第010話(709年)遷都の詔
和銅二年の春は、雨の多い春だった。
藤原京の路には、桃の花が咲いては散り、咲いては散り、そのたびに泥の上に薄紅の模様を残していった。颯は書記部屋の窓から、その薄紅の跡を何度も見た。花の色が泥に染み込んでいく様は、どこか人の営みに似ている気がした。積み上げるのはゆっくりで、消えるのは早い。
颯は二十五になっていた。書記部屋では中堅と呼ばれる位置に立ち、文書の写しだけでなく、移送の台帳をまとめる仕事も任されるようになっていた。前年の和銅改元から、役所の空気は明らかに変わっていた。遷都が近い。誰もがそれを口にはしないが、誰もが身構えている。筆を持つ手にも、どこかそわそわした気配が混じっていた。
* * *
鹿皇は年の初めに静かに息を引き取った。
最期の日、咲耶が颯を呼びにきた。颯が駆けつけたとき、鹿皇は布団の中で穏やかな顔をしていた。もう言葉は出なかったが、颯の顔を見ると、かすかに目を細めた。笑っているように見えた。その夜のうちに、鹿皇の呼吸は止まった。海を渡ってこの国に来て、何十年もこの地で薬を売り続けた一人の老人が、静かにこの世を去った。
颯は鹿皇の枕元で、長いあいだ座っていた。老人の顔は安らかだった。苦しみの跡はなく、むしろ何か大きな仕事を終えた者の満足のような表情があった。颯は思い出していた。あの夜、桐の箱を開けて百済の薬書を託してくれた鹿皇の目の光を。あの目は、命の終わりを覚悟した者の目であると同時に、自分の知恵が誰かに渡ることを確信した者の目でもあった。
咲耶が悲しみに伏した翌日、颯は一人で薬屋の戸口に立った。中に入る気持ちの整理がつかなかった。ただ戸の前に置かれた桶に、ひとすくいの米を供えて帰った。送りの品と呼ぶにはあまりにも少ないが、貨幣がまだ行き渡らないこの都では、米こそが祈りのかたちだった。
数日後、咲耶が書記部屋の近くまで訪ねてきた。目は少し赤かったが、声はしっかりしていた。
「祖父の葬りは、済みました」
「そうか」
「颯さんに、お礼を申し上げたくて。あの夜の約束を守ってくださっていることを、祖父はよく分かっておりました」
「約束は、まだ終わっていない。薬の書の写しは、まだ半分にも届いていない」
咲耶は小さくうなずき、袖の奥から一枚の麻の包みを取り出した。
「これを」
包みには、乾いた薬草が一枚、青い葉の、手のひらほどのものが収められていた。
「祖父がとっておいた最後の蓬です。身を守る草だと、百済では信じられていたそうです」
颯は両の手でそれを受け取った。軽いのに、どこかずしりとした重みがあった。それは重さではなく、この草に込められた時間のことだったのだろう。海を渡り、何十年も保たれてきた一枚の葉。鹿皇が最後まで手放さなかったもの。
颯はそれを懐に入れた。何に使うかは分からない。ただ、持っていなければならないと思った。
* * *
帰り道、雨がまた降り始めた。路に残る桃の花びらが、水の流れに乗って薄い紅色の筋を作っていた。颯は立ち止まり、その流れを見た。鹿皇が海を渡った日も、こんな雨が降っていたのだろうか。異国の空の下、船の揺れの中で、あの老人は何を思っていたのだろう。
書記部屋に戻ると、兆が静かに筆を走らせていた。颯が席に着くと、兆は顔を上げずに言った。
「鹿皇は、良い人生だったと思うか」
「分かりません。ただ、最期は穏やかでした」
「穏やかに終われるなら、それだけで良い人生だろう。都に生まれても、穏やかに終われぬ者はいくらでもいる」
兆の声には、経験に裏打ちされた重さがあった。兆はそのあと、少しだけ間を置いてから、独り言のように付け加えた。
「あの人は、海を渡って、薬を持ってきて、孫に渡した。それだけのことだが、それだけのことをやり遂げた者は少ない」
颯はうなずくだけで答えた。窓の外の雨は、夕暮れまで止まなかった。
* * *
遷都の詔が下ったのは、その年の初秋のことだった。
「平城の地に都を遷す」。その短い一行が、元明天皇の名のもとに全国へ発せられた。
颯はその詔の写しを、初めて自分の筆で書き写した。墨を含ませ、筆を置き、一字一字を確かめながら進めた。「平城」と記したとき、指の先がわずかに冷たくなった。自分の書いた二文字が、やがて何万もの人々の暮らしを動かすのだと知ったからだった。
詔の文面は簡潔だった。だがその背後には、何年もの議論と計算と、おそらくは抑えきれぬ野心が積み重なっていた。唐の長安に匹敵する都を、この国にも作る。藤原京では手狭になった国の器を、もう一度大きく作り直す。それが遷都の本意だった。
兆が横からのぞき込んだ。
「いい字だ」
「先輩に教わった書き方です」
「書き方は始まりにすぎん。その先にある自分の字を、お前はこれから作っていくことになる」
兆の声は静かだった。書記部屋の古い者たちは、すでに何人かが平城の造営のために派遣されることが決まっていた。兆もその一人だった。
「お前は残る側だ。藤原京をたたむ仕事がある」
「たたむ、ですか」
「都というのは、開くのと同じだけ、たたむのに手間がかかる。役所の書棚は動かさなければならない。古い文書の届け先を決めなければならない。人の住まいも、庭の木も、社の位牌も、どこへ移すかを一つ一つ決めなければならない。お前はその記録を取る係だ」
颯はうなずいた。華やかな遷都の行列に加わることよりも、そのあとに残る書類の山と向き合うほうが、自分には合っていると思った。書くことが自分の仕事ならば、終わりを記録することもまた書くことの一つだ。
* * *
その日から、颯の仕事は一変した。各役所から、移送の問い合わせが毎日のように届いた。どの書棚を先に運ぶか、どの文書は写しを残すか、どの記録は廃棄してよいか。判断の一つ一つが小さな歴史の選別だった。颯は一つも捨てたくなかった。だが全てを運ぶことはできない。選ぶことの重さを、颯はこの仕事で初めて知った。
ある日、倉から運び出された木簡の中に、大宝律令が施行される以前の、古い戸籍の断片が混じっていた。墨はすっかり薄くなり、木の端が朽ちかけていたが、文字は読めた。どこかの里の、名も知れぬ農夫の名が、筆で丁寧に記されていた。この木簡を書いた者も、この農夫も、もうこの世にはいないだろう。だが字だけが残っている。字は人より長く生きる。颯はその木簡を布に包み、運ぶ箱の一番上に置いた。
篠はすでに造営の組に入ることが決まっていて、書記部屋で荷をまとめていた。颯が声をかけると、篠は笑った。
「なあ颯、新しい都で会おう。向こうで飯を食おう」
「ああ。楽しみにしている」
篠の笑顔には、少しの不安と、それよりも大きな期待が混じっていた。書記部屋の仲間が一人ずつ去っていく。残される者には残される者の仕事がある。颯は篠の背を見送りながら、この都での最後の季節が始まっていることを感じた。
* * *
父はその頃、造営の下役として、すでにたびたび奈良山のふもとへ出かけていた。家に帰ってくる日は少なく、戻ってきても泥の匂いと松やにの匂いがした。
ある夜、父は久しぶりに明かりの下で颯と向かい合い、懐から一枚の粗末な絵図を取り出した。奈良山の南の広い野に、縦横の線が引かれている。新しい都の道路の図だった。
「ここが朱雀大路になる。ここが東西の市。ここが宮城。この線の外側には寺が並ぶ」
指でなぞる父の手が、少し震えていた。疲れか、興奮か、颯には分からなかった。
「父上は、この都に何を見ておられるのですか」
父はしばらく黙った。それから、不思議なことを言った。
「あの土地には、古くからの祈りが染みている。新しい都を置くには、その祈りを乱さないように据えなければならない。造営というのは、土を動かすだけの仕事ではない。土の下に眠るものに、許しを願う仕事でもある」
「許しを、ですか」
「ここだけの話だが、造営の者たちの間に、おかしな話が広まっている。夜、奈良山のふもとで、正体の分からない風が吹くという。山から降りてくる風なのだが、吹き方が季節に合わない。冬に暖かい風が、夏に冷たい風が吹くことがある。工人たちはそれを怖がって、夜の仕事を断るようになった」
颯は息をのんだ。父の顔に、冗談の気配はなかった。
「神の息だと言う者もいる。古い神が、まだあそこに残っていて、新しい都が来るのを見定めているのだと」
颯は胸の奥で、何かが小さく脈打つのを感じた。昨年の夏の終わり、咲耶の家の前で感じた、あの名のつかない気配。目には見えぬ糸のようなものがぴんと張ったような感覚。あれと、父の語る季節に合わない風は、どこかで繋がっているのではないか。
父はそれ以上は語らず、明かりを消した。闇の中で、父の寝息がすぐに聞こえてきた。造営の現場は朝から日暮れまで続き、休みは月に数えるほどしかないという。
* * *
冬の初め、咲耶の家で薬の書の写しを続けていた颯は、ふと筆を止めた。
いつもと同じ薬草の匂い。いつもと同じ窓の光。ただ、空気の手触りが、かすかに違っていた。
戸口に、見知らぬ若者が立っていた。
年は颯より七つか八つ下、十七か十八くらいだろう。日に焼けた肌、結わないままの髪、腰には粗末な革の帯。都の者ではないと一目で分かった。どこの国の者かと問う前に、若者は先に口を開いた。
「ここは、薬を売る店か」
声に、妙な響きがあった。咲耶が奥から出てきて、客だと思って頭を下げかけたその一瞬、若者の体のまわりで、空気がぐらりとゆらいだ。
ゆらいだのだ、と颯は確かに思った。ゆらいだのは風でもなく、光でもなく、もっと目には見えない、空気の芯のようなものだった。咲耶もそれに気づいたのか、頭を下げる動きを途中で止めた。若者は自分の引き起こしたゆらぎに、まるで気づいていない様子だった。
「旅の者だ。都に用がある。その前に、足の腫れを見てほしい」
若者は土間に座り、片方のわらじを脱いだ。足首が赤く腫れていた。咲耶が薬草を取りに奥へ立った間に、若者は颯を見た。
「あんた、役人か」
「書記だ」
「書記か。都の書記というのは、紙ばかり見ているのだろう。空は見るのか」
「空も見る。時には」
「そうか。ならば聞いておくが、最近の空は、おかしくないか」
颯は答えに詰まった。若者は答えを待たずに続けた。
「自分は、山を歩いてきた。東の国から、西へ。いくつも山を越えたが、山の呼吸が乱れている。風が季節に合わない。それが奈良山のふもとに近づくほど、ひどくなる」
颯は父の言葉を思い出した。夜、奈良山のふもとで正体の分からない風が吹くという話を。
「名前は」
「ハヤテ」
颯は胸が揺れた。自分と同じ読みの名を持つ者が、こうして突然現れたことに、偶然以上の何かを感じたからだった。だが顔にはそれを出さず、黙って若者の足首を見た。
咲耶が薬草を持って戻ってきた。ハヤテの足に薬を塗る咲耶の手つきを、若者は不思議そうに眺めていた。薬の効き目を疑っているのではなく、その手の慣れた動きそのものを、初めて見るもののように見つめていた。
薬を塗り終え、咲耶がふと顔を上げた。その瞬間、彼女の目とハヤテの目が合った。そして家の中の空気が、もう一度、今度ははっきりとゆらいだ。三人とも、同時にそれを感じた。咲耶の指先が薬のさじを取り落とした。さじは静かに土間に落ち、乾いた音を立てた。
その音は、やけに遠くから聞こえた気がした。
* * *
ハヤテは足首の腫れが引くと、土間から一歩出て空を見上げた。
「この都は、もうすぐなくなるのだろう」
「新しい都へ移る。遷都だ」
「移っても、土地に染みた祈りは移せない。そういうものは、置いていくしかない」
若者の言葉は、父が語った言葉とどこか重なっていた。颯は驚きを隠せなかった。この若者は、山を歩いてきただけの旅人のはずだ。なのに、なぜ同じことを言うのか。
「ハヤテ、お前はこの都に何の用があるのだ」
「用というほどのものはない。ただ、風が呼んでいる気がしたから来た。それだけだ」
風に呼ばれて来た、という言葉を、颯はすぐには信じられなかった。だが否定する気にもなれなかった。この一年、颯自身が感じてきた名のつかない気配も、風と呼べるものだったかもしれない。
外では、季節に合わない風が、奈良山のほうから都へ向かって吹きはじめていた。窓の隙間から入るその風は、冬の手前であるにもかかわらず、妙に生温かった。
颯は布団の中で目を開けたまま、風の行方を追った。風は部屋を通り抜け、壁の隙間から外へ出ていった。奈良山のほうへ向かって。
鹿皇が去り、遷都の詔が下り、そして名も知らぬ若者が現れた。この一年で、颯のまわりの空気は確かに変わった。何がどう変わったのかは、まだうまく言葉にできない。ただ、風の匂いが違う。それだけは分かっていた。




