第012話(711年)名もなき風
新しい都の、最初の冬である。
平城京の北の空は、藤原京の空よりも広く見えた。山が近いせいなのか、冬の雲の流れがよく目に入った。颯は新しく建ったばかりの書記部屋で、朝早くから筆を取っていた。柱の木の香り(かおり)がまだ生々しく、墨の匂いと混じっていた。兆が言っていた通り、書記部屋は藤原京の三倍の広さがあった。壁にはまだ棚が半分しか並んでいなかったが、それでも藤原京から運び込まれた文書の箱が所狭しと積み上げられていた。
颯は毎朝、書記部屋に入る前に、大路を端から端まで歩くことを習慣にしていた。朱雀大路はようやく土が突き固められ、道らしい姿になりつつあった。だがまだ多くの場所が工事中で、職人たちの槌の音が朝から響いていた。颯は歩きながら、都が日ごとに少しずつ姿を変えていくのを見た。昨日なかった柱が今日は立っている。先週は白い縄だった場所に、今週は溝が掘られている。都は生き物のように成長していた。
咲耶は市の南東の一角に、小さな薬屋を開いた。ハヤテの見立ては正しく、井戸に近く、風の流れもよい場所だった。店の前には古い櫨の木が一本立っており、薬を買いに来る者はその木陰で順を待った。鹿皇の残した薬の知識は、新しい土地でも静かに根を下ろし始めていた。
颯は仕事の合間に薬屋を訪れ、鹿皇の薬書の写しを続けた。百済の文字を、咲耶の口伝えでやまとの言葉に直していく作業は、少しずつ進んでいた。木簡の三冊目に入ったところだった。薬の名前、その効能、煎じ方、そして禁忌。一つ一つが、海の向こうから渡ってきた命の知恵だった。
* * *
その冬、書記部屋に配属された新しい下役に、フミという名の娘がいた。年は颯より五つほど下。父が水の司の役人で、字が読めるというので試しに役所に入れられたという。女性が役所に勤める例はまだ少なかったが、平城京の造営に人手が足りぬ中、型破りの配属がいくつも起きていた。
フミは初日から、颯の書いた写しを一枚ずつ丁寧に並べては、番号を付けていた。番号を付ける仕事は、誰もがやりたがらない単調な作業だった。しかしフミはそれを苦にするどころか、むしろ楽しそうにやっていた。
「この番号の付け方、私なりに工夫を入れてもよろしいでしょうか」
ある日、フミがそう尋ねてきた。
「工夫とは」
「日付と種類で二重に番号を振ると、後から探すとき早くなるかと。例えば、戸籍に関するものは『戸』の印をつけ、税に関するものは『税』の印をつける。そうすれば、百枚の中から探すのに、半分の手間で済みます」
颯は少し驚いた。それは兆が以前、独り言のようにこぼしていた工夫と同じだった。誰に教わったわけでもないのに、この娘はそれを自分で考え出していた。
「やってみてくれ」
「はい」
フミは嬉しそうにうなずき、帳面に細かな記号を書き込んでいった。その字は小さく、丸く、だが一つ一つが明瞭だった。颯は自分が書記部屋に入ったばかりの頃を思い出した。兆に筆の持ち方を直され、篠と木簡の山に埋もれていた日々。あの頃の自分にも、こんなふうにまっすぐな目があっただろうか。
兆がその様子を見て、颯に小声で言った。
「良い下役を得たな。あの娘は、書記の仕事が何のためにあるかを、理屈ではなく体で分かっている」
颯もそう思った。文書を整理するという地味な仕事の中に、未来への橋を架ける意味を見出せる人間は、そう多くない。フミはその一人だった。
その日の帰り、颯は平城京の大路を歩いた。冬の空気は冷たく、息が白く見えた。大路はまだ半分も整備が終わっておらず、ところどころに水たまりができていた。職人たちの槌の音が、山に反射して戻ってきた。この都はまだ生まれたばかりだ。だが確実に、息づいている。
宿に戻ると、父が図面を広げていた。最近、父の顔には疲れだけでなく、何か別の影があった。造営の現場で何かを見たのかもしれない。颯は問うか迷ったが、問わなかった。父には父の時間がある。自分には自分の時間がある。その二つが交わる日が来れば、そのときに話せばいい。
ただ、父が机に突っ伏して眠ってしまったあと、颯は父の肩に手ぬぐいをかけた。その背中は、以前よりもずいぶん小さく見えた。大宝律令の施行の夜、背筋を伸ばして詔を読み上げていた父の姿が、遠い日の記憶のように思い出された。
* * *
和銅四年の正月のことだった。
咲耶の薬屋に、幼い子供が運び込まれた。五つか六つの男の子で、母親が抱きかかえていた。子供は高熱を出しており、息が浅く、瞼が青黒く変色していた。母親は都の外れの仮住まいから走ってきたと言った。涙で顔が濡れていた。
咲耶は手早く薬草を選び、煎じはじめた。颯はたまたま薬書の写しに来ていて、その場に居合わせた。湯が沸くまでの時間が長かった。子供の息はだんだんと細くなっていった。母親が子供の手を握りしめ、声にならない祈りを口の中で繰り返していた。
咲耶の手が薬湯を匙で子供の口に運ぼうとしたその瞬間、颯は奇妙なことに気づいた。
子供の体の周りの空気が、濁って見えたのである。
濁って、というよりは、薄い墨を水に落としたように、輪郭のない影のようなものが、子供の肌の上に薄く広がっている。それは光の具合でもなければ、薬草の煙でもなかった。颯の目にだけ映る何かであった。
颯は息を止めた。瞬きをしても、その濁りは消えなかった。むしろ、注意を向けるほどに、その輪郭がくっきりとしてきた。濁りには方向があった。子供の胸のあたりから、細い糸のように伸びて、戸口のほうへ続いている。まるで誰かが、目に見えない綱で子供を引っ張っているようだった。
颯は咲耶の手を止めた。
「薬を与えるな」
「颯さん――」
「この子は、病ではない。もっと別のものだ」
咲耶は一瞬ためらったが、すぐにうなずいた。長年、祖父と共に病を診てきた者の勘が、颯の言葉の中に嘘のない響きを聞き取ったのだった。
颯は懐から蓬の葉を取り出した。あの日、咲耶が手渡してくれた、鹿皇の最後の蓬の一枚である。それを子供の胸の上に置いた。
置いた瞬間、颯には分かった。濁りが、蓬の緑に触れて、わずかに後ずさったのである。まるで火に手を近づけた者が思わず引くように、濁りは蓬の葉を避けた。黒い糸の引きが、一瞬弛んだ。子供の息が、わずかに深くなった。
母親が声を上げた。子供の瞼が、かすかに動いたのだ。咲耶はすかさず薬湯を匙で口元に運んだ。今度は颯は止めなかった。濁りの勢いは弱まっており、薬が効く余地ができていた。薬は薬であり、蓬は蓬である。それぞれの役割が違うのだと、颯はそのとき初めて理解した。
外では、櫨の木の枝が冬の風に揺れていた。薬屋の土間に差し込む光が、少しずつ弱くなっていった。冬の日は短い。だがその短い光の中で、子供の顔色が少しずつ戻っていくのが見えた。蓬の葉は、子供の胸の上で、非常に軽く、非常に静かに、乗っていた。
* * *
夕刻、子供は目を覚ました。熱は下がりつつあった。母親は何度も頭を下げ、薬代にと乏しい麻布を差し出して帰っていった。
子供が帰ったあと、咲耶と颯は薬屋の土間に黙って座っていた。土間には薬湯の残り香と、蓬の乾いた匂いが混じっていた。
「颯さん」
「咲耶」
二人は同時に口を開き、同時に口を閉じた。
先に咲耶が言った。
「あの濁りは、私にも見えておりました」
颯は目を見開いた。
「お前にも」
「最初は、自分の目の疲れかと思っておりました。けれど、颯さんが蓬の葉を子供の胸に置いたとき、濁りが弛んだのが、はっきりと分かりました。あれは、薬では退かないものでした」
咲耶の声は落ち着いていた。むしろ、心のどこかで既に予感していた事実を、ようやく口に出せたという響きがあった。
颯は思った。自分たちは、それぞれに何かを見る力を持っている。その力が何のためにあるのかは、まだ分からない。だが、一人で抱えるには重すぎる。
* * *
そのとき、戸口から低い声がした。
「そいつは、もうお前たちだけの問題じゃない」
ハヤテだった。若者は戸口の柱に背を預け、腕を組んでいた。
「自分は、外で待っていた。あの子の母親を見送ってから、戻ってきた。そして今の話を、全部聞いた」
「盗み聞きか」
「盗み聞きだ。すまない。でも、聞かねばならない気がした」
ハヤテは土間に入ってきて、颯と咲耶の正面に腰を下ろした。真顔だった。
「自分は山を歩いてきた。途中、似たような話をいくつも聞いた。病のかたちをしているが、薬では治らない子供。正体の知れぬ風。季節に合わぬ気配。みんな、根が一つだ」
「根が一つとは」
「自分の爺が、死ぬ前に言っていた。この国には、まだ名のつかぬ力が、いくつも眠っているとな。それが今、目覚めはじめている」
颯は息を呑んだ。父も同じことを言っていたのだ。造営の現場で、奈良山のふもとで季節に合わない風が吹くという話。土の下に眠るものに許しを願う仕事だという話。すべてが、繋がっている。
その夜、三人は薬屋の土間で遅くまで話した。灯明の炎が、細く揺れた。ハヤテは山で見たものを、一つ一つ語った。東の国の山奥では、木々が理由もなく枯れる場所があるという。川の水が突然温くなる場所があるという。そしてそのすべての場所で、地元の古老たちが同じことを言っていた。「土の下のものが動いている」と。
颯には、子供の周りの濁りが見えた。咲耶にも見えた。ハヤテには、山の息の乱れが分かる。三人の力がそれぞれ別のものであることは、おぼろげに感じられた。しかし、その三つが今、同じ都に、同じ時に集まってきている。それを偶然と呼ぶには、あまりに揃いすぎていた。
「自分たち、しばらく三人で動こう」
とハヤテが言った。
「動く、とは」
「何が起きているのか、少しずつ確かめていく。まだ、誰にも言わない。互いのあいだでだけ、確かめていく」
咲耶がうなずいた。颯もうなずいた。
* * *
颯は蓬の葉の残りを掌に乗せた。葉の緑は薄くなっていたが、その小さな一枚に、何か静かな重さがあった。鹿皇が百済から海を渡って持ってきたもの。咲耶がそれを颯に渡したもの。そして今日、子供の胸の上で、一度だけその役を果たしたもの。
物は、人の手から人の手へ渡るうちに、力を帯びるのかもしれない。颯はそう思った。筆もそうだ。古い筆には、前に使った者の時間が染み込んでいる。薬草も、蓬の葉も、そしておそらく言葉も。人から人へ渡されるものはすべて、渡すたびに何かを帯びるのだ。
灯明の炎が、そこで一度、ふっと大きく揺れた。風は入ってこなかったのに、揺れた。三人は黙って、その揺れを見ていた。名もなき風が、この夜、三人のあいだを通り過ぎた。それは歓迎とも警告ともつかない、ただ静かな風だった。だがその風の中に、確かに、何かの意志があった。颯にはそれが分かった。咲耶にも分かった。ハヤテにも。
夜が更けて、ハヤテが先に土間を出た。咲耶が片付けを始めた。颯はもう少しだけ残り、灯明の明かりの中で、今日の出来事を紙に書いた。記録することが自分の仕事だからではない。書かなければ、忘れてしまいそうだったからだ。これが夢ではないことを、字にして確かめたかったのだ。
――和銅四年、正月。子供の濁り。蓬の葉。三人の約束。
颯は筆を置いた。墨が乾くのを待ち、紙を畳んで懐にしまった。それが、颯の私の記録の、新たな一枚となった。公の文書には決して書けないことを、自分だけの紙に書く。それがいつか、誰かの手に渡る日が来るのかもしれない。来ないのかもしれない。だが、書かなければ、そもそも渡すものがない。
外に出ると、冬の夜空が広がっていた。星が藤原京の夜よりも近く見えた。都の灯りがまだ少ないからだろう。職人たちの仮宿から、寝入る前のざわめきが遠くに聞こえていた。
颯は奈良山のほうを見た。山の稜線は闇に溶けて見えなかったが、そこに何かがいることは感じていた。目覚めつつある何か。名のつかない何か。それが敵なのか味方なのか、あるいはそのどちらでもない、もっと古い存在なのか。答えはまだない。だが三人は、今日から共に歩くことを決めた。それだけが、確かなことだった。




