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第014話(713年)鎮まる声

# 風土記の章


和銅六年の初夏、諸国に「風土記」撰進の命が下った。


各国の地名の由来、産物、伝承、古い言い伝え――それらをあまねく集めて、都の書庫に納めよ、というものだった。役所はにわかに慌ただしくなった。遠国からの書状をまとめる係、地名の表記を整える係、写しを分配する係――颯は、それらの束ね役の一人に任じられた。


平城京に移って三年が過ぎていた。都の骨格はできていたが、まだ空き地のほうが多く、南の外れには野草が伸び放題になっている場所もあった。それでも、役所の中は毎日忙しかった。国が自らの姿を記録するということは、想像以上に手間のかかる仕事だった。


フミが、以前の日付と種類の二重番号に加えて、国別の記号を新たに考案した。これで、遠国からの風土記の草案が都に届いた際、どこの国のどういう種類の書がいつ届いたかを一目で見分けられるようになった。兆はそれを見て目を細めた。


「この娘は、役所の蔵の記憶そのものを、一枚の帳面に折りたたんでおるな」


フミは頬を少し赤らめたが、すぐに次の帳面に手を伸ばした。その動きに、無駄のない正確さがあった。颯は、フミの仕事ぶりを見るたびに、書記の本当の力とは何かを考えさせられた。筆を速く動かすことではなく、仕組みを作ること。それがフミの才能だった。


兆が、書記部屋の入り口で颯を呼び止めた。


「風土記の件、各国からの返答が遅い。とくに出雲が遅い。あの国は古い伝承が多すぎて、まとめるのに苦労しておるそうだ」


「出雲は、神話の土地でもありますから」


「そうだな。古事記にも出雲の名は何度も出てくる。神々の集う土地だ。そこの風土記は、ただの地誌では済まんだろう」


兆の目が、遠くを見ていた。古事記の完成から一年。国の記憶を集める仕事は、まだ始まったばかりだった。


*  *  *


その年の初夏、出雲国からの草案の束が届いた日のことだった。


颯は蔵の奥で、届いたばかりの麻紙の束をほどいていた。一枚目をめくった瞬間、指先がほんの少し冷たくなった。それは、平城京の初夏の暖かさの中では明らかに場違いな感覚だった。


紙の上には、見慣れぬ地名がいくつか並んでいた。「黄泉比良坂」「佐太」「宇夷」――いずれも古い神話にゆかりのある土地だった。古事記の中にも出てくる名前が、風土記の草案の中にも生きているのだ。


颯は一枚ずつ読み進めた。地名の由来、産物の記述、村人の口伝え。そのどれもが、都の書記部屋では触れることのない、土の匂いのする言葉であふれていた。そのうちの一枚に、目が止まった。


「佐太の郷の奥、年老いし松の根元に、時々夜半、黒き気漂う。村人これを『うらみの息』と呼ぶ。触れし者は熱を発し、物言わぬようになる」


颯は、その一文を、三度読み返した。


黒き気。物言わぬようになる。それは、和銅四年の正月、咲耶の薬屋で子供の胸の上に見た、あの濁りそのものだった。濁りは一つの場所にだけあるのではなく、遠く出雲の山の中にも同じものがある。颯の胸の奥が、かすかに痛んだ。


*  *  *


その夜、颯は咲耶とハヤテを呼んだ。


蔵から密かに写しを一枚抜き出し、薬屋の土間の灯明の下で三人で読んだ。灯明の(ほのお)の揺らめきが、麻紙の上の文字をちらちらと照らした。読み終えたあと、しばらくは誰も口を利かなかった。


「同じものだ」


先に口を開いたのは咲耶だった。その声は静かだったが、確信があった。


「同じものが、出雲の山にも、この都にもある、ということです」


「一つではない、と思う」


ハヤテが言った。その表情は真剣だった。


(じい)の話を思い出す。あれは――穢れとか、恨みとか、そういう名で呼ばれるものだ。土地に染み込んで、ときどき人に触れる」


「穢れ」


颯は口の中でその言葉を転がしてみた。穢れ、と言うと、神仏の世界の言葉のように聞こえる。しかし、この都の役所にいる颯の耳には、もっと実体のある何かに感じられた。人の思いが溶け残ったもの。それが、土地に染み込んでいる。


「自分たちの力は、それを退けるためにあるのかもしれない」


颯はそう言ってみた。言ってみてから、自分でも確信はなかった。


「――あるいは、それを鎮めるため、か」


咲耶が訂正するように言った。


「退ける、ではなくて、鎮める。祖父は、病も同じだと言っていました。病は敵ではない。体の中に溜まった何かが溢れている状態だ。退治すれば済むのではなく、ゆっくり鎮めるのが薬師の仕事だ、と」


颯は頷いた。退けるよりも、鎮める。その言葉のほうが、自分の心に馴染んだ。


夜が更けて、三人はそれぞれの場所へ戻った。颯は書記部屋の自分の席に座り、灯明の下で出雲の草案をもう一度読み返した。「うらみの息」という言葉が、頭の中で何度も繰り返された。村人たちはそれを(おそ)れ、避け、近づかないものとして扱っている。だが颯たちは、それに触れてしまった。触れた以上、もう知らぬふりはできない。


*  *  *


そのすぐあと、都の北の外れで、妙な事件が起きた。


宮城の造営の人夫の一人が、深夜に突然叫び出し、同じ長屋にいた仲間を打ちのめして逃げ出したという。打たれた者は軽傷で済んだが、逃げた人夫は奈良山の麓で発見されたとき、すでに物言わぬ人となっていた。生きてはいたが、声は失われ、目の焦点も合わなかった。


颯は造営使の役所でその報告書を写す仕事に当たった。報告書の末尾には、「本人の胸元に黒き脂のごときもの付着しおり、薬師に見せしも、病にあらずとの見立て」と記されていた。


黒き脂のごときもの。颯は筆を置いて、しばらく動けなかった。出雲の草案にあった「黒き気」と、この報告書の「黒き脂」が、同じものを指していることは、もはや疑えなかった。過去に咲耶が見せた絵図の「気の筋」のことも思い出した。体の中を流れるものが乱れるとき、人は壊れる。そしてその乱れは、人の内からだけでなく、外からも来るのだ。


筆を握り直したが、指先にまだあの冷たさの名残りがあった。


その日の夕刻、颯はハヤテを連れて、造営の長屋のある一角へ向かった。咲耶は薬屋を閉めることが難しく、道具だけを預けてきた。蓬の乾いた葉と、百済(くだら)から伝わった薬草の小袋である。颯はそれを懐に入れ、大路を北へ歩いた。夏の夕日が長く、影が橙色に伸びていた。


長屋の外には、造営の役人が一人立っていた。颯が書記部屋の者だと名乗ると、役人は少し警戒しつつも通してくれた。中は薄暗く、人夫たちは皆、外へ避けていた。残されているのは、打ちのめされた仲間の者のみだった。


その者は、寝床の端で壁を見つめていた。顔色は悪くなかったが、目だけが暗く沈んでいた。年は颯より上だろうか。日に焼けた顔に、造営の人夫としての労苦が刻まれていた。長屋の空気は重く、土と汗の匂いが混じっていた。


ハヤテが小さくうなずいた。


「この部屋の空気が、少しおかしい。自分には見えないが、何かが(よど)んでいる気配がある」


颯も感じていた。空気がわずかに重い。息を吸うと、胸の奥に冷たいものが流れ込むような感覚があった。報告書にあった「黒き脂」の言葉が、空気の重さの中に立ち上がってくるようだった。これが、穢れの匂いなのか。出雲の「うらみの息」と同じものが、この都の長屋にも漂っている。


颯はそっと近づき、男の肩に触れた。


触れた瞬間、――来た。


頭の中に、誰かの声にならぬ嘆きが、一度だけ押し寄せたのである。男の嘆きではなかった。もっと別の、もっと古い、もっと湿ったものだった。嫉みとも恨みとも言い切れぬ、ぐずぐずと溶けた感情の(おり)


颯は反射的に手を引いた。


「颯」


ハヤテが低い声で呼んだ。


「自分には見えないが、お前の顔色が変わった。何を感じた」


「誰かの――ここではない、どこかの――恨みのようなものだ。この人の中に、それが流れ込んでいる気がする」


颯は息を整え、もう一度、男の胸元に手を近づけた。今度は触れずに、掌を浮かせたままにした。


――鎮める。


咲耶の言葉を、自分に言い聞かせた。退けるのではなく、鎮める。


颯は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。息を吐きながら、男の胸の中の濁りに向かって、声にならぬ言葉を差し出してみた。――お前は、ここにいる者ではない。元の場所へ帰れ。怒るな。嘆くな。だが、忘れるな。


なぜそんな言葉が浮かんだのか、颯には分からなかった。ただ、出てきた言葉をそのまま心のなかで唱えた。


蓬の葉を一枚、咲耶から預かっていた袋から取り出し、男の胸の上に置いた。


その瞬間、男の口から、長い、細い息が漏れた。


吐き出された息は、薄く黒ずんで見えた。それは灯明の煙にしては濃く、風にしては重かった。颯の目には、その黒い息が、そのまま長屋の戸口のほうへ流れていき、外の夜気の中へゆっくりと溶けていくのがはっきりと見えた。


ハヤテは顔をこわばらせていた。


「自分にも、今のは見えた」


「本当か」


「ほんの一瞬だが、黒いものが、戸口から外へ流れた」


男の顔色が、わずかに戻った。目の焦点は、まだ定まらなかったが、瞼が時折閉じるようになった。咲耶の薬師の言葉を借りれば、まだ鎮まったわけではない、けれども溢れは止まった、という段階のように思えた。


ハヤテが男の額にそっと手をかざした。熱はもうなかった。ただ、肌が少し湿っていた。汗なのか、それとも別のものなのか、判別はつかなかった。


「この人は、明日には少し良くなるだろうか」


「分からない。だが、少なくとも、今夜よりはいいはずだ」


*  *  *


長屋を出ると、颯は急に膝に力が入らなくなって、その場にしゃがみ込んだ。


「颯」


「大丈夫だ。ただ、息が続かない」


胸の奥が冷たく、手のひらが震えていた。蓬の葉一枚を置き、声にならぬ言葉を差し出しただけで、体の芯が何かを使い果たしたような感じがあった。


ハヤテが肩を叩いた。


「力には代償がある、と爺が言っていた。使いすぎるなよ」


「使っているという感覚すら、まだつかめていないのに」


「だから、尚更だ」


二人は夜道をゆっくり歩き、薬屋へ戻った。咲耶が心配そうに飛び出してきた。颯の様子を一目見て、咲耶は何も聞かずに水を持ってきた。冷たい水を一口飲むと、体の芯が少しだけ戻ったような気がした。


「鎮まりました」


「鎮めた、のかもしれん。正直、よく分からない」


「でも、あの黒いものは出ていったのでしょう」


「出ていった」


咲耶は頷いた。


「それは、鎮まったということです。颯さんの言葉と、蓬の葉と、あの人の体が、一緒にそれを外へ押し出したのです」


咲耶の言葉に、颯は静かに教えられた。自分がたった一人で何かを成したのではなかった。自分の声、咲耶の蓬、男の体――三つが一緒になって、ようやくあの濁りは外へ出ていった。そして多分、ハヤテが連れて行ってくれた足と、長屋の戸口を開けてくれた役人の小さな許しも、同じくらいの重さでそこに入っていた。


力は、一人のものではない。


颯は灯明の炎を見ながら、そう思った。父がかつて言っていた。律令とは、人の力で作るものだ、と。だが今、颯は思う。律令だけでは届かないものがある。書かれた文字と、書かれない力と。その両方が合わさらなければ、この国は守れないのかもしれない。


風土記の写しの一枚と、長屋の男と、古事記の末尾にあるという一行と――それらが線で繋がるものであることが、ようやく颯には()に落ちてきた。


窓の外で、また風の向きが変わった。奈良山のほうから、夏の湿った風が都に流れ込みはじめていた。出雲の山からも、同じ風が吹いているのだろうか。遠く離れた土地の穢れと、この都の穢れが、同じ風に乗っている。それを鎮めるのが自分たちの仕事なのだと、颯は今、静かに覚悟し始めていた。それは律令の書記としての仕事と、まったく別の種類の仕事だった。だが、どちらも「鎮める」という言葉で繋がっている気がした。

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