気迫
5 杉田、急変す
「コウちゃん会いたかった……」
涙が一雫あふれる寺家は杉田の首に手を回したが「う」と声にならない声を上げるだけの杉田だ。
手を離し涙を拭く寺家。
「ごめん耕一……いきなりだから痛かったね? でもいきているだけで良かったわ」
この時点で寺家は医療従事者ではなく一人の恋人となっていた。
その様子をじっと見守る小島ミドリ達。しかしイナミは宣言する。
「患者の状態をみて面会は五分程度でお願いします」
「もうちょっとお願い」と寺家は手を合わせた。
「うーん 寺家先生ならこの状態を見ればおわかりかと思いますが……十分程度で」とイナミ。
事務長が言う。
「病室の外にいますのでどうぞ語らってください」
そう言うと三人は引き下がっていった。
杉田は眠っているのか……寺家は杉田の頭髪を愛おしむようにそっと撫でた。
しかしその瞬間にゴホゴホと咳き込む杉田は妙に弱々しい。心なしかゼイゼイと響く呼吸音が荒くなっている。
寺家は杉田の額に手を当てた。
「え?」
体が驚くほど熱い。顔色が紫色に変色し始める。
寺家は杉田の口を無理やりこじ開け、口腔内を観察した。
舌が腫れている……ヒュウヒュウという木枯らしのような呼吸……
『舌腫脹、ストライダー症状陽性……これは気道熱傷による急性気道閉塞?』
すぐさま寺家はドアを開けイナミを呼ぶ。
「イナミ先生、大変ですっ」
「なんだって?」
イナミと小島ミドリが慌てるように病室に入り容態を確認すると、小島ミドリが手早く器具を取り寄せ計る。体温計を口に入れ、血圧計を着装する。
「体温三十九度、血圧二百十……」
報告をきいたイナミは声を上げた。
「至急気道確保だ。オペ室へ運ぶっ」
寺家は怖い顔でイナミに宣言した。
「待ってくださいっ、猶予はありませんっ。――ここで私が処置しますっ」
イナミは怒鳴る。
「なんだって? この場所で気管切開する? 無茶を言うなっ。感染症のリスクが高まるだけだっ。それにここは僕の持ち場だ」
気色ばるイナミだが――
感染症のおそれより窒息する緊急性。
手術室に運ぶには間に合わない。
この病室で執刀するしかないのだ。
さらに――寺家の瞳には、愛する男を死の淵から引きずり戻そうとする、一人の女の凄絶な決意だけが宿っていた。
寺家は押し殺すような低い声でイナミに言う。
「言い争っている時間はない――」
寺家の瞳に宿る『気迫』に押されたイナミは、息を呑み二の句が継げなくなった。
緊急性を加味したイナミは折れた。
「……分かりました。手伝いますよ寺家先生。もしやの場合の責任は僕が取ります」
寺家の冷静な声が小島ミドリを突き動かした。
「緊急カート持ってきますっ」
事務長が応援を頼むように大声を上げ看護ルームに走っていった。
空気を求めるかのような杉田の喉笛が全体の危機感を上げていく。
手術着を頭から被りマスクをすると完全に外科医の顔になっていた。
「気管切開します」と宣言しメスを手にする寺家。
血が飛び散る。
しかし迷うことなく、確実に、正確に、気管切開を行う。
吸引器を使い出血を吸い出すイナミ。
強力なライトを当て寺家を援護する小島ミドリ。入室してきた数人の看護師もテキパキと仕事をこなす。
鮮やかな手さばきに小島ミドリは惚れ惚れし、イナミも唸る。
しかし――
「吸引、もっと手元を照らしてっ」
寺家は短く叫ぶ。
『気管が腫れ、声帯が見えない――』
「挿管チューブ、6.0」
応援に来ていた看護師の一人が寺家に手渡す。
しかし、抵抗虚しく腫れた気管壁がチューブを押し返すだけだった。
さらに――杉田の胸が浅く上下し呼吸が細くなっていき、もう確実に『死』を迎えようとしている。
汗に滲む寺家はもう一度、強めに押し込んだ。
しかし――入らない。
『ウソ、気管が狭すぎる?』
気管の内腔が腫れで潰れているようだ。無理に押せば後壁を傷つける。
寺家の手が震えだした。
『――ここで失敗するわけにはいかない』
寺家は鋭く叫ぶ。
「5.0チューブ!」
イナミは横で吸引を続ける。
『血が多い……視野が取れない!』
さらに細いチューブが小島ミドリから手渡され寺家がすぐに挿入する。
何度も角度を変えながらトライしようやく引っかかるが――気管が外側からの腫れで圧迫され潰れているようだ。杉田の顔色はすでに紫色だ。
『間に合わない!』
寺家は決断した。
「気管前壁切り下げるっ」
メスを振り上げるとさらに血が溢れ視界が赤く染まっていく。
「ライト!もっと近く!」
応援に駆けつけた看護師がライトを寄せる。
赤い中に、かすかに白い気管の内腔を寺家は発見した。
『ここしかないっ!』
寺家は細いチューブを、わずかに開いた隙間へ滑り込ませた。しかし抵抗はある。それでもここしかないと確信している寺家は半ば強引に押し込む。
『入れっ』
寺家の願いがかなったか、急にストンとチューブが吸い込まれるように入った。
「入った!酸素!」
寺家の声に小島ミドリはバッグバルブを押す。すると――杉田の胸が大きく膨らんだ。
応援看護師の一人が読み上げる。
「SpO2、上がっています。60から68……70……」
それは危機を脱した瞬間だった。
杉田の血液で手袋が濡れている寺家だが安堵するように大きく息を吐いた。
「耕一……」
マスクを取った寺家の表情が冷徹な外科医の顔から恋人の顔に戻っていった。
「先生のお手並み、とくと拝見しました。事後処理は僕が行います」とイナミが興奮したように言う。
「お願いします……」
力を尽くした寺家は逆に眠気を誘うように朦朧としてきた。
小島ミドリが近づく。
「天才的って呼ばれる寺家先生の手さばきを見ていて惚れ惚れしましたわあ」
「そんな……天才も何も……助けたい一心から」と寺家は答えた。
「患者が落ち着いたらICUに運び入れる」とイナミ。
杉田の命を救った寺家だが今になって小刻みに手が震え足取りが重くなった。
『もしあたしが医者でなかったら耕一を救えなかった……でもこれから先は……?』
「先生っ」
願成寺の問いかけにふらふらと歩いていた寺家はハッとした。いつの間にか応接室にいたのだ。
「寺家先生、社長に会えましたあ?」
無邪気に言う願成寺の傍らに寺家は腰を落とした。
「会えたけど」
無気力な言い方の寺家に願成寺は不思議な顔をした。
「どんな感じでした?」
段々と寺家は話すのが億劫になってきた。
「帰ってからみんなに話すわ」
なにか変だ、と感じた願成寺は寺家の顔を覗き込んだ。
「先生、なんだかくたびれてます?」
寺家は瞳を閉じた。
「そうかも……なんだか眠いわ……」
願成寺の運転で火災現場に戻る道中、後部座席で横になる寺家。普段の運転は荒い願成寺だが、この時ばかりは驚くほど丁寧な運転でみんなのもとに戻るのだった。
次は宝来警察署中心に事件は回ります。




