第一話 ギルドからの追放
三百年後。物語は、ひとりの青年から始まります。
「ロイ・ガレット。お前、今日でクビだ」
冒険者ギルド・ルーンガルド支部の受付カウンターで、俺はあっさりとそう告げられた。
告げたのは支部長のバランド。脂ぎった顔の中年男で、いつも俺を見るたびに「ごくつぶし」と吐き捨てていた。その彼が、今日は珍しく丁寧な口調を使っている。むしろそれが、決定の重さを物語っていた。
「……理由を、聞いても?」
「お前のスキル、【鑑定】だろう。ありゃあ、もう街の道具屋でも、安い鑑定の魔道具が買える時代だ。わざわざ【鑑定】持ちの腕一本に、金を払う依頼人はいねぇ。Fランクを抱えとく余裕は、うちにはねぇんだ」
バランドはカウンターの上に、一枚の羊皮紙を滑らせてきた。解雇通知書。羊皮紙の右下には支部長印が押されており、もう取り消せないことを示している。俺は黙ってそれを見下ろした。
「悪く思うなよ。お前が悪いんじゃねぇ。スキルが悪いんだ」
スキルが、悪い。
生まれたときに神から授かるそれを、十八の俺はもう何度呪っただろうか。剣も魔法も使えず、ただ「価値を見抜くだけ」のスキル。それも、安価な鑑定の魔道具が出回った今では、わざわざ人を雇う理由にもならない代物だ。
俺は解雇通知書に手を伸ばし、ゆっくりと引き寄せた。指先がかすかに震えていることを、見られたくなかった。
バランドはそれを見て、ふん、と鼻を鳴らした。そして、ふと思い出したように言った。
「だいたいよ、ロイ。前から不思議だったんだが、お前——」
カウンターに肘をついて、こちらを覗き込んでくる。
「なんで鑑定士のくせに、冒険者なんぞ目指したんだ?」
俺は、答えなかった。
答えられなかった、というのが、正しい。
その問いに正面から答えるためには、祖父のことを話さなければならない。祖父が遺したモノクルのことを、祖父が死の床で囁いた言葉のことを、そして三年前の俺が、何を信じて家を出たのかを——。
だが、それは誰にも話せないことだった。
「……お世話になりました」
俺は解雇通知書を四つに折り、革袋にしまった。深く一礼して、カウンターに背を向ける。
バランドは何か言いたげに口を開きかけたが、結局、何も言わなかった。
✦ ✦ ✦
カウンターから扉までの距離が、やけに長く感じた。
ルーンガルド支部のホールは、夕方前のこの時間帯にしては、人がそれなりに残っていた。依頼ボードの前で報酬の話に熱を上げているパーティ、奥の酒場で早くも酒杯を傾けている連中、武具の手入れをしながら談笑する者たち——その全員が、こちらを見ていた。
聞かれていないわけがなかった。バランドの声は、もとから大きい。それを支部長室ではなくカウンターで告げたのは、つまりそういうことだった。「冒険者ギルドの全員に、こいつは終わったと知らせる」——その方が、後腐れが少ない。
「おい、嘘だろ」
誰かが、わざとらしい大声で言った。
「あの『最弱の鑑定士』、ついにクビかよ」
軽い笑い声が、あちこちから上がった。揶揄というより、もう関心を持つ価値もないという、乾いた笑いだった。
「よく今までもったよなぁ」
「お情けで置いてたんだろ、バランドが」
「いやいや、ギルドの面汚しだろ」
俺は、まっすぐに扉を見て歩いた。
足を止めれば、何かを返してしまいそうだった。何を返すのかは、自分でもわからない。怒りなのか、言い訳なのか、それとも泣き言なのか——どれであっても、ここでそれを口にすることだけは、絶対にしたくなかった。
ホールの中ほどで、見知った顔とすれ違った。
ガルム。三月ほど前まで、短い期間だけ俺をパーティに混ぜてくれていた剣士だ。Cランクの、悪い男ではなかった。「ロイの【鑑定】は、宝箱の罠を見抜くのに案外使える」と言って、俺を雇ってくれた数少ない一人だった。
そのガルムが、俺と目が合った瞬間、すっと視線を逸らした。
責められなかった。
ここで俺に同情の言葉でもかけてみろ、明日からはガルムが「最弱とつるんでた奴」として笑われる側になる。それくらいのことは、俺にもわかる。
俺はガルムの横を、何でもなかったかのように通り過ぎた。
革袋の中の解雇通知書が、歩くたびに腰に当たる。四つに折ったはずなのに、やけに角が硬く感じた。握り潰したい衝動を、ようやく堪える。これは、明日からの暮らしを左右する書類だ。家を借りるにも、別の仕事を探すにも、これがないと「身元不明の浮浪者」として扱われる。
扉まで、あと十歩。
背中に、視線がいくつも刺さっている。憐れみの視線、嘲りの視線、ただ無関心な視線——その全部を、俺は背中の同じ一点で受け止めた。
扉に手をかける。
押し開ける。
夕方前のぬるい風が、頬を撫でた。
ようやく、息ができた気がした。
✦ ✦ ✦
ギルドの扉が背中で閉まると、城下町ルーンガルドの石畳が、夕暮れの橙色に染まっていた。
ルーンガルドはアルベリオン王国の中央部、王都ソルバルトから街道を西に三日ほど進んだ場所にある中規模の城下町だ。冒険者ギルドの地方支部としては有名な方で、近隣のダンジョン目当ての冒険者がそれなりに集まる。三年前、俺がこの町を選んだのも、辺境の遺跡へのアクセスがいいという理由だった。
——もう、関係のない話だ。
夕方の人通りは多くも少なくもなかった。仕事帰りの職人、夕食の買い出しをする女房、店じまいを始める商人、走り回る子供たち。誰もが、それぞれの今夜を持っていた。そして俺だけが、何も持っていなかった。
俺は石畳を、当てもなく歩き始めた。
肩から下げた革袋は、軽い。中身は、解雇通知書、着替えが一組、干し肉が少々、それから——祖父の形見の片眼鏡が、底に沈んでいる。三年前、十五歳で家を出たときから、俺の財産はほとんど増えていなかった。むしろ、減った。
宿に帰る、という選択肢が、まずあった。
俺が泊まっている安宿は、城下町の南、職人街と冒険者街の境目にある『三本松亭』という小さな宿だ。一泊銀貨二枚の、最も安い相部屋。今日の宿代はまだ払っていない。
財布の中身を確かめるまでもなく、覚えていた。銀貨が三枚。残っているのは、それだけだ。
宿代を払えば、明日の朝までは寝床がある。だが朝になれば、また銀貨二枚を払うか、追い出されるかのどちらかだ。仕事はもうない。明日からの稼ぎは、何もない。
「……」
足を止めて、暮れかけた空を見上げた。
雲が薄く流れていて、その隙間から差す光が、街の屋根を金色に染めていた。きれいだった。だが、きれいだと感じる余裕も、本当はなかった。
行く当てがない、ということを、こんなに切実に感じたのは初めてだった。
冒険者になるまでは、家があった。実家を飛び出すまでは、母と妹がいた。冒険者になってからの三年も、ギルドという場所があった。Fランクの中でも最下層で、誰にも期待されない居場所だったが、それでも「冒険者ギルド・ルーンガルド支部所属」という肩書きが、俺を社会の端っこに繋ぎ止めてくれていた。
それが、今日、ふつりと切れた。
実家には、帰れない。三年前、母の制止を振り切って家を出た俺が、無一文で「ただいま」と言って帰れるはずがない。妹のニナにはもう会いたい。だが、母ヘレナにあの目で——あの「だから言ったでしょう」という、何も言わずにすべてを語る目で——迎えられるくらいなら、俺はまだ、外で野垂れ死ぬ方を選ぶ気がした。
意地、というやつだ。
愚かしい意地だ、と自分でも思う。だがそれが今、俺をかろうじて立たせている最後の一本の支えでもあった。
行く当ては、ない。
明日からの予定も、ない。
何者でもない、ただの十八歳の青年が、夕暮れの石畳の上に、革袋を一つ抱えて立っている。それだけだった。
——いや。
俺は一度、目を閉じた。
ひとつだけ、ある。
行く当て、と呼ぶには情けない場所だ。冒険者として食えなくなった俺に、何かまともな仕事を世話してくれる場所ではない。だが、この三年間、ギルドの稼ぎが途絶えがちな俺を、細々と食い繋がせてきた、たったひとつの場所。
裏路地の奥の、小さな質屋。
色褪せた看板に、「三日月堂」とだけ書かれた店。
そこに行けば、少なくとも、いつもの「はずれ箱」を漁る続きができる。明日からの暮らしの当てにはならない。だが、今夜という一夜を、何かに集中して過ごすことくらいは——できる。
そう思った瞬間、自分が随分と惨めな結論に縋っていることに、気づいてしまった。
ギルドを追われた直後の青年が、向かう先が、裏路地の質屋。新しい仕事でも、新しい人脈でも、新しい挑戦でもない。ただ、いつもの「はずれ箱」。
笑いそうになった。
だが笑えなかった。
その「はずれ箱」が、俺にとって何を意味するのか、街の誰一人として知らないからだ。三年間、誰にも話さずに守ってきた、たったひとつの希望——いや、希望ですらないかもしれない、誰にも証明できない秘密。
革袋の底で、祖父のモノクルが、わずかに揺れた。
俺は、歩き出した。
夕暮れの石畳を、裏路地の方角へ。
宿代は、後で考えればいい。
✦ ✦ ✦
裏路地への道は、ルーンガルド支部から南へ二本、それから西へ折れて、商店街の裏手に入る。
俺はその道を、ほとんど考えずに歩けるくらい、覚えていた。三年間で、何十回通っただろう。最初の半年は、月に一度。次の半年は、半月に一度。そして、ここ二年は、月に三度。冒険者の稼ぎが細るほど、俺はここに通う回数を増やした。ギルドで食えない分を、この店で拾う「掘り出し物」で、どうにか埋め合わせていたからだ。
——惨めな相関関係だ。
商店街を抜けると、不意に空気が変わる。
光の差し込まなくなった狭い路地、両側に肩を寄せ合うように建つ古い家屋、塀の上で丸くなる痩せた猫、洗濯物のはためき、どこかから漂ってくる夕食の匂い。表通りの清潔な石畳とは別の世界が、ここにはあった。だが俺は、こちらの世界の方が、いくぶん息がしやすい気がしていた。
歩きながら、ふと、祖父のことを思い出した。
——いや、思い出したのではない。
ここに足を踏み入れるたびに、俺はいつも、祖父のことを思い出す。
祖父・エルマー・ガレット。
俺が十五歳のとき、六十歳で死んだ。「老衰」と医者は言った。家族はそれを疑わなかった。たぶん、医者も、何の疑いも持っていなかった。
ただ俺一人が、心のどこかで——
(まだ、早すぎた)
と、思っていた。
祖父は、最後の日まで、足取りがしっかりしていた。前年の冬には、また「旅に行く」と言って何ヶ月も家を空けたし、戻ってきたときには、家族の前ではいつもの好々爺を演じてみせた。「年を取ったから、もう旅は控えなければな」と笑っていたが、その目の奥には、何かもっと別の感情が——焦りに似た光が、消えずに残っていた。
そして死の床で、祖父は俺だけを呼んだ。
家族には聞かれないように、震える手で俺の手を取り、囁いた。
「ロイ。お前の血には、私と同じものが流れている」
何のことか、わからなかった。
「だが私には、もう、見えなくなった。お前の眼でなら……まだ、間に合うかもしれん」
何が見えなくなったのか、わからなかった。
何に間に合うのか、わからなかった。
「神々は、まだ、すべて消えてはいない。世界中に、落とし物を残している。それを集めれば……失われたものが、戻る」
神々の落とし物、という言葉だけは、覚えた。
「ロイ、頼む。宮廷には戻るな。あの連中は……」
そこで、祖父の手が、ふっと落ちた。
——あの連中は、何だったのか。
三年経った今でも、答えは出ていない。聞ける相手もいない。家族は祖父を「最後は呆けていた」と言ったし、ギルドで「神々の落とし物」と口にすれば笑われるだけだった。たった一度、十五歳のときに勇気を出して話してみた酒場の老人がいたが、酔っ払いの戯言として相手にもされなかった。
俺の手元に残ったのは、ただ一つ——
革袋の底で揺れる、祖父の片眼鏡だけだった。
その片眼鏡が、なぜ祖父にとってあれほど大切だったのか。最初は、ただの形見だと思っていた。だが、ある夜、何の気なしにそれを右目にかざしてみてから——
俺は、誰にも言えない秘密を抱えることになった。
歩みが、無意識に遅くなった。
裏路地の奥、突き当たりに近い場所に、その店はあった。
色褪せた木の看板に「質屋・三日月堂」とだけ刻まれ、軒先には古い鉄製のランタンが吊るされている。火は灯っていないのに、なぜかいつも、わずかに揺れている。店の戸の隙間からは仄かに、安い茶葉の香りが漏れてくる。
俺は店の前で、一度、足を止めた。
ここに足を踏み入れた瞬間から、また、いつもの俺に戻る。
「最弱の鑑定士」でも、「ギルドを追われた青年」でもない、ただひとり——「祖父の遺志を、誰にも知られずに継ぐ者」としての、俺に。
それは、惨めな選択だろうか。
それとも、ささやかな誇りだろうか。
どちらでもいい、と俺は思った。
どちらにしても、今夜、行くべき場所は、ここしかなかった。
革袋の紐を握り直して、俺は木の扉に手をかけた。
軋む音と共に、扉が、内側へと開きかけて——
お読みいただきありがとうございました。
追放された最弱職の鑑定士、ロイ・ガレット。彼がなぜ「鑑定士なのに冒険者」だったのか――その理由は、次話で明かされます。
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