第12話 「魔王って脱ぐと強くなるの!?」
「来た」
レインがそう告げた直後、エルネ大森林の奥で巨大な木が一本、ゆっくりと傾いた。
枝が隣の木を巻き込み、葉擦れとは呼べない轟音を響かせながら倒れていく。そのさらに奥で二本目が揺れ、三本目が折れた。
何かがいる。
森の中を進んでいる。
道など関係なく、木々を押し潰しながら、まっすぐこちらへ向かってきている。
「……でかくない?」
「見れば分かるわよ」
「いや、そうじゃなくて! どうすんだよ、あれ!」
「どうするって」
リシェルは肩からずり落ちかけた毛布を掴むと、鬱陶しそうにレインへ押しつけた。
「倒すけど?」
「その格好で!?」
寝間着だった。
ガルドの家にあったものを借りたらしく、白いシャツに黒いズボン。しかも裸足だ。どう見ても今から森を揺らしている何かと戦いに行く格好ではない。
「服で魔法の威力が変わるなら、魔王はみんな裸で戦ってるわよ」
「なんで強くなる方を脱ぐ前提にした!?」
「レイン君!」
背後からマリエラの声が飛んできた。
振り返ると、出発の準備をしていたらしい彼女とロイドが走ってくる。ロイドは旅袋を背負ったまま剣を抜き、マリエラも銀の三環印を握っていた。グランツへ発つ直前だったらしい。
「今の音は!?」
「森から何か来てる!」
「何かってなんだ!」
「分かんないから何かって言ってんだよ!」
ロイドが顔をしかめながら森を見る。その横を、逃げてきたホーンラビットが猛烈な勢いで駆け抜けていった。
誰もそれを追わなかった。
そんな場合ではない。
「村長に知らせます!」
マリエラが踵を返そうとしたところで、森から最後の一群が飛び出した。
フォレストウルフだった。
五頭の群れが、普段なら警戒するはずの人間たちには目もくれず、尾を巻いて畑の脇を走り抜けていく。その身体には、どれも同じ《恐怖》がまとわりついていた。
そして、その後ろで森が割れた。
「――うそだろ」
最初に見えたのは腕だった。
人間のものに似ている。ただし、大きさがおかしい。木の幹ほどもある黒い腕が樹木を押し退け、その向こうから頭らしきものが現れる。
一見すれば人型だったが、そう呼ぶにはあまりにも歪だった。
目も、鼻も、口もない。黒とも灰色ともつかない硬質な何かが人の上半身を形作っているのに、その輪郭はところどころ崩れ、肩からは獣の骨のような突起が何本も伸びている。
右腕だけが異様に長く、左腕は逆に短い。その肘から先は、巨大な刃のように鋭く尖っていた。
そして、人に似ているのは上半身だけだった。
巨体を支える脚は四本。
獣の胴体から、人間を無理やり生やしたような姿だった。
「……なんだ、あれ」
ロイドの声が低くなる。
冒険者である彼にも分からないらしい。
「魔物……なのでしょうか」
マリエラも青ざめていた。
「少なくとも、私は見たことがありません」
レインにも、それが何なのかは分からなかった。ただ、頭があるはずの場所――何もない顔の中央に、一つだけ黒い文字が浮かんでいる。
《修正》
そこには感情がなかった。
ゴブリンから感じた《飢餓》も、リシェルから感じた《恐怖》もない。アルベルトの身体に浮かんでいた《使命》よりも、さらに空っぽで、ただ一つの目的だけがそこにある。
「リシェル」
「見えてるんでしょ?」
「ああ」
「なんて?」
レインは一度だけ唾を飲んだ。
「《修正》」
リシェルの赤い瞳が細くなった。
「……やっぱり」
「知ってるのか?」
「知らないわよ」
「やっぱりって言ったじゃん!」
「アルベルトが死んだあとに感じたものと、同じ気配がするって意味!」
そう言いながらも、リシェルは後ろへ下がらなかった。むしろ異形へ向かって一歩前へ出る。
「おい、待て!」
「待たない」
「傷!」
「治り始めてる」
「始めてるだけだろ! 昨日、一割も戻ってないって言ってたじゃん!」
「今だって大して変わってないわよ」
「じゃあ余計に駄目だろ!」
レインが腕を掴もうとすると、リシェルは振り返った。
「レイン」
その声だけで、足が止まった。
ふざけていない。
いつもの苛立った顔でも、ガルドに怒られてむくれていた顔でもない。赤い瞳は森から出てきた異形だけを見据えている。
「村の人たちを下げて」
「お前は?」
「だから、倒すって言ってるでしょ」
「一人で?」
リシェルは一瞬だけ、きょとんとした。
それから、少しだけ笑った。
「誰に言ってるの?」
ぞくりとした。
怖かったからではない。
その瞬間、レインはようやく思い出した。この少女を、世界がなんと呼んでいるのかを。
魔王。
異形が森から完全に姿を現した。
高さは村の見張り台より少し低い程度だろうか。四本の脚が地面を踏むたびに土が沈み、刃になった左腕が木の幹を撫でるだけで、太い幹が斜めに滑り落ちていく。
何もない顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
《対象確認》
文字が変わった。
レインの背筋を冷たいものが走る。
「リシェル!」
言うより早く、異形の巨体が視界から消えた。
「――え?」
次の瞬間、地面が爆ぜた。
数十歩は離れていたはずの巨体が、一息でリシェルの目の前まで迫っている。巨大な刃が風を裂き、その小さな身体へ振り下ろされた。
「危な――!」
轟音とともに土煙が舞い上がり、レインは反射的に腕で顔を覆った。
「リシェル!」
「うるさい」
土煙の向こうから声が返った。
巨大な刃は止まっていた。
リシェルの頭上、ほんの指一本ほどのところで。
「……は?」
受け止めているわけではない。
リシェルは触れてすらいなかった。
刃と彼女の間で、空間そのものが黒く歪んでいる。異形が腕を押し込もうとするたび、そこから波紋のような揺らぎが広がった。
「病み上がりの相手に」
リシェルが右手を上げる。
「いきなり頭を狙うなんて」
指先が、異形へ向いた。
「礼儀がなってないわね」
空気が沈んだ。
音が消えたわけではない。風も吹いているし、森では枝が鳴っている。それでも、リシェルを中心に何かが明らかに変わった。
黒い光が足元から立ち上る。
煙でも、炎でもない。それは彼女の身体を包みながら、重力を無視するように空へ昇っていく。
「この……密度……」
マリエラが息を呑んだ。
ロイドは何も言わない。
剣を構えたまま、動けずにいる。
「まだ一割も戻ってないんだよな……?」
レインが思わず聞くと、リシェルは異形から目を離さないまま答えた。
「しつこいわね。戻ってないって言ってるでしょ」
「それでこれ!?」
「だから何よ」
リシェルが指を曲げた。
「伏せて」
「え?」
「伏せなさい!」
レインたちは一斉に地面へ身を投げた。
直後、黒い閃光が走った。
リシェルの指先から放たれたそれが異形の胸を貫いた瞬間、凄まじい衝撃が周囲へ弾け、土と枝と黒い破片がまとめて空へ吹き上がる。
レインは地面に伏せたまま、頭を抱えた。
轟音が遅れて森へ響き渡る。
顔を上げたとき、異形の上半身は原形を留めていなかった。
胸から上が消えたように見えるほど細かく粉砕され、黒い破片が周囲一帯に降り注いでいる。その背後でも木々がまとめて薙ぎ倒され、森の奥へ向かって一直線に大きな裂け目ができていた。
「…………は?」
レインは起き上がり、その光景を見た。
「お前……森、壊した?」
「少しね」
「少し!?」
下半身だけになった異形が、ぐらりと傾く。
四本の脚が折れ、その巨体が地面へ崩れ落ちた。地響きとともに土煙が上がり、近くにいた鳥たちが一斉に飛び立っていく。
リシェルは右手を下ろし、小さく息を吐いた。
「本調子なら、もっと細くできるんだけど」
「威力じゃなくてそっちを反省するの!?」
「森を壊すと後が面倒でしょう?」
「撃つ前に考えろよ!」
返事はなかった。
リシェルの身体が少し揺れたからだ。
「おい!」
レインが慌てて駆け寄る。
「平気よ」
「平気な奴はふらつかねえ!」
「ちょっと魔力を使っただけ」
「ちょっとで森がこうなるの!?」
リシェルは鬱陶しそうな顔をしながらも、レインの肩に体重を預けた。
「だから言ったでしょ。この村くらいなら消せるって」
「あれ冗談じゃなかったの!?」
「なんで冗談だと思ったのよ」
「思いたかったんだよ!」
リシェルが鼻で笑った。
その顔は少し青い。
やはり無理はしている。
それでもレインは、崩れ落ちた異形を見ながら言葉を失っていた。
あれほど巨大だったものが、一撃だった。
ゴブリン一匹に殺されかけた自分とは、文字通り住んでいる世界が違う。
「……魔王って、こんな強いの?」
「だから魔王なのよ」
「なんか腹立つな、その言い方」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてねえ」
「レイン君!」
マリエラが走ってくる。
その顔は完全に引きつっていた。リシェルと、一直線に薙ぎ倒された森を何度も見比べている。
「今のは……」
「私よ」
「それは分かります!」
「じゃあ何?」
「いえ、その……」
マリエラが言葉に詰まった。
代わりにロイドが口を開く。
「俺、さっきこいつに剣向けたんだけど」
「ああ」
「よく生きてたな」
「ほんとにな」
「聞こえてるわよ」
二人とも黙った。
村の方から声が聞こえてくる。
騒ぎを聞きつけた住民たちが、遠巻きに集まり始めていた。
「終わったのか!?」
「今のなんだ!?」
「森がえらいことになっとるぞ!」
「魔王がやった!」
「魔王!?」
「うちの魔王!」
「誰がうちのよ!」
リシェルの怒鳴り声に、なぜか村人たちの空気が少し緩んだ。
レインもようやく息を吐く。
見たこともない化け物だった。
アルベルトが死んだあとに感じたものと同じ気配をまとい、レインには《修正》という意味が見えた。
何が目的なのかも、誰が送り込んだのかも分からない。
それでも、倒した。
少なくとも今は。
「……ガルドに見つかる前に戻るわよ」
「無理だろ。あの音聞こえてないわけないじゃん」
「森で転んだことにする」
「何本の木を巻き込んだ転倒だよ」
「あなたも口裏合わせなさい」
「嫌だよ!」
リシェルがレインの脇腹を小突いた。
「痛っ!」
「うるさい」
「怪我人が人を攻撃すんな!」
「魔王よ」
「患者だろ!」
リシェルの動きが止まった。
レインも止まる。
「……ガルドの真似するんじゃないわよ」
「効いた」
「殺すわよ」
「勇者いないから死なねえのはお前だけだろ!」
ロイドが吹き出した。
マリエラまで口元を押さえている。
「笑わないで!」
リシェルが怒鳴った。
そのときだった。
レインの視界の端で、何かが動いた。
「……え?」
笑い声が止まる。
倒れた異形の残骸。
その周囲に散らばっていた黒い破片が、微かに震えている。
「リシェル」
「何よ」
「待って」
レインは肩を貸したまま、残骸を凝視した。
一つ。
また一つ。
破片が地面を這っている。
風に転がされているのではない。異形の下半身へ向かって、自ら集まり始めている。
「……なんだ、あれ」
ロイドが剣を構え直した。
リシェルもレインの肩から身体を離す。
地面に散っていた黒い欠片が集まり、繋がり、やがて失われた胴体の断面から細い線が何本も伸び始めた。
骨のような芯が組み上がる。
その周囲へ黒い物質が絡みつき、肉の代わりでもするように形を作っていく。
「そんな……」
マリエラが息を呑んだ。
肩が戻る。
腕が伸びる。
砕け散ったはずの頭部までが形を取り戻し、何もない顔が再びこちらを向いた。
「……おい」
レインの喉が乾いた。
「お前と同じじゃん」
「一緒にしないで」
リシェルの声から、さっきまでの余裕が消えていた。
「私はこんな気持ち悪い治り方しない」
「そこ!?」
「大事でしょ!」
再び立ち上がった異形を、レインは見上げた。
壊したはずだ。
間違いなく。
それなのに、元に戻っている。
いや。
「……リシェル」
「分かってる」
少し違う。
肩から伸びる骨のような突起が、さっきより一本増えていた。
左腕にしかなかった刃も、今度は右腕の先にまで黒い輪郭を作り始めている。
そして、レインには見えていた。
何もない顔に浮かぶ《修正》。
その下から、先ほどまでは存在しなかった新しい文字が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
《再構築》
「……倒しても、直る」
誰も答えなかった。
異形が四本の脚で大地を踏みしめる。
リシェルは荒くなりかけた呼吸を一度だけ整えると、再び右手を上げた。
黒い魔力が、その指先へ集まり始める。
「だったら」
赤い瞳が、真正面から異形を睨んだ。
「直らなくなるまで、壊すだけよ」




