亡霊デビュー準備
黒いバンは山道を走っていた。窓の外には街灯もない。ヘッドライトだけが暗闇を切り裂いている。ミコは助手席で落ち着かない様子だった。膝の上には小さな鏡。その横には大量のメイク道具が並んでいる。車はさらに山奥へ進んだ。三十分ほどして、巨大な建物が見えてくる。廃ホテルだった。窓ガラスの多くは割れ、外壁は黒く汚れている。の闇も相まって不気味な姿だった。
「ここか……」
ミコは思わず呟く。
「昔は観光客で賑わってたらしい」
黒崎が言う。
「今はただの廃墟だけどな」
バンは廃ホテルの近くの森へ入る。エンジンが止まった。辺りは静かだった。風の音しか聞こえない。
「始めるぞ」
黒崎は後部座席へ移動した。メイク道具を広げる。ミコは言われるまま椅子に座った。
「まず顔色を消す」
スポンジが頬に触れる。冷たい。白い塗料が塗られていく。次は目元。黒い化粧で深い隈が作られる。
「死体ってのは意外と血色がない」
「そんな知識いらなくないですか」
「ホラー屋だからな」
黒崎は真面目な顔で答えた。ミコはため息をつく。やがて長い黒髪のウィッグが被せられた。
「よし」
鏡を向けられ、ミコは息を呑んだ。そこにいたのは自分ではなかった。青白い顔。暗い目。濡れたような長い髪。本当に幽霊みたいだった。
「怖い……」
「自分で怖いなら上出来だ」
黒崎は満足そうだった。機材を抱え、二人はホテルの中へ入る。玄関ホールは薄暗く、床にはガラスの破片が散らばっていた。足音が響く。ミコは自然と声を潜めた。
「なんか本当に出そう」
「出るぞ」
「えっ」
「俺たちがな」
黒崎は笑った。ミコは少し不機嫌になった。ホテルの管理室へ入る。ここを作戦本部にするらしい。黒崎は次々と機材を取り出した。小型カメラ。ノートパソコン。スピーカー。モバイルバッテリー。謎の釣り糸。
「準備多くないですか」
「ホラーは準備が九割だ」
黒崎は真顔で答える。
「人間は見えないものを怖がるんじゃない」
小型スピーカーを廊下の隅に置く。
「見えそうで見えないものを怖がる」
次は三階へ移動する。黒崎は小型カメラを設置していく。ミコもできる限り手伝いをしていった。
「足音」
カメラ設置。
「物音」
スピーカー設置。
「照明」
小型ライト設置。
「全部積み重ねて、最後に幽霊を出す」
黒崎は振り返った。
「そうすると勝手に人間が怖がる」
ミコは少し感心した。
「映画って大変なんですね」
「だから売れないんだよ」
黒崎は真顔で言った。ミコは思わず笑った。準備は一時間以上続いた。気付けばホテル全体が巨大な舞台になっていた。黒崎は最後の確認を終える。
「よし」
その時だった。
スマホが震える。
動画配信開始の通知。
黒崎が画面を見せる。
見覚えのある金髪の男が映っていた。
『どうもー! オカルトハンターズです!』
仲間たちの笑い声が聞こえる。
『今日はこの廃ホテルに潜入しまーす!』
ミコの表情が引き締まる。画面の向こうで男たちは笑っていた。何も知らずに。これから何が起きるのかも知らずに。黒崎はモニターを開いた。口元がゆっくり吊り上がる。
「さあ」
ミコを見る。
「亡霊デビューの時間だ」
ホテルの外で車のドアが閉まる音が響いた。




