違うときって、どういう顔をすればいいの?」
「どういう顔って……普通でいいだろ」
「その普通が分からないから聞いてるのよ」
なるほど。
魔王というのは、知らない旅人とすれ違ったときの作法までは教えてもらえないらしい。
「じゃあ、次に誰か来たら軽く頭下げてみれば? こんな感じで」
俺がやってみせると、リシェルは真剣な顔で頷いた。
しばらくして、向こうから荷物を背負った男が歩いてきた。すれ違う直前、リシェルが立ち止まり、背筋を伸ばす。
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げた。
男はぎょっとした顔で俺たちを見たあと、何度も振り返りながら去っていった。
「……レイン」
「なんだ」
「失敗した気がするわ」
「俺もそう思う」
「何がいけなかったの?」
「全部かな」
「教え方が悪いんじゃない?」
「人のせいにすんな」
リシェルは不満そうだったが、俺はちょっと面白かった。
昨日まで森で化け物相手に戦っていた奴が、今日は知らない人への挨拶で失敗している。
たぶん俺は、魔王というものをまだ全然分かっていない。
そんなことを考えながら歩いていると、さっきまで街道の脇で鳴いていた鳥の声が、いつの間にか聞こえなくなっていることに気づいた。
俺は足を止めた。
「レイン?」
「……なんかいる」
昨日の森ほどじゃない。
あのときは森全体が何かから逃げていた。でも今は、右手の茂みだけが妙に静かだった。
葉の向こうへ目を凝らす。
《警戒》
意味が浮かんだ。
「右の茂み」
俺が言うと、リシェルは理由を聞かずにそちらへ身体を向けた。
葉が揺れた。
飛び出してきたのは、茶色い毛に覆われた丸い身体だった。長い耳の間から、一本だけ小さな角が伸びている。
「ホーンラビットか」
小型の魔物だ。畑を荒らすこともあるから、リト村の近くにも時々出る。肉は食えるし、角も安いながら売れるので、村の猟師が見つければ狩ってくることもある。
ちなみに俺は昔、一匹に追い回されたことがある。
笑うな。
角の生えたウサギが本気で突っ込んでくると、普通に怖い。
ホーンラビットはすぐには襲ってこなかった。鼻をひくつかせながらこちらを窺い、その頭上に浮かんでいた《警戒》が、やがて《威嚇》へ変わる。
「リシェル。たぶん、こっちが離れれば――」
《攻撃》
「あ、来る!」
地面を蹴った瞬間には、もう目の前まで来ていた。
意味が先に見えても、俺の身体が速くなるわけじゃない。慌てて横へ逃げようとした俺の前にリシェルが入り、突っ込んできたホーンラビットの角を片手で掴んだ。
そこで全部止まった。
「…………」
俺も。
リシェルも。
たぶんホーンラビットも。
宙に浮いたまま、後ろ足だけが虚しく動いている。
「……これ?」
「うん」
「魔物よね?」
「そうだな」
リシェルは手の中のホーンラビットを眺め、それから本気で不思議そうに俺を見た。
「弱くない?」
「お前がおかしいんだよ」
昨日の異形と比べているのだとしたら、基準が悪すぎる。
「これ、どうするの?」
「どうするって……逃がせば?」
「食べないの?」
「お前まだ肉諦めてなかったの!?」
「夜の分よ。食べられるんでしょう?」
確かに食える。
でもリシェルに角を掴まれたまま、頭上に《恐怖》を浮かべているホーンラビットを見ていると、だんだん可哀想になってきた。
「……逃がそう。そいつ、最初は《警戒》してただけだったし。俺たちが近づいたから襲ってきたんだと思う」
「そんなことまで分かるの?」
「そこまでは分かんない。ただ、そう見えるってだけ」
リシェルは少し考えてから、「分かったわ」と草むらへホーンラビットを下ろした。
手を離した瞬間、茶色い塊が森へ向かってすっ飛んでいく。
その背中を見送りながら、リシェルがぽつりと言った。
「……夕食」
「別の考えような」
どうやら魔王にとって魔物とは、敵か食料かのどちらからしい。
◇
日が傾き始める頃になって、俺たちは一つの問題に気づいた。
宿場がない。
正確には、この先にあることは分かっている。グランツへの道を教えてくれたおじさんも、途中に二つあると言っていた。
ただ、どこまで歩けば着くのかを聞いていなかった。
「……レイン」
「言いたいことは分かる」
「私、まだ何も言ってないけど」
「でも俺を責めようとしてただろ」
「少しだけ」
「正直だな」
空を見上げる。まだ明るいものの、あと一時間もすればかなり暗くなるだろう。慣れない街道を夜まで歩くのは避けたいし、最近は魔物が増えているという話も聞いたばかりだ。
「今日は野宿するか」
「野宿」
なぜかリシェルの顔が少し明るくなった。
「……なんで嬉しそうなんだよ」
「旅らしいじゃない」
「お前、そういうの気にするんだな」
「私だって旅くらいしたことあるわよ」
「じゃあ野営もできる?」
リシェルが黙った。
ものすごく嫌な沈黙だった。
「……寝るだけでしょう?」
「よし。俺がやる」
「ちょっと! 今の間は何よ!」
街道から離れすぎず、水も確保できる場所を探す。幸い、小さな沢の近くに開けた場所があり、地面も乾いていた。空を見る限り雨の心配もなさそうだ。
荷物を下ろし、まずは火を起こす準備をする。
「リシェル、その辺の細い枝を拾ってきて」
「分かったわ」
素直に森の方へ向かったので、俺も地面に落ちている枯れ枝を集め始めた。
少しして戻ってきたリシェルは、俺の腕くらいある枝を何本も抱えていた。
「……それ何?」
「枝よ」
「細いのって言ったよな?」
「細いでしょう?」
「木と比べればな」
どうやら基準から教える必要があるらしい。
俺は指くらいの太さの枝を一本拾って見せ、それからもっと細い枯れ枝と、火が育ってから使う薪を分けた。
リシェルは隣にしゃがみ込み、思った以上に真剣な顔で俺の手元を見ている。
「そんなに面白い?」
「火を起こすのに、ずいぶん手間をかけるのね」
「魔法使える奴ならもっと簡単なんだろうけどな」
俺にはそれができない。
昔からそうだった。
みんなが指先に小さな火を灯して遊んでいた頃、俺は火打ち石の使い方を覚えた。水を出す魔法を習っていた頃には、どこなら飲める水が取れるのかを親父や村の猟師に教わった。
できないなら、別の方法を覚えるしかなかった。
別に大したことじゃない。
俺にとっては、それが普通だった。
「最初はこのくらい細いのを使う。火がついたら、少しずつ太い枝に移して――」
「あら。それなら私がつけるわよ」
「え?」
リシェルが焚き木へ手を向けた。
その指先に、赤い光が集まる。
嫌な予感がした。
「いや、ちょっと待――」
ぼっ、と空気が鳴った。
次の瞬間、積んでいた薪がまとめて炎に包まれた。火柱が一気に膨れ上がり、熱風が顔面を撫でる。
「ちょ、ま――熱っ! 俺の眉毛があああ!?」
顔を押さえながら後ろへ転がった。
「レイン!?」
幸い服には燃え移っていない。顔もある。髪も……たぶんある。
問題は眉毛だ。
恐る恐る指で触ってみる。
右。
ある。
左。
……ある。
「……生きてる」
「何が?」
「眉毛だよ!」
リシェルは燃え盛る焚き火と俺の顔を見比べた。
「ちゃんとあるじゃない」
「結果論で人の眉毛を語るな!」
「でも、燃えてないでしょう?」
「燃えそうだったんだよ!」
「ちゃんと加減したわよ」
「これで!?」
「今の私、魔力が戻りきってないのよ。そのうえでかなり弱くしたんだけど……」
「今後、お前の『弱くした』は信用しない!」
沢から急いで水を汲み、周囲へ燃え移っていないことを確かめる。幸い、湿った草のおかげで火は焚き木の中だけに収まっていた。
俺が胸を撫で下ろしていると、後ろから小さな声がした。
「……ごめんなさい」
振り返る。
リシェルが、まだ焚き木へ向けていた手を引っ込めていた。
ちょっとだけ、しょんぼりしている。
怒る気が少し失せた。
「……まあ、何も燃えなかったからいいけど」
「眉毛も?」
「眉毛は重要なんだよ」
「そう」
「笑うな」
「笑ってないわ」
口元が笑ってる。
「次はもっと弱くするわ」
「次は俺がやる」
「できると思うけど」
「駄目」
「今の百分の一くらいなら――」
「絶対駄目」
リシェルは納得していないようだったが、俺は譲らなかった。
世界を滅ぼせそうな魔王が、焚き火一つまともにつけられない。
旅に出るまで、そんなこと考えたこともなかった。
◇
夕食は、村から持ってきた芋と干し肉、それに道中で見つけた食べられる野草を煮たものになった。
結局、肉である。
リシェルは木の器を両手で持ち、湯気の向こうから中身を覗き込んでいた。一口食べると、赤い瞳が少しだけ大きくなる。
「……おいしい」
「そりゃよかった」
「昼のパンより好き」
「パン作ったおばちゃんには言うなよ」
「パンもおいしかったわよ。でも、こっちの方が好きなの」
そう言って、また一口。
ただ芋と干し肉を煮て塩を入れただけだ。村なら誰でも作れるし、俺だって料理と呼ぶほどのものだとは思っていない。
なのにリシェルは、一口ずつ確かめるみたいにゆっくり食べていた。
「……そんなに珍しい?」
「何が?」
「こういう飯」
リシェルは少し考え、手元の器へ視線を落とした。
「温かいものは食べていたわ。でも、作っているところを見たことはあまりないから」
「ああ」
「気づいたら並んでいたもの」
それだけ言って、また芋を口へ運ぶ。
魔王だったから。
たぶん、それだけの話だ。
誰かが作って、誰かが運んで、それを食べる。リシェルにとって食事とはそういうものだったのだろう。
でも、なんとなく。
それだけでもないような気がした。
「じゃあ明日は手伝えよ」
「私が?」
「作ってるところ見たいんだろ。見てるだけじゃ覚えないぞ」
リシェルは器から顔を上げた。
「……何をすればいいの?」
「そうだな。まず芋の皮でも剥いてみるか」
「それくらいならできるわ」
「薄くな」
「分かってるわよ」
自信満々だった。
ものすごく不安だ。
でもまあ、芋の皮くらいなら大丈夫だろう。
たぶん。
◇
食事を終えて片づける頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
焚き火がぱちぱちと音を立て、その向こうには夜の森が広がっている。リト村なら聞き慣れている虫や鳥の声も、知らない場所だと少し違って聞こえた。
「交代で見張るか」
「必要ないわよ。ある程度なら、何か近づけば魔力で分かるもの」
「……便利だな、魔王」
「今頃気づいたの?」
「じゃあ俺、寝ていい?」
「いいわよ」
「本当に?」
「信用してないの?」
「今日、焚き火で俺の眉毛を殺しかけた奴だからな」
「生きてるじゃない」
「眉毛の生死を軽く扱うな」
リシェルが声を立てて笑った。
俺も毛布を広げながら笑う。
昼間ずっと歩いていたせいか、横になると身体が一気に重くなった。
旅の最初の夜。
もっと眠れないものだと思っていた。村から遠く離れた知らない場所で、何が出るのかも分からない。それなのに焚き火の向こうにリシェルが座っているのを見ると、不思議とそれほど怖くなかった。
たぶん、こいつがいれば大抵の魔物はどうにかなる。
焚き火については、俺がどうにかする。
「リシェル」
「何?」
「火、足すとき魔法使うなよ」
「分かってるわよ」
「絶対だぞ」
「しつこいわね。寝なさい」
目を閉じる。
ぱち、と薪が爆ぜる音がした。
少ししてから、リシェルの声が聞こえた。
「……レイン」
「んー?」
「明日の芋、本当に私がやるの?」
「やる」
「失敗したら?」
眠気の中で、朝の光景を想像する。
さすがに芋の皮を剥くだけだ。
「まあ、食える範囲なら食うよ」
「食べられなくなったら?」
「お前が食え」
「なんでよ」
笑いながら目を閉じた。
旅に出て一日目。
目的地は決まった。魔物にも遭ったし、野宿もした。眉毛もどうにか生き残った。
悪くない初日だったと思う。
だからこのときの俺は、まだ知らなかった。
翌朝。
魔王に芋の皮剥きを任せるという判断が――今日一番の失敗なんか比べものにならないほど、間違っていたことを。




