第三話 裏路地の質屋
ロイが三年間通い続けた、裏路地の質屋「三日月堂」。今夜の語り手は、店の老婆エイダと、その孫娘――。
店の中は、外よりも、いっそう薄暗かった。
天井から下がる古い真鍮のランプが、橙色の光をかろうじて灯している。床は艶のなくなった石畳で、歩くたびに足音がこもって響く。両側の壁には木の棚がぎっしりと並び、その棚の中には——本当に、ありとあらゆる物が、雑然と詰め込まれていた。
古い銀器、欠けた陶磁器、装丁の傷んだ書物、ガラス瓶に詰められた琥珀色の液体、銅製の楽器、革表紙の手帳、文字盤の止まった時計、宝石らしき石が嵌った装身具、年代物の刀剣、何が入っているのか想像もつかない木箱の数々。
質屋というより、もはや、時間そのものを売り買いしているような店だった。
パイプ煙草と、安い茶と、古い紙の匂い。
その匂いを胸いっぱいに吸い込むだけで、俺は不思議と、自分が落ち着いていくのを感じた。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、もう一度、低い声が聞こえた。
細い陶製のパイプを吹かしながら座っているのは、店主のエイダ婆さん。皺の奥の眼光は、刃物のように鋭い。年齢を聞いたことはないが、たぶん七十は超えている。それなのに背筋は伸びていて、パイプの煙を吐き出す唇の動きには、若い頃の名残のような艶がある。
「ばあちゃん」
俺はカウンターの前まで歩いて、革袋を下ろした。
「いつもの、頼む」
エイダはちらりと俺を見上げて、パイプを口から離した。
「あんたも好きねぇ。今月で——三度目だよ」
「ああ」
「ロイ、今日は、なんだか様子が違うねぇ」
ぎくりとした。
エイダは続けて言った。
「いつものあんたなら、もう少し疲れた顔で来るんだけど。今日は、何ていうかねぇ……腹を、決めた顔をしてる」
「……そう、見える?」
「あたしくらいの歳になると、人の顔の中に、その日の決心の有無くらいは見えるようになるのさ」
エイダはパイプの灰を、カウンターの脇の灰皿にこんと落とした。
「で、何があったんだい」
俺は一瞬、迷った。
ギルドを追放されたこと、これからどう食っていくのかすらわからないこと——そういう実務的な話を、エイダに話していいのかどうか。
だが、エイダはきっと、そういう話を期待していない。
俺はカウンターの上に、銀貨を三枚、置いた。
「いつもの『はずれ箱』を、見せてくれ。一番安いやつでいい」
エイダはしばらく、その銀貨を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「あんた、ほんとに、エルマーの旦那と、同じことを言うねぇ」
俺の心臓が、ことり、と鳴った。
エイダは、立ち上がりかけて、店の奥に向かって呼びかけた。
「ミリア。あの箱、出しておいで。一番下の、新しいやつ」
奥の仕切り布の向こうで、若い女の声が「はい、おばあちゃん」と返事をした。
俺は、その声の方を、無意識に見た。
仕切り布が揺れて、若い女の影が一瞬だけ覗いた。
——だがその影は、すぐに、奥に引っ込んだ。
✦ ✦ ✦
俺は、銀貨に伸ばしかけていたエイダの指を、無意識に見つめていた。
その手は、皺だらけだが、指先は思いのほか細く、しなやかだった。パイプを持つときの、長い年月の手癖。爪の整え方、指輪のない指。
——祖父も、似たような手をしていた。
何を考えているんだ、俺は。
頭を振って、視線を戻した。エイダは銀貨を一枚ずつ確かめると、ふと顔を上げて、まっすぐに俺を見つめた。
「ロイ」
「……何?」
「あんた、たまに、エルマーの旦那と、同じ目をするねぇ」
息が、止まった。
俺は何も言えなかった。「祖父を知ってるのか」と聞き返そうとして、声が出なかった。
エイダはパイプの煙をふっと吐き出し、視線を少しだけ、店の天井に向けた。
「あの人もよく、うちの『はずれ箱』を漁っていったよ。あんたが、最初にうちに来た日——三年前の冬だったかね——あの時、あたしは内心、驚いてたんだ」
「……驚いた?」
「あの旦那と、同じ目をした若いのが、こんな裏路地に迷い込んできたんだから。最初は、孫だなんて思いもよらなかった。ガレットなんて姓、王国にはいくらでもある。でもね、三度目、四度目と来るうちに、わかったよ」
エイダはパイプを、ことりと灰皿の縁に置いた。
「血だね」
「……血?」
「顔つきじゃない。仕草でもない。何ていうかねぇ——ガラクタの山を見るときの、目の奥が、似てるんだ」
俺は、自分の手のひらを、無意識に握りしめていた。
「ばあちゃん。祖父は、いつから、ここに?」
「さあねぇ。あたしが店を継いだのは、もう四十年以上前だけど、その頃には、もう、たまに来てたよ。月に一度か、二度。何ヶ月か姿を消したかと思うと、また、ふらっと現れて、はずれ箱を漁っていく」
——四十年以上。
俺はその数字を、頭の中で噛みしめた。祖父が宮廷を辞めて旅に出始めたのが、確か五十代——母から聞いた話だ。だがエイダの言う通りなら、祖父はもっと若い頃から、すでに「はずれ箱漁り」をしていたことになる。宮廷鑑定士として勤めながら、こっそりと、裏路地の質屋に通っていた。
(なぜ、ばあちゃん——なぜ、ここだったんだ)
俺の中に、新しい疑問が生まれていた。
王都ソルバルトにも、もっと大きな都市にも、骨董屋や質屋は無数にある。それなのに祖父は、わざわざこの城下町ルーンガルドの、裏路地の三日月堂を、四十年以上通い続けた。たまたまの偶然とは、思えない。
「ばあちゃん。祖父は、ここで、何を探していたんだ?」
エイダは、しばらく俺を見つめた。
その眼の奥に、ふと、若い頃の名残のような光が、過った気がした。
「あたしにも、わからないよ。あの旦那、何も話さなかった。ただね——」
エイダはパイプを、再び口元に運んだ。
火は、もう消えていた。
「最後の頃、こう言ってたねぇ。『見えなくなった。私の眼には、もう、見えなくなった』ってさ」
俺の心臓が、また鳴った。
——同じ言葉だ。
死の床で、祖父が俺に囁いたのと、同じ言葉。
ということは、祖父は、エイダにも同じ告白をしていた。家族にも、宮廷の同僚にも話さなかったこと、あるいは話せなかったことを、この裏路地の老婆には、漏らしていた。
(ばあちゃんは、何者なんだ?)
その疑問を、俺は飲み込んだ。
聞いてはいけない、と直感が告げた。今日、聞くべきことではない。エイダが俺にここまで話してくれたのは、たぶん、エイダなりの判断があってのことだ。それ以上を引き出そうとすれば、何かが壊れる気がした。
「……」
俺が黙っていると、エイダはぽつりと続けた。
「あの旦那はね、最後まで、あんたのことを気にかけていたよ」
「俺の?」
「『孫が、いつかきっと』ってね。何度か、そう言ってた」
エイダの皺の中の眼が、ほんの少しだけ、優しくなった気がした。
「『俺の代では間に合わなかった。だが孫が、いつかきっと』——あの旦那、あんたのことを、信じてたんだろうね」
胸の奥が、ぐっと熱くなった。
俺は唇を噛んで、視線をカウンターに落とした。涙が出そうになっていることを、エイダに気づかれたくなかった。だがたぶん、エイダはとっくに気づいていた。
エイダは何も言わずに、パイプに新しい煙草を詰め直した。
奥の仕切り布の向こうから、若い女の足音が、近づいてくるのが聞こえた。
✦ ✦ ✦
足音は、想像していたより、軽やかだった。
仕切り布が揺れて、若い娘が現れた。
両手で抱えているのは、木製の小さな箱——たぶん、林檎が一山入るくらいの大きさ。古いが丁寧に手入れされた箱で、角の金具が黒く光っている。娘はそれを、よろめきもせず、すっとカウンターの上に運んできた。
「お祖母ちゃん、これ?」
「ああ、それでいい」
娘はカウンターの隅、俺と向かい合う形になる位置に箱を置いた。
そして、初めて、俺の方に視線を向けた。
——目が、合った。
亜麻色の髪が、肩のあたりで揃えられている。背丈は俺より少し低く、年齢は同じくらい——たぶん、十七か十八。質屋の手伝いをしているにしては、肌が綺麗で、手の動きが商家の娘らしい。袖を捲ったエプロンの下に、紺の地味な仕事着。
だが、何より目を引いたのは——その眼差しだった。
俺をじっと見つめる、その眼。
観察、というのが、いちばん近かった。だが冷たい観察ではない。むしろ、何かをひどく真剣に、見極めようとしている眼。客を見る目ではなかった。商品を見る目に、近かった。
俺は、思わず視線を逸らした。
「……どうも」
俺がぎこちなく頭を下げると、娘はそれに対して、軽く頷いただけだった。
「ミリアです」
「あ……ロイ。ロイ・ガレットだ」
「知ってます」
え、と俺は思った。
ミリアは表情を変えずに続けた。
「お祖母ちゃんが、よく話してます。ロイさんのこと」
「……俺の?」
「『ロイは、エルマーの旦那の孫だ』って」
そう言いながら、ミリアは箱の蓋に手をかけた。
カウンターの向こう側で、エイダがふん、と鼻を鳴らした。
「子供みたいに、人の話を覚えてるんじゃないよ、ミリア」
「だっておばあちゃん、何度も話してたじゃない」
「……まあ、いいさ」
エイダはまたパイプに火をつけて、煙を細く吐いた。
ミリアは箱の蓋を、ゆっくりと開けた。
中身が、見えた。
錆びた指輪が一つ。欠けた陶器の破片が数個。文字の消えかけた羊皮紙が一枚。錆びた銅貨が四、五枚。それから、布にくるまれた何か——握りこぶしほどの大きさの、何かが、箱の底に。
「これが、今月の一番下のはずれ箱」
ミリアはそう言って、箱を俺の方に少しだけ押した。
「銀貨三枚で全部、持ってってください」
ぴったり、と、銀貨三枚に値段がついていた。
俺はカウンターの上に、すでに置いた三枚の銀貨を、視線で示した。
「もう、払ったよな」
「あ、そうでしたね」
ミリアは少しだけ、はにかんだような表情を見せた。
その瞬間だけ、彼女の年相応の幼さが顔に出た気がした。だが次の瞬間には、また真剣な観察の眼に戻っていた。
「ロイさん」
「……何?」
「失礼な質問かもしれないけど、ひとつだけ、聞いていい?」
「内容によるけど」
「あなた、なんで、はずれ箱を買うの?」
俺は、息を呑んだ。
これまで誰一人として、俺にそれを直接聞いた者はいなかった。エイダですら、長い付き合いの中で、一度も聞いてこなかった。「銀貨三枚で全部持ってきな」と、毎月、同じ言葉だけ。
その問いを、俺が初めて店に来てからまだ十分そこそこの娘が、まっすぐに尋ねてきた。
「……理由は、人それぞれだろ」
俺は当たり障りのない答えを返した。
「そう」
ミリアは、それ以上は追及しなかった。だが、その「そう」には、明らかに何かを納得しないまま飲み込んだ響きがあった。
エイダがカウンターの向こうから、苦笑混じりに口を挟んだ。
「ミリア、お客さんを困らせるんじゃないよ」
「困らせてないわ。聞いただけ」
「お前のその、何でも知りたがる癖、いつか身を滅ぼすからね」
「もう滅びてるから大丈夫」
ミリアは平然と答え、エイダは肩をすくめた。
俺は箱を抱えて、カウンターから一歩下がった。
「ばあちゃん、ありがとう。じゃあ、また」
「ああ、気をつけて帰りな、ロイ」
そして、ミリアの方には何と言うべきかわからず、俺はただ、軽く頷いた。ミリアもまた、軽く頷いた。
——だが、店を出る最後の瞬間、俺は背中で感じた。
ミリアの視線が、まだ、俺の背中を追っていた。
✦ ✦ ✦
裏路地を出ると、夕暮れはもう、終わりかけていた。
商店街の灯りが、ぽつぽつと点り始めている。日中の喧騒は引いて、代わりに、夕食の支度の匂いと、家路を急ぐ人々の足音が、街を満たしていた。
俺は両腕で箱を抱え、商店街を抜けて、職人街の方へと向かった。
箱は思ったより、軽かった。重さで言えば、革袋の倍くらい。だが俺にとって、その重さは、世界中のどんな宝物よりも重く感じられた。
(——ばあちゃんは、何者なんだろう)
歩きながら、俺はそのことばかり考えていた。
四十年以上、祖父と関わってきた女。祖父の「見えなくなった」という告白を、家族にも宮廷にも漏らさなかった祖父が、なぜか、漏らしていた女。「孫が、いつかきっと」という祖父の言葉を、たぶん、何度も聞いていた女。
そしてその孫娘、ミリア——彼女の眼の中にあった、あの観察。
何かを、見極めようとしている眼。
ただの質屋の手伝いをしているにしては、あの眼は、鋭すぎた。
(……気のせいだったか?)
そう思おうとした。
だが、思えなかった。
『三本松亭』の前に着いた頃には、空はもう紺色になっていた。宿の主人——白髪交じりの中年の男——が、入り口で煙草を吹かしているのが見えた。
「ロイさんよ、宿代は」
「すまない。明日、必ず」
「明日な。明日も払えなかったら、出ていってもらうぞ」
「わかってる」
俺は黙礼して、宿の中に入った。
軋む階段を上がって、二階の一番奥、相部屋の自室へ。同室者の三人は今日、皆出払っているらしく、部屋は空だった。
俺は箱を、ベッドの脇の床に、そっと下ろした。
そして、しばらくの間、ただその箱を見つめていた。
革袋を肩から降ろし、ベッドの縁に腰掛けた。革袋の底で、祖父のモノクルが、わずかにかちりと音を立てた。
「祖父さん」
俺は静かに呟いた。
「今日、ばあちゃんが、あんたの言葉を、教えてくれたよ」
『孫が、いつかきっと』。
その言葉だけが、夕暮れの店内で、何度も俺の中で響いていた。
俺は革袋からモノクルを取り出して、手のひらに乗せた。
銀の縁取り、薄く曇った硝子、切れた鎖。それは三年前、客間で祖父が見せてくれた時から、何も変わっていない。だが、その意味は、今、変わりつつあった。
「俺の代では間に合わなかった。だが孫が、いつかきっと——」
祖父は、何に、間に合いたかったんだ?
それが今夜、この箱の中にあるとは、まだ思えなかった。三年間、はずれ箱を何箱も漁ってきて、出てくるのはガラクタばかりだった。今夜の箱だって、たぶん、いつも通り。だが——。
俺は箱の方に、視線を移した。
カウンターでミリアが「これが、今月の一番下のはずれ箱」と言った時、彼女の眼差しは、明らかに、その箱に向けて、ほんの少しの「特別感」を含んでいた。気のせいかもしれない。だが、もし気のせいでないなら——。
俺はモノクルを、革袋の底に戻した。
ベッドに横になって、天井を見上げた。
天井の梁に、古い蜘蛛の巣が一筋、揺れていた。
明日、宿代を払うために、ガレット家の最後の銀貨を使い切ることになる。明後日からは、いよいよ何もない。仕事もない、当てもない、未来もない。
それでも、なぜか、絶望はしていなかった。
胸の奥に、ひと粒の小さな火種のようなものが、まだ、燻っていた。
(——祖父さん。明日、この箱を、開けるよ)
俺はそう、心の中で呟いて、目を閉じた。
外で、夜の鐘が遠く鳴った。
お読みいただきありがとうございました。
四十年来、祖父を知る老婆エイダ。そして、何かを見透かすような孫娘ミリア。
「一番下の、新しいやつ」――その箱の底に何が眠っているのか。次話、ついに明らかになります。




