第16話 「芋3つで世界って回れるの!?」
昨日まで森を覆っていた気配が嘘だったみたいに、朝のリト村は静かだった。
鳥の声がする。家々の煙突から煙が上がり、畑へ向かう村人の姿もある。森に異形が現れて、リシェルやロイドたちが死にかけて、俺まで訳の分からないものを必死に見ていたなんて、知らない奴が見れば信じないだろう。
俺だって、昨日のことが夢だったと言われたら少し迷う。
身体は妙に重かったし、頭の奥にはまだ鈍い疲れが残っていたけれど、それでも目が覚めたら腹は減った。だから朝飯でも差し入れてリシェルと一緒に食おうかとガルドの家へ行った。扉を開ける。
「おはよ――」
そこで俺は止まった。居間の真ん中に、リシェルが座っていた。
足元には小さな布袋と水筒、包帯、それから芋が三つ並んでいる。リシェルはそれらを難しい顔で見つめ、向かいではガルドが腕を組んでいた。
「……何してんの?」
「旅支度よ」
迷いのない返事だった。もう一度、床を見る。
水筒。
包帯。
芋が三つ。
「それが?」
「そうよ」
「……どこまで行く気?」
「決めてないわ」
「ガルド」
「俺に聞くな。朝からずっとこれだ」
ガルドは疲れ切った顔で額を押さえた。
「せめて食料を持てと言ったら芋を持った。着替えを持てと言ったら『この服がある』と答えた。金はどうするって聞いたら――」
「人間の街に行かなければ必要ないでしょう?」
リシェルが続きを引き取った。ガルドが俺を見る。
俺もガルドを見る。
「……駄目だろ、これ」
「だから困ってんだよ」
「何がよ」
本気で分かっていないらしい。
...世界を滅ぼせそうな魔王が、芋三つでどこへでも行けると思っている。
「飯どうすんだよ」
「魔物を狩るわ」
「毎日肉食う気か?」
「嫌なら木の実でも探すわよ」
「調理は?」
「焼くくらいできるわ」
「鍋は?」
「…………必要?」
「必要だよ!」
リシェルが不満そうに眉を寄せる。その顔を見ていると、昨日までこいつを《魔王》と呼んで怯えていた自分が少し馬鹿らしくなってきた。
いや、戦わせれば今でも十分怖いんだけど。
「そもそも、お前まだ患者だろ」
俺が言うと、リシェルは胸元へ手を添えた。アルベルトにつけられた傷は、もうほとんど塞がっているらしい。
「傷は問題ないわ。魔力も少しずつ戻ってる」
「昨日、使い切りかけただろ」
「……それは」
「こいつの言う通りだ」
ガルドが割って入る。
「傷が塞がったから元気です、なんてのは患者が勝手に決めることじゃねえ。昨日あれだけ無茶したんだ。せめてあと数日は――」
「それはできないわ」
声は強くなかった。でも、ガルドは口を閉じた。俺も、たぶん同じ顔をしていたと思う。
リシェルは床に並べていた荷物を一つずつ袋へ戻してから、静かに立ち上がった。
「昨日のあれが、私を追ってきたものなら、ここにいる方が危険よ」
《修正》。
その言葉を、リシェルは口にしなかった。それでも昨日の森にいた全員なら、何を指しているか分かる。
何度壊しても《再構築》され、戦うたびにこちらへ《適応》した異形。最後には俺にだけ《接続》が見え、リシェルがそれを断ち切った。
止めることはできた。でも、あれですべて終わったのかは分からない。そもそも、あの《接続》はどこへ繋がっていたのか。それすら俺たちは知らない。
「また来ると思うか?」
「分からないわ」
リシェルは首を横に振った。
「だからよ。来ないと分かっているなら、ここにいてもいい。でも、分からないなら――私が離れた方がいい」
ガルドは何も言わなかった。たぶん、止める言葉が見つからなかったんだと思う。
俺にも見つからなかった。昨日の異形がもう一度現れたらどうなるか。今度も全員無事で帰れる保証なんてない。
「……そっか」
口から出たのは、それだけだった。リシェルが少しだけ俺を見る。
「ええ」
「じゃあ、魔族領に帰るのか?」
そう聞いた瞬間、赤い瞳がわずかに揺れた。ほんの一瞬だったけれど、今の俺にはそれで十分だった。
「……帰りたいわよ」
思っていたよりも素直な言葉だった。俺は続きを待った。
「でも、今は帰れない。アルベルトと戦ったあと、ヴァルネアがどうなったのかも分からないし、あれが私を追っているなら、私が戻ることで向こうまで巻き込むかもしれない」
「連絡は取れないのか?」
「今の私には無理ね。人間の領域から安全に連絡を通す方法もないし、下手に動けば誰が拾うかも分からない」
そこまで言ってから、リシェルは少しだけ目を伏せた。
「何より、何が起きているのか分からないまま帰るのは怖いわ」
意外だった。リシェルが、自分から怖いと言った。
昨日までなら強がったかもしれない。少なくとも俺には、そんな言葉を聞かせなかったと思う。
「……そりゃ、怖いよな」
だから俺も、それ以上のことは言わなかった。リシェルが顔を上げる。
「笑わないの?」
「なんで笑うんだよ。俺だって昨日のあれ、もう一回来たら嫌だぞ」
「あなた、戦ってないでしょう」
「頭はめちゃくちゃ使ったんだよ」
「それは認めるわ」
思わずリシェルを見る。
「……認めるんだ」
「何よ。私だって認めるところは認めるわよ」
「いや、お前もっとこう、『調子に乗らないことね』とか言うかと思った」
「言ってほしいなら言うけど?」
「いらない」
少しだけ、リシェルが笑った。それを見て、俺も肩の力が抜けた。
「じゃあ、どこ行くんだ?」
「それを考えているところよ」
「…………まだ決めてないのか」
「仕方ないでしょう。昨日まで死にかけてたのよ」
「それはそうだけど」
言われてみれば、その通りだった。
俺たちは昨日まで、今日のことなんて考えられる状況じゃなかった。リシェルにしたって、目が覚めてからずっとアルベルトに追われ、その後は《修正》だ。行き先を決めておけという方が無茶なのかもしれない。
「じゃあ、とりあえずそれを決めるところからか」
「そうね」
「……俺も考えるよ」
リシェルの表情が止まった。
「どうして?」
「どうしてって?」
「これは私の問題でしょう」
「昨日からそれ言うよな、お前」
「事実だもの」
「昨日戦ったの、俺たち全員だろ」
「それとこれは違うわ」
声を荒らげるわけでもなく、リシェルはゆっくり首を振った。
「昨日、あなたがいなければ、たぶん私たちは勝てなかった。《接続》なんて、私には最後まで見えなかったもの」
「俺だって、お前がいなきゃ見つけてもどうにもできなかったぞ」
「ええ。だから、あなたが役に立つことはもう分かってる」
そこまで言われるとは思わなかった。リシェルは俺をまっすぐ見た。
「だからこそ、連れていけないの」
「……逆じゃね?」
「逆じゃないわ。次にあれが現れたら、私はきっとあなたを頼る。昨日みたいに、何が見える、どこを斬ればいいって聞くと思う」
リシェルの指が、小さく握られた。
「でも、あなたは戦えない」
否定はできない。
「私が守りきれなかったら、あなたは死ぬわ」
それも否定できなかった。だから少し考えた。
昨日の森を思い出すだけで、今でも背中が冷える。次も同じようにできる保証なんてないし、もっと強い何かが来たら、本当に何もできないかもしれない。
「……怖くないわけじゃねえよ」
「なら――」
「でもさ」
俺はリシェルの言葉を遮るのではなく、その続きを受け取るように言った。
「お前一人で行くよりは、二人の方がマシじゃね?」
リシェルが黙った。
「俺にできないことは、お前がやれる。お前に見えないものは、俺に見えるかもしれない。昨日だってそうだっただろ」
「……そうね」
「それに、お前」
「何よ」
床に置かれた袋を見る。
「芋三つで旅に出ようとしてるし」
「それは今関係ないでしょう!」
「大ありだよ! 《修正》より先に野垂れ死ぬぞ!」
「魔物くらい狩れるって言ってるでしょう!」
「だから毎日焼いた肉だけ食うつもりかよ!」
「……木の実も食べるわ」
「そういう問題じゃねえ!」
ガルドが横で吹き出した。リシェルが睨むと、咳払いで誤魔化している。
「とにかく」
俺は笑いを堪えながら続けた。
「一緒に考えようぜ。どこへ行くかも、《修正》が何なのかも。その方がたぶん早い」
リシェルはすぐには答えなかった。しばらく俺を見て、それから小さく息を吐く。
「……本当に馬鹿ね、あなた」
「お前に言われたくねえよ」
「私はあなたよりずっと賢いわ」
「芋三つ」
「まだ言う!?」
またガルドが笑った。
その笑いが収まるまで待ってから、リシェルは俺に向き直った。
「レイン」
「ん?」
「昨日より危険になるかもしれないわ」
「うん」
「私にも、何が起こるか分からない」
「うん」
「それでも来るの?」
今度はすぐに答えられた。森の奥で初めて見た、あの言葉を思い出す。
《助けて》
あのときは、ただ見えたから走った。でも今は、あのときより少しだけこいつのことを知っている。
「まだだろ」
「何が?」
「助けるって言っただろ」
「……もう助けてもらったわよ」
「違う」
リシェルが俺を見る。俺はもう、そこに浮かぶ意味を探さなかった。
「助けるっつってんだろ」
赤い瞳がわずかに見開かれた。それから困ったように細くなり、リシェルは小さく息を吐いた。
「……勝手にしなさい」
「おう」
「ただし、危なくなったら私の言うことを聞くこと」
「分かった」
「無茶もしない」
「善処する」
「今、分かったって言いなさい」
「分かった分かった」
「二回言うと信用できないのはなぜかしら」
でも、もう追い返そうとはしなかった。それで十分だった。
◇
「で、まず何を持ってけばいいの?」
その一言で、俺は悟った。ーーたぶん旅に出るより先に、やることがある。
「リシェル。お前、着替え何枚ある?」
「これだけだけど」
「下着は?」
「…………レイン」
「旅の話だよ! その目やめろ!」
結局、その日の午前中は旅支度だけで潰れた。
俺は家へ戻って、自分の荷物をまとめた。着替え、布、針と糸、火打ち石、小刀、水筒、保存食。雨除けの外套もあった方がいいし、夜はまだ冷えるから毛布も必要だ。
リシェルは俺が荷物を選ぶのを、なぜか珍しいものを見るように眺めていた。
「あなた、こういうの慣れてるの?」
「旅はしたことないぞ」
「じゃあ、どうして分かるの?」
「これくらい普通だろ」
「普通……」
「服破れたら縫うだろ。飯も作るし、火も起こすし」
「あなた、裁縫できるの?」
「できるけど」
「料理も?」
「するけど」
リシェルが黙った。
「何?」
「……本当に魔力だけなのね」
「何が!?」
「なんでもないわ」
妙に納得した顔をされて腹が立つ。
ただ、荷物を二つに分けると、リシェルは当然のように重い方を持った。
「それ俺の」
「重いでしょう?」
「まあ、そうだけど」
「なら私が持つわ。あなたより力はあるもの」
「……じゃあ頼む」
「ええ」
そういうところは、変に張り合わなくていいらしい。俺ができることをやる。リシェルができることをやる。昨日の森でもそうだった。
ーーたぶん、それでいい。
昼を少し過ぎた頃、俺たちは村の入り口に立っていた。
どこから聞きつけたのか、村長や昨日一緒に戦った猟師たち、それに近所のおばちゃんたちまで集まっている。ガルドも最後まで不機嫌そうな顔をしていたが、結局は薬と包帯を余分に持たせてくれた。
「レイン、ちゃんと食えよ!」
「分かってる!」
「リシェルちゃん、こいつ無茶したら殴って止めていいからな!」
「分かったわ」
「そこは即答すんなよ!」
笑い声が上がる。別のおばちゃんが袋を差し出した。
「ほら、これも持ってきな!」
中を見る。
「……また芋?」
「日持ちするからね!」
横でリシェルが吹き出した。
「何笑ってんだよ。お前のせいだからな」
「いいじゃない。食べれば」
「料理するの俺だろ?」
「お願いするわ」
「もう俺が作る前提!?」
「だって、できるんでしょう?」
そう言って笑うリシェルを見ていると、なんだかもう反論するのも面倒になった。
「……まあいいけど」
「ありがとう」
さらっと返されて、今度は俺が黙る番だった。
「何?」
「いや。なんでもない」
荷物を背負い直して、村の外へ出る。少し歩いてから、一度だけ振り返った。
生まれてからずっと見てきたリト村がある。家も、畑も、森も、いつもと何も変わらないように見えるのに、今日だけは少し違って見えた。
怖くないわけじゃない。
この先に何があるのか、俺はほとんど知らない。《修正》の正体も、あの《接続》の先に何があるのかも、リシェルを狙う理由も分からない。
それでも、隣にはリシェルがいる。
「レイン」
「ん?」
「行きましょう」
「……おう」
今度は俺から前を向いた。行き先は、まだ決まっていない。
魔力ゼロの村人と、芋三つで旅に出ようとした魔王。
そんな二人が、この先どうなるのかなんて誰にも分からない。
ーーだからまずは、歩いてみることにした。




