第011話(710年)平城の門
都が動いた。
和銅三年の春、詔の通りに、役人たちの家は一軒また一軒と畳まれ、役所の文書は大箱に積まれて、牛車で北へ運ばれていった。颯は記録係として、その流れのすべてを紙に写した。どの箱にどの巻物が入り、どの家がいつ人を引き払い、どの蔵にどれほどの米が残されるか。筆の先で書き留めていく数字と名前は、やがて誰も覚えていない一つの都の最期の目録となるはずだった。
藤原京の路から、人の姿が日に日に消えていった。朝には声があった家が、夕にはもう空だった。井戸のまわりに集まっていた子供たちの姿も消え、犬だけが主を失った家の前でうろついていた。颯はその光景も記録に残そうとしたが、どう書けばいいのか分からなかった。数字と名前では、人の気配が消えていく寂しさは書けない。
初めて、颯は自分の記録に手を伸ばした。公の文書には書けないことを、自分だけの紙に書いた。
――藤原京、人の去りし後。犬、主を探して門に伏す。井戸の水、汲む者なく澄みわたる。
それは記録というより、祈りに近い文章だった。だが颯には、それを書かなければならない理由があった。都は建物ではない。都は人の気配でできている。その気配が消えていく姿を、誰かが書き残さなければ、藤原京はただ「旧都」としか呼ばれなくなる。
* * *
兆は先に平城へ発っていた。別れの日、兆は颯の肩を叩いてこう言った。
「後から来る者のために、戸は締めて来い。扉は閉めず、人の出入りだけを止めてやるのだ。そうすれば都は、ゆっくり土に還る」
颯はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。締めるのではなく、閉めない。それは文書を書き終える時の作法にも似ていた。句点を打つのではなく、余白を残す。都もまた、そうして終わるのが良いのかもしれない。
咲耶の薬屋も、畳まれた。小屋の屋根から薦を外し、土間の薬草をすべて布に包み、量り売りの秤を紐で縛る。咲耶の指が、一つ一つの道具に別れを告げるように動いていた。鹿皇が生きていた頃、この薬屋には近所の人々が絶えず訪れていた。かすかな傷から長い病まで、鹿皇の手が触れれば心が落ち着いた。その人はもういない。薬屋だけが、形を残していた。
ハヤテも手伝った。あの日以来、若者は都に残り、咲耶の屋の片隅で寝起きしていた。本人は「そのうち山へ戻る」と繰り返していたが、戻る気配はなかった。咲耶もそれを気に留めぬふりをし、颯も問わなかった。問えば、何かが壊れる気がした。
「この薬草は、どこへ持っていく」
「新しい都に、と思っております。同じように量り売りができる場所を探さねばなりませんが」
「場所なら、自分が見てやる。ひと足先に平城へ行って、市場の位置を見てくる。自分は歩くのが速い」
それは謙遜ではなかった。颯はこの若者が風のように歩くことを知っていた。以前、川原を並んで歩いたとき、ほんの少し目をそらした隣に、ハヤテの姿は数十歩先にあった。
「お前の足は、普通ではないな」
颯がそう尋ねたことがある。ハヤテはそのときだけ真面目な顔になった。
「自分のは、親から貰ったものではない。山の神から貰ったものだ、と爺は言っていた」
ハヤテの生家の爺は、山の社の守り手であったらしい。詳しくは本人も知らないと言った。ただ、幼い頃から足が速かったこと、風の流れが見えること、山の生き物たちが自分を怖がらないこと。それらを若者は淡々と語った。
咲耶が最後に薬屋の土間に立ったとき、彼女は長い間黙っていた。それから、壁の染みを指先でそっとなぞった。薬草の煎じ汁が何年もかけて作った色だった。祖父の仕事の跡。
「これだけは、運べない」
咲耶の声は震えていなかった。ただ、静かだった。颯は何も言えず、ただその場に立っていた。運べないものを残していくこともまた、旅立ちの一部なのだと思った。
薬屋を出るとき、咲耶は一度だけ振り返った。それから前を向いた。颯はその横顔を見て、この人は強い、と思った。鹿皇が残したものは薬の知識だけではない。この強さもまた、受け継がれたものの一つだった。
* * *
藤原京の最後の日々は、不思議な静けさに包まれていた。
人が去った後の都は、壊れているわけではなかった。建物はそのまま立ち、路はそのまま伸び、井戸には水が湧いていた。ただ、人の声だけがなかった。颯は誰もいない路を歩きながら、自分の足音だけが響くのを聞いた。その音は、どこか別の時代から来た足音のようにも聞こえた。
書記部屋の机を一つずつ運び出す作業の合間に、颯は棚の奥から古い木簡をもう一束見つけた。天武の御世の記録の断片だった。この木簡を書いた人は、もうこの世にいないだろう。だが字は残っている。颯はそれを大切に布に包み、運ぶ箱に加えた。
最後に書記部屋を出るとき、颯は入口の柱に手を当てた。木の表面には、何人もの書記がもたれかかった跡が、微かなくぼみとして残っていた。兆の跡もあるだろう。篠の跡も。そして自分の跡も。颯は指先でそのくぼみをなぞり、それから手を離した。
* * *
颯が平城の地に初めて立ったのは、その年の夏の終わりだった。
奈良山を越えたとき、山の稜線の向こうに広野が現れた。朱塗りの柱がまだ半分ほど立ち、屋根の瓦はまばらで、地面には白い縄が縦横に引かれていた。縄の一本一本が条坊の線だった。父の絵図で指でなぞったものが、そのままこの地に引かれていた。
朱雀大路は、まだ道ではなかった。土を踏み固めた跡がかろうじて見える、広い白っぽい帯にすぎなかった。しかしその広さは尋常ではなかった。都の北の宮城から南の羅城門まで、目で追えぬほど真っ直ぐに伸びていた。この大路の上を、いずれ幾万の人と牛と馬が行き来するのだ。
父が迎えに出ていた。
「来たか」
「はい」
「歩いてみろ。まだ何もない。何もない都を歩けるのは、今の私たちだけだ」
颯は大路の真ん中を、ゆっくりと歩いた。足の下の土は湿って柔らかく、人の踏み跡はほとんどなかった。自分の足跡がそのまま残る大路というのは、不思議なものだった。やがて無数の足跡に埋もれて消えるだろう自分の一歩を、颯は何度か振り返って確かめた。
空気の匂いが、藤原京とは違っていた。土の匂い、松の匂い、そしてなにか古い、埋もれたものの匂い。この土地は、確かに何かを含んでいる。それが良いものなのか怖いものなのかは、まだ分からなかった。
だが颯の足は止まらなかった。むしろ、この土地に踏み入るほどに、体の奥で何かが応えるように脈打っていた。それは恐れではなく、懐かしさに近い感覚だった。まだ来たことのない場所を、懐かしいと思うことなどあるのだろうか。颯は自分の感覚が信じられなかった。だが、確かにそう感じていた。
* * *
大路の端に、工人たちが休んでいた。地面に座り込み、水筒を回し飲みしている。その中に、篠の姿があった。日に焼け、腰に工具を提げた篠は、藤原京の書記部屋にいた頃とは別人のようだった。
「颯、来たのか」
「ああ。篠は、もう書記ではないのだな」
「柱を立てるほうが、性に合っていた。字を書くのは苦手だったが、木を削るのは得意だ。不思議なものだな」
篠は笑い、颯の肩を叩いた。その手は硬く、大きくなっていた。人は場所が変われば変わるのだと、颯は思った。
「なあ颯、この大路の下に、古い土器が出てくることがある。掘ると、何百年も前のものが出てくるんだ。この土地には、私たちが来るずっと前から、誰かが住んでいたらしい」
「その土器は、どうしている」
「脇に避けて、埋め直す。壊すなとは言われている。だが、どこに埋めるかは、誰も決めていない」
篠の声には、少しの困惑があった。新しい都を造るということは、古いものの上に重ねるということだ。その重みを、工人たちは体で感じているのだろう。
篠が工人たちの輪に戻った後、颯は一人で大路の端まで歩いた。南の端には、まだ羅城門の形もなかった。ただ、地面に打ち込まれた杭が、門の大きさを示していた。颯はその杭の前に立ち、目を閉じた。ここに、いつか巨大な門が立つ。その門をくぐって、全国から人が集まる。その光景を、颯は目の裏に描いた。まだ何もない土の上に、未来の姿を重ねるように。
* * *
造営現場の片隅で、颯は兆に再会した。兆は少し痩せていたが、目の光は前と変わっていなかった。
「どうだ、私たちの新しい都は」
「広いです。広すぎて、まだ都には見えません」
「それでいい。都は人が入って初めて都になる。今はまだ、器を作っている最中だ」
兆は足元の地面を指差した。
「ここに、やがて書記部屋が建つ。藤原京の部屋の三倍の広さにする予定だ。お前がこれから書く詔は、この場所の棚に積まれて、百年ののち、千年ののちの役人の手に渡るかもしれぬ」
百年ののち、千年ののち。その言葉は、颯の胸の深いところに落ちていった。自分の書いた字が、自分の知らない未来の誰かの目に触れる。それは光栄ではなく、責任だった。一字一字を正確に、誤りなく書く。それが自分にできる、未来への唯一の贈り物だった。
颯は空を見上げた。奈良山の稜線の上を、数羽の鳥が低く飛んでいた。その時、不意に気配のようなものを感じた。誰かの視線が、山の奥から、ふと自分に向けられたような感じがあった。颯は一瞬、首の後ろを軽く押さえた。
「どうした」
兆が尋ねた。
「いえ、なんでもありません」
兆はそれに気づかなかったのか、それとも気づいていて言わなかったのか。ただ、兆は空を見上げ、深く息を吸った。
「この土地は、良い土地だ。ただ、古い。古い土地には、古い約束がある。それを守るか破るかは、これからの私たちの仕事次第だ」
兆の言葉は、いつも簡潔だった。だがその簡潔さの中に、長い年月で磨かれた洞察があった。颯はいつか、この人のように筆を持てるようになりたいと思った。言葉ではなく、筆で。筆の運び一つで、時代をつなぐことができるような、そんな書記に。
* * *
その夜、颯は仮の宿で筆を取った。新しい筆は、まだ買っていなかった。藤原京を発つ日、古い筆を一本、使い込まれて先の割れかけたものを、役所の机の上に置いてきた。古いものを残して新しいものを携えていくのが、都を動かすときの自分なりの作法なのだと、颯は自分で決めた。
紙も粗末な麻の紙だった。それでも颯は書いた。
――平城京、初めての日。
――大路、まだ土のみ。されど広し。
――風、山より吹く。秋にして、春のごとく温し。
筆を置くと、紙の上の墨が、仮宿の薄暗がりの中でゆっくり乾いていった。どこか遠くで、造営の工人たちが寝入る前の歌を歌っていた。節の分からぬ、ただ長く引き伸ばされた音の連なりだった。
颯はその歌を聞きながら、新しい都の最初の夜を、眠らずに過ごした。懐の中に、鹿皇から受け取った蓬の葉があった。藤原京から持ってきた唯一の草。颯はそれに指先で触れた。乾いた葉は、まだかすかに青い匂いを残していた。海を渡り、時を越え、人の手から手へ渡ってきた一枚の葉。それが今、新しい都の最初の夜に、颯の懐の中にある。
咲耶はまだ来ていない。ハヤテは既に市場の候補地を見て回っているはずだ。父は現場の仮宿で図面を広げている。篠はどこかの棟の柱を立てているだろう。兆は書記部屋の設計図を眺めているはずだ。そしてどこかで、まだ会ったことのない誰かが、この都に引き寄せられて歩きはじめているのかもしれなかった。
器はできつつある。あとは、人が入るのを待つだけだった。
夜明け前、颯は宿の外に出た。東の空が、かすかに白み始めていた。奈良山の稜線が、闇の中から少しずつ浮かび上がってくる。その山の向こうから、またあの風が吹いてきた。季節に合わない、温かい風。颯はその風に顔を向けた。怖くはなかった。むしろ、その風の中に、歓迎とも警告ともつかない、何かの意志を感じた。
この土地は、新しい都を受け入れようとしているのか。それとも、見定めようとしているのか。その答えは、まだ誰にも分からなかった。ただ、門はまだない都に、風だけが先に通っていた。颯は深く息を吸い、その風を胸の奥まで入れた。新しい都の空気を、体に馴染ませるように。




