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第009話(708年)和銅の光

銅の音が、都に響きはじめた。


 慶雲の改元から数えて四度目の春。颯は二十四になっていた。書記部屋の末端から、いつしか中堅の位置へと移り、後輩の手を直してやることも増えていた。筆は相変わらず毎日握っている。ただ、握る手はもう以前のように震えない。文字はひとりでに走り、走らぬときは走らぬ理由が自分で分かるようになっていた。


 父は昨年から、新たな遷都の議に加わっていた。藤原京から、さらに北の奈良山の麓に都を移すという話が、役所の内側で日を追うごとに現実味を帯びはじめていた。口に出す者は少ないが、誰もがそれを知っている。都を動かすというのは、すなわち、国のかたちをもう一度描き直すということだ。


「藤原京では、もう手狭なのだ」

 父はある夜、灯明の下でそう呟いた。

「国が大きくなれば、都も大きくならねばならぬ。唐の長安を見てきた者たちが言うには、我らの藤原京はその三分の一にも満たぬとのことだ」

 父の声には以前のような興奮はなかった。代わりに、もっと静かな、覚悟に似た響きがあった。都を造るということは、ただ建物を建てることではない。人を動かし、土を動かし、神を動かすということだ。


*  *  *


 その年の正月、武蔵国から一つの献上品が都に届いた。

 銅である。

 武蔵国秩父の地で、自然のままの銅が見つかったという。これまで日本で産する銅は、いずれも他の鉱と混じった粗いものであった。だが秩父で見つかったものは、精錬をほとんど経ずとも金属の光を放つ、極めて純度の高い銅だったという。


 兆が文書を抱えて書記部屋に飛び込んできた日のことを、颯は覚えている。

「颯。大変なことになるぞ」

「銅のことですか」

「それもある。だが、それよりも大きい」

 兆は文書を机の上に広げた。そこには、改元の内議に関する覚書が記されていた。慶雲から、次なる元号へ。案として「和銅」の二文字が並んでいた。

「和銅――」

「和らぐ銅、と書く。武蔵の献上銅にあやかり、天下の和合を願う意であるそうだ」

 兆の声には抑えきれぬ昂ぶりがあった。元号は、天皇の即位や災厄の年にのみ改められるのが常だった。それを、一つの鉱石のために改めるという。それだけ、この銅という物が重いものと見なされたということだ。


「銅で、何を作るのです」

 篠が口を挟んだ。兆は少し笑って、指先で机を叩いた。

「銭だ」

「銭――」

「天下に流通する、金属の銭。唐では開元通宝という銭が使われている。それに倣って、我が国でも銭を鋳る。和同開珎という名で、すでに銘も決まっておるそうだ」


 颯は息を呑んだ。銭とは、これまでこの国にほとんど無かったものだ。物と物とを、布と米とで交換するのがこの都の暮らしである。都の市場でさえ、咲耶の薬を買う者は米や絹や麻布で対価を払っていた。そこに、金属の円い盤を一枚差し出せば薬が買えるという世が、くるというのだ。


「兆さん。それは、我らの仕事にどう関わるのです」

「関わらぬわけがない。銭を流通させるには、法が要る。銭の価値を定める法、銭を偽る者を罰する法、銭で税を納めることを許す法。それぞれを新たに条文に書き下ろさねばならぬ。律令の、また別の柱を立てるようなものだ」

 兆の目には、あの日、大宝律令の写しを手にしたときと同じ光があった。新しい国のかたちが、また一つ増える。書記部屋は、またしばらく忙しくなるだろう。


*  *  *


 市場に出ると、その話は既に商人たちの耳に届いていた。

「銭だと? そんなもので米が買えるのかい」

「いや、最初は都の中だけの話だろう。地方には降りてこないと聞いた」

「銭などといっても、腹の足しにはならんぞ」

 干し魚売りの爺さんが、以前と変わらぬ口ぶりで笑っていた。爺さんは颯が幼い頃からこの市場で魚を売っている。顔は以前よりいくらか皺が増え、背は少し曲がったが、まだ元気そうだった。


「颯。お前さんもずいぶん大人の顔になったな。書記の仕事は続いておるのか」

「ええ、爺さん。今年で七年目です」

「七年か。早いもんだ」

 七年。口に出してみて、颯は自分でも驚いた。初めて市場の角で咲耶と出会った日から、もうそれだけの月日が流れていた。


 咲耶の薬屋は、市場の一角にもう定まった位置を持っていた。以前のように路傍に腰を下ろすのではなく、簡素ながらも屋根のある小屋を借りて、そこで薬を量り売りしている。鹿皇の名はいまや都の内でも少しは知られ、渡来の薬を求めてわざわざ遠くから訪れる者もいるという。


「咲耶」

「颯さん。お仕事の途中ですか」

「使い走りだ。改元の詔書が、そろそろ下るらしい」

「慶雲から、また新しい名に」

「和銅、と聞いている」

 咲耶は少し首を傾げた。

「和らぐ銅、ですか」

「ああ。武蔵国から銅が献上されたことにちなんだ名だ。その銅で、銭を鋳るのだそうだ」

「銭――」

 咲耶の手が止まった。薬を包んでいた指先が、宙に止まったままだった。

「銭というのは、薬の代わりに受け取っても良いものなのでしょうか」


 それは、颯が考えてもいなかった問いだった。薬を売る者にとって、銭が流通するというのは、対価のかたちが変わるということだ。米なら食える。絹なら身にまとえる。だが銭は、それ自体では何にもならない。金属の円い盤を懐に入れて持ち帰っても、それで腹が膨れるわけではない。


「法で定めれば、やがては受け取れるようになる」

 颯はそう答えてから、自分でもその言葉の軽さに気づいた。定めればなる、というのは役所の理屈だ。市場の実感はそうはいかない。

「でも、すぐにではない」

「そうだろうと思います」

 咲耶は静かに笑った。その笑みには、役所と市場の距離を知った者の穏やかさがあった。


*  *  *


 改元の詔は、その年の正月十一日に下された。

 慶雲五年を和銅元年と改める。天下に恩赦を下し、武蔵国の秩父郡の民には、銅を献上した功により三年の税を免ずる。


 颯はその詔書を写した。「和銅元年」と初めて筆で記したとき、慶雲のときとはまた別の感慨があった。元号とは、時代に付けられる名前だ。だが今度の名は、人の行いや上皇の崩御ではなく、地の底から出てきた金属に付けられたものだった。国の名づけが、天から地へと一つ降りてきたような感じが、颯にはした。


 その頃から、父の帰宅はまた遅くなっていた。遷都の議はもはや噂の段階ではなく、具体的な土地の選定と、造営の手順の議論に入りつつあった。奈良山の南、平城の地を新たな都の候補とする――その内議が、父の手元の文書に綴られはじめていた。


「平城、というのか」

 颯が父の文書の隅に見えた二文字を指すと、父は少しの間を置いてから頷いた。

「まだ決まったわけではない。だが、有力ではある。あの地は広く、水の便もよく、山を背にしている。唐の長安に倣うならば、ああいう地が要るのだ」

「この藤原京は、どうなるのです」

「残すかもしれぬし、畑に戻すかもしれぬ。都として使われなくなれば、やがては土に還る」

 父の声は静かだった。自分たちが育った、初めて律令が施行されたこの都が、畑に戻るかもしれぬという。そう聞いて颯の胸にこみ上げたものを、上手く名付けることはできなかった。惜しさでもあり、寂しさでもあり、そして同時に、前へ進む者だけが知る、奇妙な高揚でもあった。


*  *  *


 その夏の終わり、鹿皇の容態がまた悪くなった。

 咲耶が颯を訪ねてきたのは、日が沈みかけたある夕のことだった。いつになく急いた足取りで、表情にも影があった。


「祖父が、どうしても颯さんに会いたいと申しております」


 颯は筆を置き、咲耶と共に家を出た。


 鹿皇の部屋は、以前と同じ薬草の匂いに満ちていた。老人は寝具に横たわり、顔色は蒼ざめていたが、目だけは妙に澄んでいた。颯が入ると、鹿皇は細い指で傍らの文机を指した。


「颯さん、そちらの箱を、こちらへ」


 箱は古い桐の箱だった。颯が運ぶと、鹿皇はわずかに身を起こし、蓋を開けた。中には幾冊かの簡が納められていた。簡の表には、颯の知らぬ文字――百済の、あるいはそれより古い文字が、丁寧に記されていた。


「これは、私が海を渡ったとき、父から持ち出した書でございます。薬のこと、人の体のこと、病のことが記されております。私の命の代わりに、この地へ運んできたものです」

 老人の声は掠れていた。

「この書を、咲耶に残してまいります。ですが、咲耶一人では、いつの日か、この書を読む者がいなくなる日が参りましょう。ですから颯さん、あなた様にもお願いしたいのです」

「何をでしょうか」

「この書の中のいくつかを、やまとの言葉に写していただきたい。咲耶が口伝えに教えることのできるうちに、文字のかたちでこの地に残しておきたいのです。それが叶えば、私の海を渡った意味は、この地に留まります」


 颯は簡を手に取った。ずしりと重かった。見知らぬ文字の連なりの向こうに、海を越えてきた老人の一生と、その父の一生と、そのまた父の一生が積み重なっている。これは銭よりも重いと颯は思った。銭は円く、手のひらに幾枚も乗る。だがこの簡は、幾代もの命の目方を持っている。


「お引き受けします」

 颯はそれだけを言った。約束をする相手は、鹿皇であり、咲耶であり、同時に、もう会うことのない百済の老医でもあった。


 鹿皇は微かに笑って、もう一度目を閉じた。


*  *  *


 咲耶が颯を戸口まで送った。

 家の外は、すでに夜だった。空には夏の名残の雲がまだいくらか浮かび、雲の端を月の光が縁取っていた。


「祖父は、覚悟しているようです」

 咲耶の声は震えていなかった。むしろ以前よりも芯が通っていた。泣くべき時がくれば泣けばよい、今はまだ、と決めているような声だった。


「咲耶、銭のこと、案じなくていい。薬の代わりに受け取れる日が来たら、その時は法のほうが遅れてきているということだ。お前の薬を米で払いたい者は、米で払わせればよい」

「颯さんは、役人のお立場でそのようなことを仰ってよいのですか」

「法は人を縛るためではなく、人を守るためにある。父が、そう言っていた」

 咲耶は少し笑った。その横顔に、月の光が薄く差していた。


 そのとき、颯はふと背筋に奇妙な感覚を覚えた。

 風が吹いたわけではない。物音がしたわけでもない。ただ、月の光と薬草の匂いの向こう側に、何か、目には見えぬ糸のようなものがぴんと張ったような、そんな感じがした。咲耶の方を見ると、咲耶も一瞬空を見上げていた。同じ何かを感じたのかもしれなかった。


「――今の」

「はい。何か、風のようなものが」

 二人は顔を見合わせた。言葉にならぬものを確かめ合うように。


 それきり、その感覚は消えた。残ったのは、いつも通りの夏の夜と、薬草の匂いと、遠くの犬の声だった。


 だが颯はその夜、家に帰る道すがら、胸の奥で何かが小さく脈打つのを感じていた。律令でも、筆でも、銭でもない何か。誰かに、どこかから、そっと覗き込まれたような気配だった。


 子供の頃、父がふと口にしたことがある。「この国には、まだ名のつかぬ力が、いくつも眠っているらしい」と。そのときは父の夜話の一つとしか思わなかった。今になってみると、父は何かを知っていたのかもしれないと颯は思った。


*  *  *


 和銅元年の秋、銭の鋳造が公に開始された。

 最初の和同開珎が都に出回ったとき、颯は役所でそれを手にした。親指ほどの大きさの、円い銅の盤である。真ん中には四角い穴が開き、その周りに四つの文字が浮いている。重さは軽く、色は鈍い赤銅色だった。


 その一枚を手のひらに乗せてみて、颯は奇妙なことに思った。この薄い銅の盤一枚に、法が宿っているのだと。大宝律令の何十巻もの条文が、この銅に凝縮されている。銭を信じるということは、法を信じるということだ。それを受け取る者も、それを渡す者も、その銭の向こうにある国という仕組みを信じていなければ、銭はただの金属の屑でしかない。


 銅は地から掘り出される。それを法が磨き、市場が動かす。それだけのことで、人の暮らしが少しだけ楽になる。新しい仕組みとは、そういうものなのかもしれなかった。


 颯は書記部屋に戻り、鹿皇から預かった百済の簡の最初の一冊を開いた。見慣れぬ文字の隣に、少しずつ、やまとの文字を添えていく。咲耶から口で聞き取った薬の名、その効能、その用いどころ。一文字一文字が、海を越えてきた知恵を、この地に留めていく作業だった。


 和銅の銭と、百済の薬書。どちらも、遠くからこの地にやって来て、人の暮らしを繋ぐものだった。かたちはまったく違うが、颯には、根は同じものに見えた。


 筆の先が、墨をふくんで静かに走った。


*  *  *


 その年の冬、父は颯に、遷都の議が正式に動き出したことを告げた。


「来年の春には、詔が下るだろう。平城の地に新たな都を造る。お前の筆も、いずれその詔を写すことになる」

「自分の筆で、新しい都を書くのですね」

「そうだ。書くだけではない。写した文書が、地方に下り、人と物とを動かす。お前の筆の先から、都が生まれると言っても過言ではない」


 父は静かにそう言って、灯明を一つ消した。


 颯は目を閉じた。まぶたの裏に、まだ見ぬ平城の地が浮かんだ。山を背にした広い野。そこに条坊が引かれ、大路が伸び、宮殿と市場と家々が並ぶ。そのすべてが、まだ一枚の紙の上にも描かれていない。だが、やがては描かれる。描くのは、誰かではなく、自分たちだ。


 藤原京の夜は、いつもよりも静かだった。

 遠くで鐘の音がひとつ鳴り、消えた。


 和銅の光は、まだ薄い。

 だがそれは、確かに地の底から上ってきた光だった。

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