第17話 「魔物って全部食べられるの!?」
リト村を出て、一時間ほど歩いた。
空はよく晴れていた。街道の左右には畑が広がり、その向こうには緩やかな丘と森が続いている。昨日まで命のやり取りをしていたのが嘘みたいに穏やかで、時折すれ違う荷馬車の御者も、俺たちに軽く手を上げて通り過ぎていった。
生まれてから十六年、村の周りの森や畑ならそれなりに歩き回ってきたけれど、こうして荷物を背負って村から離れていくのは初めてだった。さっきまでは何度か振り返れば屋根が見えていたのに、今ではもうそれもない。
なんだか妙な感じがする。
「ねえ、レイン。一つ聞いていい?」
隣を歩いていたリシェルが、前を向いたまま声をかけてきた。
「ん?」
「どこへ向かっているの?」
俺はその場で足を止めた。
リシェルはそのまま数歩進んでから振り返り、俺が黙っているのを見て不思議そうに首を傾げた。
「……お前、知らないの?」
「私が聞いてるんだけど」
「いや、俺はてっきりお前が知ってるのかと。俺がこっちに来たのは、村から出る道がこっちだったからだぞ」
「そうなの?」
「そうなのって……お前、どこに着くと思って歩いてたんだよ」
「あなたが迷わず歩いていたから、何か考えがあるのかと」
「ねえよ!」
言い切ってから、二人で黙った。
街道はどこまでも続いている。少なくとも道に迷ってはいない。問題は、この道の先に何があるのか二人とも知らないことだった。
旅に出て一時間。
俺たちは早くも、目的地がないという重大な事実に気づいてしまった。
「……一回、整理しよう」
「賛成」
街道脇にちょうど大きな木があったので、その木陰へ入る。荷物を下ろすと肩が一気に軽くなったが、俺より重い荷物を背負っていたリシェルは平然としていた。
こういうところだけは、やっぱり魔王なんだよな。
「まず、お前は魔族領には戻れない。少なくとも今は」
「ええ」
「リト村にもいられない。だったら、これから何がしたい?」
リシェルはすぐには答えず、街道の向こうへ目をやった。
「……知りたいわ。昨日のあれが何だったのか」
予想していた答えだった。
「あれが本当に私を追ってきたのか、それとも別の理由があったのか。《修正》という意味も、あなたが見た《接続》も、私は知らない」
「俺も分かんない。でも、あれってどっかから直されてたんだよな。少なくとも俺にはそう見えた」
「ええ。問題は、その『どこか』ね」
俺は木の幹に背を預けながら、昨日の光景を思い返した。何度倒しても立ち上がった異形と、最後の一瞬にだけ見えた《接続》。あれをリシェルが断ち切ってから、異形は二度と動かなかった。
だったら、あの先には何かがある。
「同じようなこと、他でも起きてないかな」
「同じようなこと?」
「死んだはずなのに動いたり、倒したはずの魔物が戻ったり、急に何かがおかしくなったり。昨日のあれだけ追いかけても手掛かりがないけど、似たようなのが他にもあるなら、比べられるだろ?」
リシェルは少し考え、それから頷いた。
「そうね。共通するものがあれば、《修正》が何なのか分かるかもしれない」
「だろ?」
「珍しくまともなことを言うわね」
「そこまで含めて同意しなくていいんだよ」
とはいえ、やることは少し見えてきた。《修正》そのものを追う方法がないなら、まず似た出来事を探す。そのためには情報が必要になる。
「魔族の情報網とか使えないの?」
「あるわよ。魔族領になら」
「……今のお前が使えないものを自信満々に紹介すんなよ」
「聞いたのはあなたでしょう?」
それもそうだった。
リシェルによれば、人間の領域については大きな都市の名前をいくつか知っている程度らしい。そこで王都という案も出たが、魔王と魔力ゼロの村人がいきなり王都へ乗り込むのは、俺にもリシェルにも嫌な予感しかしなかった。
「他に人が集まりそうな街は?」
「グランツなら知ってるわ。西の城塞都市よ。魔族領へ向かう街道の一つを押さえているから、名前くらいは」
「ああ……聞いたことあるな」
村に来る商人が話していた気がする。リト村とは比べものにならないくらい大きな街で、商人も旅人も、冒険者も集まる。
「じゃあ、そこ行こうぜ。人が集まるなら、変な噂も集まるだろ」
「異論はないわ」
「決まりだな。で、グランツってどっち?」
リシェルは街道を見た。
俺も見た。
右。
左。
もう一度、リシェルを見る。
「…………」
「…………何よ」
「知らないの?」
「場所は知ってるわよ。西でしょう?」
「西ってどっち?」
「…………」
「おい魔王」
「あなたこそ自分の国の街でしょう!」
「俺はリト村からほとんど出たことねえんだよ!」
またしても二人で黙った。
旅立ちというものは、もう少し格好いいものだと思っていた。知らない世界へ向かって颯爽と歩き出し、夕日に向かって進むとか、そういう感じの。
現実の俺たちは、出発から一時間で目的地を決め、直後にその方角が分からなくなった。
さすがに村へ戻って聞こうかと考え始めたところで、街道の向こうから荷馬車が近づいてきた。
リシェルと目が合う。
「……聞くか」
「そうしましょう」
ものすごく簡単な解決方法だった。
◇
「グランツ? この道をずっと西だよ」
荷馬車の御者は、俺たちの間抜けな事情など知らずに親切に教えてくれた。歩きなら三日、荷物を背負っているなら四日は見た方がいいらしい。途中には宿場が二つあり、街道から大きく外れなければ道に迷う心配もないという。
「若い二人で旅か? 気をつけろよ。最近、街道から少し外れた辺りで魔物が増えてるらしいからな」
「魔物が?」
「ああ。グランツから来た冒険者がそんな話をしてたぜ。まあ、この辺まで出てくることは滅多にないが」
礼を言って荷馬車を見送ると、俺とリシェルは自然に顔を見合わせた。
「今の話、気になる?」
「ええ。あなたは?」
「気にはなる。でも、今から探しには行かない」
俺がそう答えると、リシェルは少し意外そうな顔をした。
「どうして?」
「『魔物が増えたらしい』しか分かってないだろ。それだけで森に突っ込んで、昨日みたいなのがいたら洒落にならない。まずグランツで詳しく聞こうぜ」
「……そうね」
リシェルは素直に頷いた。
「あなたがそう言うなら、それでいいわ」
今度は俺の方が少しだけ意外だった。
「何よ」
「いや。もっと『私がいるんだから平気よ』とか言うかと思った」
「昨日、それで散々な目に遭ったでしょう。私だって学習くらいするわよ」
「そっか」
「何、その顔」
「いや。なんでもない」
たぶん、俺だけじゃない。
昨日のことで何かが変わったのは、リシェルも同じなのだろう。
行き先は決まった。
西の城塞都市、グランツ。そこなら人も情報も集まっているし、昨日の《修正》と似た出来事について何か分かるかもしれない。
俺たちは荷物を背負い直し、今度こそ目的地へ向かって歩き始めた。
◇
さらに二時間ほど歩くと、さすがに腹が減った。
街道から少し離れた木陰を見つけて荷物を下ろし、村でもらったパンと干し肉、チーズを取り出す。朝に詰めたものだから豪華でも何でもないが、昼飯なら十分だ。
そう思ってリシェルへ渡すと、受け取ったパンを見て、なぜか少し残念そうな顔をした。
「……何?」
「いえ。あなた、料理ができると言っていたから」
「できるけど?」
「てっきり何か作るのかと」
なるほど。
俺は手元のパンと干し肉、それから周囲を見た。鍋を出して火を起こして、昼飯のために一から料理をすることもできなくはない。でも、まだ昼だ。これから先も歩く。
「旅って毎食料理するもんじゃないだろ。昼はこれでいいんだよ。夜は宿がなければ火を起こすし、材料があれば何か作る」
「そういうものなのね」
リシェルは素直にパンを一口かじったものの、少し考えてから街道の向こうに広がる森へ目をやった。
「だったら、夜の分の肉を今のうちに獲っておく?」
「……まさか魔物を?」
「ええ。あの辺りなら何かいるでしょうし、今の私なら小型の魔物くらい――」
「昼飯のついでみたいに魔物狩りを予定に入れるな」
「でも、肉が必要なんでしょう?」
「必要になったら考えるんだよ。そもそも食える魔物かどうかも分かんないだろ」
リシェルはそこで初めて考え込んだ。
「魔物って、全部食べられるわけじゃないの?」
「……お前、今まで何食って生きてきたんだ?」
「食事よ」
「その答えで何も分からねえ!」
思わず声を上げると、リシェルはおかしそうに笑った。
どうやら魔王だった頃は、食事が出てくること自体を疑問に思ったことがないらしい。何をどこで買うとか、どう保存するとか、そもそも食材がどこから来るのかとか、そういう話になると途端に怪しくなる。
そのくせ魔物を狩ってこいと言えば、おそらく俺が昼飯を食い終わるより早く何かを仕留めて戻ってくる。
ものすごく役に立つのか、ものすごく役に立たないのか、よく分からない。
「とりあえず今日は村でもらった食料があるから、それ食おう。夜は宿場まで着けたらそこで食えるだろうし、着けなかったら俺が何か作る」
「分かったわ」
「意外と素直だな」
「だって、私は分からないもの。旅の食事については、あなたの方が詳しいでしょう?」
あまりにも普通に言われて、返事が少し遅れた。
「……まあ、旅したことないけどな」
「私よりは詳しいわ」
「基準がお前ならな」
それで話は終わった。
リシェルはパンを食べながら、目の前を通り過ぎていく荷馬車を眺めている。俺も隣でチーズをかじりながら、その向こうへ続く街道を見た。
村を出る前は、もっと怖いと思っていた。
実際、怖くないわけじゃない。この先で何が起きるのか分からないし、昨日みたいなものにまた出会う可能性だってある。
でも今は、それだけでもなかった。
「ねえ、レイン」
「ん?」
「夜は肉がいいわ」
「……結局そこに戻るのかよ」
「だって食べたいもの」
リシェルはそう言って、少し楽しそうに笑った。
俺もつられて笑う。
たぶん俺たちは、旅というものをまだ全然分かっていない。
それでも今のところ――今朝まで芋三つで旅に出ようとしていた頃よりは、少しだけマシになっている気がした。




