第2話 さようなら
その日は雨が降っていた。灰色の空。冷たい風。山道を歩く少女の足元で、小石が転がる。ミコは立ち止まった。
目の前には崖がある。下では濁流が轟音を立てながら流れていた。あと数歩進めば終わりだ。そう思うと、不思議と心は静かだった。 怖くないわけではない。足は震えているし、心臓も痛いほど鳴っている。
それでも…
学校へ行くことを考えれば、この恐怖の方がまだマシだった。
「おはよう」
いつものように挨拶した朝。誰も返事をしなかった。
教室には三十人以上いる。 聞こえなかったはずがない。それでも全員が無視した。ミコが席へ向かう。
机には黒い文字が書かれていた。
『死ね』
油性ペンで力いっぱい書かれた文字。周囲から笑い声が聞こえた。
「また書かれてる」
「似合ってるじゃん」
「消すなよ」
男子が笑う。
「せっかく書いたんだからさ」
教室中が笑いに包まれた。ミコは何も言えなかった。ただ拳を握りしめる。そこへ担任が入ってきた。
一瞬だけ机を見る。ミコを見る。そして何事もなかったかのように出席を取り始めた。助けてくれる人はいなかった。
教室だけではない。体育館裏のゴミ箱から上履きが見つかったこともある。机の中に生ゴミを入れられたこともある。教科書を破られたこともある。
スマホを開けば、知らないアカウントからメッセージが届いていた。
『キモい』
『学校来るな』
『なんで生きてるの?』
『死ねばいいのに』
最初は傷ついた。次は泣いた。そのうち何も感じなくなった。毎日同じことの繰り返しだったからだ。それでも、ある日は勇気を出した。
放課後の職員室。緊張で声が震えていた。
「先生……相談があります」
「どうした?」
「クラスで……いじめに…」
最後まで言えなかった。先生は困ったような顔をした。
「考えすぎじゃないかな」
その一言だった。
「でも……」
「みんな悪気はないと思うよ」
終わった。この人も助けてくれない。ミコは理解した。自分は一人なんだと。昨日の昼休みだった。トイレから戻ると、教室が妙に騒がしかった。黒板を見る。
そこには大きな文字が書かれていた。
『ミコ自殺予想』
その下にはクラスメイトの名前が並んでいた。
『今週』
『来月』
『卒業までには』
誰が当てるか賭けていた。
ミコがいつ死ぬかを。
「本人来た」
「答え合わせしろよ」
「いつ死ぬの?」
笑い声が響く。
その瞬間だった。
何かが壊れた。
もう無理だ。
本当にそう思った。
昨夜。
ミコは自分の部屋で机に向かっていた。
白い紙を一枚置く。
ペンを持つ手は震えていた。
『お母さんへ』
そこまで書いただけで涙が溢れた。
それでも書き続ける。
『ごめんなさい』
『頑張ろうと思ったけど無理でした』
『お母さんは悪くありません』
『私が弱かっただけです』
『今まで育ててくれてありがとう』
何度も涙で文字が滲んだ。
書き終えた紙を机の上に置く。
誰でも見つけられる場所に。
そのあと、静かに家を出た。
朝になる前だった。
母親を起こさないように。
音を立てないように。
最後に玄関を振り返る。
もう戻ることはない。
そう思っていた。
ミコは崖の下を見つめた。
激しい濁流が渦を巻いている。
怖い。
本当は死にたくない。
本当は助けてほしかった。
本当は普通の高校生になりたかった。
友達と笑って。
恋をして。
将来の話をして。
そんな当たり前の毎日が欲しかった。
だけど。
もう疲れた。
限界だった。
ミコはスマホを取り出す。
最後のメッセージを打ち込んだ。
『ごめんなさい』
『もう疲れました』
送信。
スマホを地面に置く。
雨粒が画面を叩いた。
「さようなら」
ミコは一歩踏み出した。
身体が宙に浮く。
風が吹く。
景色が流れる。
空。
山。
崖。
すべてが回転する。
そして――。
ドボンッ!!
全身に衝撃が走った。
「っ!!」
冷たい。
苦しい。
息ができない。
想像していたよりも遥かに激しい流れだった。
身体が一瞬で飲み込まれる。
上下も分からない。
水の中を転がされる。
岩に肩をぶつけた。
激痛が走る。
口の中へ水が流れ込む。
肺が焼けるように痛い。
(苦しい……!)
死にたかったはずだった。
なのに。
(嫌だ……)
心の奥から声が聞こえる。
(死にたくない……!)
必死に手を伸ばす。
何か掴もうとする。
だが何もない。
流れは容赦なくミコを下流へ運んでいく。
視界がぼやける。
身体から力が抜けていく。
寒い。
眠い。
苦しい。
(助けて……)
その言葉を最後に。
ミコの意識は深い闇の中へ沈んでいった。




