第二話 夕暮れの記憶
※前話の最後、ロイが質屋の扉に手をかけた、その続きです。
——だが、そこで俺は不意に、手を止めた。
なぜ、と聞かれても、自分でも説明できなかった。
扉はもう半分ほど開いていて、店の中から仄かな茶の香りと、薄暗い灯りが漏れ出している。あとは押し開けて、いつものように敷居をまたぐだけだ。三年間、何十回と繰り返してきた動作。考えるまでもない、習慣としての動き。
それなのに、俺の右手は、扉の縁を握ったまま、動かなくなった。
——なぜだろう。
胸の奥で、何かが、ことり、と音を立てた気がした。何かを思い出しかけている、その手前で立ち止まっているような、奇妙な感覚。
ふと、思った。
(俺は、今日、本当に「いつもの自分」に戻りたいんだろうか)
ギルドを追われ、革袋ひとつを下げて、夕暮れの裏路地に立っている十八歳の俺。明日からの宿代もない、家にも帰れない、誰一人として俺を必要としていない、そういう俺。
そんな俺が、いつものように扉を開けて、いつものように「はずれ箱」を漁って、いつものように何も見つからずに帰る——本当に、それでいいのか。
「いつもの俺」は、つまり「祖父の遺志を、誰にも知られずに継ぐ者」だった。
それは、惨めな選択だろうか、それともささやかな誇りだろうか、と俺はさっき自問した。どちらでもいい、と答えたつもりだった。
だが本当に、どちらでもいいのか。
扉の縁を握る手のひらに、ささくれが触れた。古い木の、何度も人の手で撫でられた感触。それがやけにはっきりと、指先に残った。
そして、不意に——
俺の脳裏に、別の手の感触が、鮮やかに蘇った。
枯れた木のような、震える、皺だらけの手。三年前、俺の手を握り、囁いた、祖父の手。
(——あの日、祖父さんは、俺に何を託したのか)
死の床のセリフは、何度も思い返してきた。「お前の血には」「お前の眼でなら」「神々の落とし物」「宮廷には戻るな」——その四つの断片は、もう諳んじることができる。
だが、その日のことを、俺は本当に思い出せているのか。
祖父の言葉ばかりが先に立って、もっと別のもの——あの日の部屋の空気、家族の声、灯りの色、季節の匂い——を、俺は、忘れていなかったか。
扉の縁を握ったまま、俺は静かに目を閉じた。
夕暮れの裏路地の中で、十八歳の俺は、十五歳の自分に戻っていく。
✦ ✦ ✦
三年前の春、祖父がまだ床に伏せる前の、ある日のこと。
祖父はその年の冬、最後の旅から帰ってきたばかりだった。北の方を、四ヶ月ほど回ってきたと言っていた。「お土産だ」と妹のニナに渡された木彫りの小さな動物——確か、狼の形をしていた——を、ニナは今でも大事に持っているはずだ。
旅から戻った祖父は、明らかに痩せていた。
母ヘレナは「お父さま、もう旅は終わりにしてください」と泣くように言った。祖父は穏やかに笑って、「ああ、もう終わりにする」と頷いた。だがその目の奥に、終わらせる気がないと、十五歳の俺にもわかる光が残っていた。
俺たちの家は、城下町ルーンガルドの東の外れにある、二階建ての小さな家だ。父が遺してくれた家、と母は時々懐かしむように言う。父アランが亡くなったのは俺が十歳のとき——五年前のことで、家には父の影だけが、家具や壁紙の中に薄く残っていた。
その家に、祖父はぽつりぽつりと帰ってくる。月に一度か、数ヶ月に一度。長くて一週間、短くて二、三日。いつも、何かを探しに行く途中か、何かを探し終えてきたかのような顔をして。
最後の旅から帰ったその春、祖父はいつもより長く、家にいた。
「ロイ。ちょっといいか」
ある晴れた日の午後、祖父は俺を二階の客間に呼んだ。客間といっても、滅多に客が来ないので、実質祖父の私室になっている部屋だ。本が積まれた小さな机と、寝具一式、そして、いつも閉じられている古い革鞄。それだけの部屋。
俺は不思議に思いながら、部屋に入った。
祖父は机の前に座り、革鞄を膝の上に置いていた。普段は決して開けない、開けるところを家族の誰も見たことがない、あの鞄を。
「座りなさい」
促されて、俺は床に腰を下ろした。
祖父は鞄を、ゆっくりと開けた。
中に何が入っているのか、俺は十五年間、一度も知らずに来た。だがその日、祖父は俺の前で、鞄の中身を一つだけ、取り出した。
——古い片眼鏡だった。
銀の縁取りに、薄く曇った硝子。鎖は途中で切れて、もう何かに留めることはできない。一見すると、骨董屋の片隅に転がっていそうな、平凡な品。
「これを、見せておきたかった」
祖父はそう言って、片眼鏡を俺の手のひらに、そっと乗せた。
「いつかお前が大人になる頃には、これがお前の物になる」
俺は片眼鏡を、まじまじと見つめた。
何がそんなに大事なものなのか、わからなかった。形見にしては、地味すぎる。だが祖父の表情は、これまでに見たどんな祖父の表情とも、違っていた。穏やかでもなく、寂しげでもなく、ただ——「ようやく見せられた」という、そんな顔をしていた。
「祖父さん、これ……」
「お前のおじいさんの、もうひとつのおじいさんの、そのまたおじいさんから——ずっと、ガレットの家に伝わってきたものだ」
祖父はそう言いながら、皺だらけの指で片眼鏡の縁を撫でた。
「私の若い頃は、これがよく見えた。世界の、いろんなものが」
「いろんなもの?」
「ああ。値段では計れない、いろんなもの」
祖父は微笑んだ。だがその微笑みには、薄い影があった。
「だが、最近は、見えなくなってきた。私の眼が、衰えてきた」
俺は片眼鏡を、自分の右目にかざしてみようとした。
その手を、祖父はそっと止めた。
「いや。今はまだ、いい」
「……どうして?」
「今のお前には、まだ早い。これをかける覚悟が、まだ、ない」
「覚悟?」
祖父は答えなかった。
代わりに、片眼鏡を再び自分の手に取り、ふっと笑った。
「いつかな。お前が、自分の足で『見たい』と思った時、この片眼鏡は、お前の物になる」
その日、祖父は片眼鏡をまた鞄にしまった。
俺はそれから、その鞄の中身を見ることはなかった。次に片眼鏡が俺の手元に来たのは、それから半年ほど経った、祖父の死の床——あの夜だった。
階段を下りる祖父の足音は、その日、いつもよりずっと、ゆっくりだった。
俺は客間に取り残されて、しばらく、自分の右の手のひらを見つめていた。
——たった今まで、そこに何かが、確かにあった気がした。
✦ ✦ ✦
祖父が死んだのは、それから半年後の、秋の朝だった。
前の晩、俺は祖父に呼ばれて二階に上がった。死の床——あの場面は、もう何度も思い返してきた。震える手、囁き、「お前の血には」「お前の眼でなら」「神々の落とし物」「宮廷には戻るな」。すべての言葉を、俺は今でも諳んじることができる。
だが、その夜の終わり方を、俺は意外と覚えていない。
祖父が息を引き取った瞬間を、俺は見ていない。最後の囁きの後、震える手が落ちて、俺はそれが祖父の手の重みだとわからずに、ただ手のひらに残された片眼鏡を見つめていた。気づいたら母が階段を駆け上がってきて、医者を呼ぶ声が下から聞こえて、家中が騒がしくなって——そして気づいたら、夜明けだった。
夜が明けた頃には、家には親戚が集まり始めていた。
ガレット家の遠い親戚たち。祖父の弟夫婦、その息子、母方の伯父——俺がほとんど会ったことのない人々が、一人、また一人と、東の外れの小さな家に集まってきた。
葬儀の段取り、遺品の整理、土地と家の話。
祖父の死から半日も経たないうちに、それらの実務的な話が、家の居間で交わされ始めた。誰も悲しんでいないわけではなかった。だが、誰もが「祖父の死を、生活の中にどう収めるか」を考えていた。そういうものだ、と当時の俺は思った。今でも、そう思う。
俺は、自分の部屋に閉じこもっていた。
机の引き出しの一番奥に、祖父から託された片眼鏡を、布に包んで隠していた。家族の誰にも見せていなかった。臨終の床で祖父に何を言われたかも、誰にも話していなかった。それは祖父と俺だけの秘密で、家族の誰かに話せば、その瞬間に何かが壊れる気がした。
だが、その夕方。
母ヘレナが、俺の部屋に入ってきた。
ノックもなく、扉を開け放って入ってきた母の手には、祖父の古い革鞄があった。あの、二階の客間でいつも閉じられていた、祖父の鞄。
「ロイ」
母の声は、いつもより低かった。
「お祖父さまの遺品を整理してる。この鞄、開けてもいいわね?」
俺は答えられなかった。
母は答えを待たずに、鞄の留め金を外した。
中から出てきたのは——空だった。
正確には、空ではなかった。古い旅の手帳、何枚かの地図、薬包の残り、それから、布に包まれた何か。母はその布の包みを取り出して、ゆっくりと広げた。
中身が出てきた瞬間、母の表情が、固まった。
——いや、違う。
中に入っていたのは、ガラクタだった。古い指輪、欠けた陶器の破片、文字の消えかけた羊皮紙の切れ端、錆びた銅貨が数枚。
(ばあちゃんの店の、はずれ箱と——同じだ)
その時の俺は、まだ三日月堂を知らなかった。だが今の俺なら、わかる。祖父はあの鞄に、エイダの店で買い集めた「はずれ箱」の中身を、ずっと隠していたのだ。
母は、しばらく沈黙していた。
そして、ぽつりと言った。
「やっぱり、こうだったのね」
「……母さん?」
「あの人は、最後まで、こんなことをしていたのね」
母の声は、震えていた。怒りではなかった。哀しみでもなかった。——疲れだった。長年溜め込んできた、深い疲れ。
「お父さん——あなたのお父さんも、こんなものに振り回されて、最後は」
そこで、母は言葉を切った。
「あなたのお父さんも」という言葉の続きを、俺は、後年まで何度も思い返すことになる。だがその時の俺は、母の言葉の重みを、正しく受け止められていなかった。
母はガラクタを布に戻し、立ち上がった。
「ロイ。お祖父さまから、何か預かった?」
——来た、と思った。
俺は、嘘がつけなかった。だが、本当のことも言えなかった。
「……何も」
俺の口から出たのは、その三文字だった。
母は俺をじっと見つめた。母の眼は、優しく、そして悲しかった。「嘘をついている」と知っている眼だった。
だが母は、それ以上は何も言わなかった。
「そう」
それだけ言って、母は部屋を出ていった。
布に包まれたガラクタは、母の手の中にあった。
その夜、俺は眠れなかった。
階下では親戚たちの話し声がずっと続いていた。夜中の二時頃、ようやく家が静かになった。
俺は布団から起き出して、足音を立てずに階段を下りた。
居間のテーブルの上に、祖父の革鞄が置かれていた。鞄の上には、母が取り出した布包みが、再び収められていた。鞄の中身は、明日、親戚の誰かが「不吉なものだから」と捨てに行くことになっていた——昼間、伯父がそう言っているのを、俺は聞いていた。
俺は、ひとつの計略を思いついていた。
モノクルだけを隠し持っていても、いずれ親戚に「お祖父さまの形見はどうした」と問われる。隠し通せる自信はなかった。だが——この鞄のガラクタは、明日、どうせ捨てられる。誰も、もう一度中を検めたりはしない。
ならば。
俺は足音を立てずに、自分の部屋から、引き出しの奥に隠していたモノクルを取ってきた。そして居間に戻り、捨てられる予定のガラクタの鞄——その布包みの中に、モノクルを、そっと紛れ込ませた。
こうしておけば、鞄ごと俺が持ち出しても、誰も気に留めない。「不吉なガラクタを、孫が代わりに捨てに行った」——そう思われるだけだ。モノクルは、ガラクタに紛れたまま、誰の目にも触れずに済む。
俺は鞄を、そっと胸に抱えた。
「祖父さん。これは、俺が貰っていく」
俺はそう、暗闇の中で囁いた。
「捨てさせない。誰にも」
その夜のうちに、俺は決めていた。
家を、出る、と。
祖父の道を辿る、と。
十五歳の春の、決意だった。
愚かしかったかもしれない。後先を考えていなかったかもしれない。だがあの夜、俺の中で何かが、確かに、決まった。
——そして、それから三年が経った今。
俺は夕暮れの裏路地で、まだ、扉の前に立っていた。
✦ ✦ ✦
夕暮れの風が、頬を撫でた。
俺は目を開けた。
裏路地の薄闇、軒先の風鈴、半ば開きかけた扉、そして、扉の縁にかかったままの自分の右手。十八歳の俺は、まだ、そこに立っていた。
——どれくらい、時間が経ったのだろう。
実際には、ほんの数秒だったのかもしれない。あるいは、もう少し長かったのかもしれない。だが俺の中では、確かに、三年分の時間が、一瞬の内に流れていった。
「祖父さん」
俺は、声に出さずに、口の中だけで呟いた。
「俺は、まだ、覚悟があるかどうかは、わからない」
三年前、祖父は俺に言った。「これをかける覚悟が、まだ、ない」と。あの言葉の意味を、十五歳の俺は理解しなかった。今でも、完全に理解できたわけではない。
だが、今日、ギルドを追われた日に、俺は——
(そうか)
俺は、ようやく気づいた。
俺がモノクルを最初に右目にかざしたのは、家を出てから半年ほど経った、ある雨の夜だった。安宿で雨音を聞きながら、何の気なしに、初めて。あの瞬間、世界の見え方が変わった。誰にも言えない秘密を、俺は抱えることになった。
つまりあの夜から、俺はもう、「祖父の道」を歩き始めていたのだ。
ただ自覚していなかっただけで。
冒険者という肩書きの陰で、ギルドの仕事を惨めにこなす振りをしながら、本当は、ずっと——祖父の道だけを、見ていた。
「……祖父さん。今夜こそ、ちゃんと、歩き始めるよ」
呟いて、俺は扉に再び手をかけ直した。
ぐっと、押し開ける。
軋む音と共に、扉が、内側へと開いた。
茶の香りと、薄暗い灯りの匂いが、ふわりと顔を撫でた。店内の奥、カウンターの向こうから、低く、煙草の煙にかすれた声が聞こえてきた。
「いらっしゃい」
老婆の声だった。
聞き慣れた、三日月堂のエイダ婆さんの声。
俺は、敷居をまたいだ。
扉に手をかけてから扉を開けるまでに、俺は三年分の記憶を渡ってきた。短い旅だった。だが、確かな旅だった。
革袋の底で、祖父のモノクルが、わずかに揺れた気がした。
お読みいただきありがとうございました。
モノクルに込められた、祖父の信頼。十五歳のロイが家を出た、その夜の決意。
次話、いよいよ物語は質屋「三日月堂」の中へ。




