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第013話(712年)古事記の影

古事記の編纂が終わったという噂を、颯は兆から聞いた。


和銅五年の初春、太安万侶が筆を置いたばかりの三巻の書が、宮中の奥の倉に収められたという。稗田阿礼が(そらん)じ、太安万侶が写した、この国の古い物語の書である。


「正式な名は『古事記』と決まったそうだ」


兆は書記部屋の片隅で、珍しく小さな声でそう言った。


「神々の物語が、初めて文字になった」


颯は驚いた。正式の国史といえば日本書紀の編纂が既に進みつつあることは知っていたが、それとは別に、神話と古い伝承をまとめた書が先に完成していたとは。


「なぜ、わざわざ二つ作るのですか」


「日本書紀は、唐にも読ませる書だ。漢文で、整った史書の形をしている。だが古事記は、我らの言葉の響きを残すための書だ。外に見せる書と、内に残す書――その二つが必要なのだ」


見せる書と、残す書。颯は筆を机に置き、兆の言葉を心の中で繰り返した。見せるために整え、残すためにそのままにする。自分たちが書いている律令の写しにも、同じようなことが言えるかもしれなかった。正式な記録と、その裏にある生の声。どちらもなくしては、歴史は伝わらない。


兆はさらに続けた。


「古事記には、妙な一文がある」


「妙な、とは」


「神話の最後の巻の末尾に、写本には現れぬ一行が書き加えられているという噂がある。口から口へ伝えられてきた、その一行だ。『神の加護は、乱るるときに限り、人に降る』と」


颯は息を止めた。


「本当に、そのような一行があるのですか」


「ある、と言う者もおる。ない、と言う者もおる。古事記の写しは、まだ宮中の奥にあって、我らの目には入らぬ。確かめる術はない」


兆はそこで言葉を切り、颯の目をじっと見た。


「颯、お前――近頃、様子が少し変わった」


「変わった、とは」


「上手く言えぬ。以前より、何かを見ている目だ」


颯は返事ができなかった。兆の(おか)しがたい目が、静かに颯を貫いていた。この人には、いずれ話さなければならない日が来るかもしれない。だが、まだ今はその時ではなかった。


兆は立ち上がり、肩の埃を払った。そして、ふと思い出したように付け加えた。


「それと、もう一つ。古事記と並んで、日本書紀の編纂が急がれている。あちらはもっと大きな書だ。我らの仕事も増えることになるだろう」


「我らの書記の仕事がですか」


「そうだ。国の歴史をまとめるのに、各地の記録を集めねばならん。地方の風土や伝承も、いずれ整理されるだろう」


颯はうなずいた。国が自らの物語を欲しがっている。古事記がその始まりなら、日本書紀はその続きだ。書くということが、この国のかたちそのものを変えていくのだ。


書記部屋に戻ると、フミが帳面を整理していた。二重番号の仕組みはすっかり定着し、今では書記部屋の全員がその方式に従っていた。フミの工夫が、静かに部屋全体を変えたのだ。


「颯さん、古事記という書ができたそうですね」


フミも噂を聞いていたらしい。その目は純粋な好奇心で光っていた。


「神々の物語が文字になったというのは、すごいことです。声でしか伝えられなかったものが、紙の上に残るようになる。それは、私たち書記の仕事と、どこか似ていませんか」


颯は少し驚いた。フミの言葉は、兆が語った「見せる書と残す書」という話と、根のところで同じことを指していた。声から文字へ、記憶から記録へ。その橋渡しが、書記の仕事の本質なのだ。


窓の外から、平城京の大路を渡る風の音が聞こえた。都ができて二年。通りの店が増え、子どもの声が多くなり、夜の灯も明るくなった。それでもまだ、空き地のほうが多かった。都は器のようなもので、その中に人々の暮らしが少しずつ注ぎ込まれていく。古事記の完成も、その流れの一つなのだろう。国のかたちを作るのは、壁や柱だけではなく、物語もまた、柱の一本なのだ。


「颯さん、いつか古事記を読める日が来るでしょうか」


「宮中の奥にある書だ。我らのような下級の書記には、たぶん縁がない」


「それは、もったいないです」


フミは少し残念そうに筆を下ろした。その表情に、颯はかつての自分を見た。藤原京の書記部屋に初めて入った日、あらゆる文書が山と積まれていた光景。その全てを読みたいと思った、あの渴き。フミにも、同じ渴きがあるのだろう。


*  *  *


その夕刻、颯はハヤテを市の外れに呼び出した。


ハヤテは既に、都の裏の街道筋に詳しくなっていた。どこに怪しい噂があり、どこの祠が壊れ、どこに正体の知れぬ者が泊まっているか。そうしたものを、本人は説明もできずに嗅ぎ当てるのだった。市の商人たちが信頼する用心棒のような存在でもあったが、ハヤテ自身はその力の源を理解していなかった。ただ、体が覚えていることに従っているだけだった。


市の外れには、柳の木が一本立っていた。藤原京にはなかった木だ。平城京の土に根を下ろしたばかりの、若い柳だった。枝の先が、夕暮れの風に揺れて、二人の影をかすめるように動いていた。その下で、二人は肩を並べた。


「兆さんから、古事記の話を聞いた」


颯は、兆の語った一行について、ハヤテに伝えた。『神の加護は、乱るるときに限り、人に降る』。


ハヤテは腕を組んで、しばらく黙っていた。


(じい)が言っていたことと、符合する」


「符合する――」


「爺は昔の祝詞を幾つか覚えていた。そのうちの一つに、同じような言葉があった。神は眠っている。人の世が揺らぐと、神は目を覚まし、何人かに力を分け与える。その力を授かった者は、互いに引き合うのだ、と」


「引き合う」


「だから、自分はお前たちの匂いをたどってここに来た、と爺なら言うのだろう」


ハヤテは少しおどけるように肩をすくめた。その筋の太い首には、市の喧嘩でできた傷痕が残っていた。颯より二つ年下だが、その体は既に大人のもので、言葉だけがまだ少年のままだった。


「匂いというのは、本物の鼻の話じゃない。もっと別の、奥のほうの感じだ。自分は藤原京の頃から、遠くに誰かの気配を感じていた。近づくと、気配はもっと強くなった。咲耶の屋にたどり着いたとき、あの気配は三つに分かれながら、一つに重なり合っていた。自分、お前、咲耶――それが、自分の言う匂いの正体だ」


颯は大路の向こうを見た。日暮れの光の中を、商人たちがゆっくりと帰り支度を始めている。彼らには何も見えず、何も感じていない。見えるのは、ごく少数の者だけなのだ。


ハヤテは立ち上がり、夕空を仰いだ。薄い雲が橙色に染まり、その下を燕が一羽、低く飛んでいた。


「爺は、神とは気まぐれなものだとも言っていた。力を与えるが、対価も求める。何を求められるかは、その者次第だ、と」


「対価か。稗田阿礼が体を壊したのも、それなのかもしれない」


颯はそう言ってから、自分の言葉に驚いた。まだ噂にすぎない話を、あたかも事実のように口にしている。藤原京にいた頃の自分なら、こんな話し方はしなかっただろう。この都に来てから、確かに何かが変わったのだ。兆にもそれを見抜かれていた。


*  *  *


咲耶は、その夜、薬屋の土間で、颯とハヤテに一枚の絵を見せた。


麻紙の上に、細い墨で描かれた人の体の図だった。胸に一つ、腹に一つ、額に一つ、大きな丸が書き込まれている。その丸の周りから、幾本もの線が枝のように伸びて、四肢へと延びていた。


「祖父の遺した書に、あったものです。百済の医術では、体の中を流れる気の筋を、このように描くのだそうです」


「気の筋――」


「それだけのものと、祖父は言っておりました。けれど、あの子供を診てから、私はこの図を何度も見返すようになりました」


咲耶は胸の丸に指を置いた。


「あの子の体の中で、黒い濁りが集まっていたのは、この丸のあたりでした。祖父の絵の、ちょうど真ん中の」


颯は絵をじっと見た。


「体の中に、何か――器のようなものがあるということか」


「器、というのが近いかもしれません」


ハヤテが絵をのぞき込み、自分の胸を叩いてみた。


「だとすると、自分のこのあたりにも、同じような器があるのか」


「たぶん、あります」


「それが、加護を受けたときに目覚める」


「あるいは、穢れを受けたときも」


咲耶はそう言って、指で絵の胸の丸をぐるりと囲った。


「加護と穢れは、同じ器に入るものなのかもしれません。祖父が生前に話していたことと、今颯さんが見ているものと、ハヤテさんが感じているものを合わせると、それだけのことが言える気がいたします」


沈黙が落ちた。外では、春の夜の風が薄く吹いていた。古事記が編まれたばかりのこの年の、まだ誰も読んだことのない書の中に、たぶん同じことが書かれているのだろう――と颯は思った。


咲耶が絵をそっと巻き直し、棚に戻した。その手つきに、祭具を扱うような丁寧さがあった。祖父から受け継いだものは、薬の知識だけではなかったのだろう。百済から渡ってきた者たちが持っていた、身体と気の流れについての、古い知恵。それもまた、声から文字へ、記憶から記録へと移されたものの一つだった。


兆が聞いたあの一行は、確かに書かれているのかもしれない。そしてその一行は、兆の言う通り、外に見せる書ではなく、内に残す書のほうにしか書かれていないのだ。


ハヤテがおもむろに絵を見つめていた。それから、静かに言った。


「自分たちは、この図の中のどこかにいるのだろうな」


誰も答えなかった。答える必要はなかった。三人とも、同じことを感じていたからだ。体の中の器。神の加護。古事記の影。それらは別々の言葉でありながら、同じ一つのことを指していた。


*  *  *


その春のうちに、宮中の奥で小さな事件が起きた。


稗田阿礼が古事記の編纂のあと体を壊し、しばらく伏せっているという噂が役人たちの間に広まった。太安万侶が見舞いに足繁く通っているとも聞いた。直接の交わりなどあるはずもないが、颯は役所の廊下ですれ違う官人たちの話の端々から、その噂を拾い集めた。


兆は別の筋からも情報を得ていた。


「稗田阿礼は、もう長くない、と見る者もおる」


「神話を(そらん)じきった者が、それで命を使い果たしたと――」


「そういう言い方をする者もおる。神々の物語を一度通しで声に出すというのは、ただ事ではないらしい」


颯はその話を聞き、窓の外の春の(かすみ)を見つめた。稗田阿礼という名を、颯は直接知らない。だが、その人が神々の物語を誦じたということだけで、颯の心には重いものがのしかかる。声を文字に変えることが、それほどの仕事だったのだ。


自分の胸の奥が静かに重くなるのを感じた。何人かの人間に力が分かれて降りているのだとすれば、力を授かった者にも、それぞれの役目と、それぞれの代償があるのだろう。誦ずる者は誦ずることに命を使い、書く者は書くことに命を使う。そうして、それぞれの手のひらの分だけ、国は形を変えていく。


颯はしばらく、兆の言葉を反芻していた。神の加護が乱れるときに降るのだとすれば、この平城京という新しい都も、いずれ乱れる日が来るのだろうか。そのとき、自分たちは何をするのだろう。書くことだ、と颯は思った。たとえ世が乱れても、書く者がいれば、少なくとも何が起きたかは残る。それが、自分の役目なのだ。


夜の帳面を前に、颯は筆を取った。灯の芯が揺れて、壁に影を落とした。その日の記録の最後に、自分のための一行を書き加えた。


「和銅五年、古事記奉上。春、春風多し。都、徐々に人を入れ始む」


それは正式な記録ではなかった。自分のためだけの一行だった。


しかし颯は、その一行を、後に自分の人生で何度も思い出すことになる。古事記が奉上された年に、自分もまた、書くことの意味を初めて真に理解したのだと。書くとは、残すことだ。残すとは、未来の誰かに渡すことだ。そして渡すとは、信じることだ――まだ見ぬ誰かが、いつかそれを読むだろうと。


古事記の影の下で、颯の筆は静かに、だが確かに、動き始めていた。


外では、平城京の夜が静かに更けていた。大路に人通りはなく、ただ遠くの番人の声と、犬の遠吠えだけが、時折り夜風に乗って届いた。墨の匂いと、灯の油の匂いが混じり合う、静かな部屋だった。この都があと何百年続くのか、颯には知る由もなかった。だが、その続く限り、書く者が必要であることだけは、確かだと思えた。

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