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第015話(714年)岩の男

和銅七年の秋、平城京の南の外れには、まだ切り出された大石の転がる造営地が残っていた。朱雀大路の南端から少し外れた所で、石垣の修繕が続いていた。そこに働く人夫たちの姿は、都の華やかさからは見えぬ裏側の光景だった。


平城京に移って四年が過ぎていた。都の骨格はあらかた出来上がっていたが、細かな補修や増築は途絶えることなく続いていた。朝廷が華やぐ北の方角とは対照的に、南では、今日も土埃と石の粉が舞い、人夫たちの腰に結ばれた縄が汗で黒く光っていた。


颯はその日、造営使の役所から命を受けて、南の現場へ出向いた。人夫の点呼と、支給される米の覚え書を照らし合わせる仕事だった。書記部屋では毎日、遠い国の名前と地名ばかりを書き写していたが、こうして実際の人足たちの顔を見る機会は少ない。秋の陽は薄く、吹き抜ける風は早くも冬の匂いを混ぜていた。


現場の隅で、一人の男が大きな石に寄りかかるようにして座っていた。褐色の筒袖が汗と土で黒く染まり、剃りの整わぬ髭が顔の下半分を覆っていた。腕の筋は太く、肩は巌のように盛り上がっていたが、その顔には妙な静けさがあった。他の人夫たちが騒がしく動き回る中で、その男だけが、時間の流れから少し遅れているかのように見えた。


「あの男は」


颯が指さすと、傍にいた造営の役人が苦々しげに答えた。


「イワオと申す者でしてな。石工の家の出で、もう十年近くここで石を据えております。仕事は誰よりも丁寧なのですが、昨今、どうも様子が違う」


「様子が違う、とは」


「急にぼんやりと座り込むことが増えました。仲間に話しかけられても、すぐには答えぬ。以前は真面目に動く男だったのですが」


颯は手にしていた帳面の、イワオの名前のところに目をとめた。日々の出役の記録が続いていたが、ここ数月、所々に「早引け」「欠」の印が記されていた。律令の条文では、こうした人夫には課役の免除と代役の手配が定められている。しかし現場では、欠員の穴埋めに追われて、その条文が正しく運用されることは稀だった。


その日、颯はしばらくイワオの働きを遠くから見ていた。他の人夫が石を据える時、音は乱れ、据えた石の高さが揃わぬ。だがイワオの据える石は、音が静かで、高さが揃い、据えた後の石の表情までが柔らかく見えた。仕事は、確かに上手かった。その上手さが、なぜか、見る者の胸にわずかな痛みを残した。上手く仕事をする体が、同じ上手さのまま、少しずつ壊れていく――そういう光景だった。


*  *  *


その夜、颯は書記部屋の自分の席で、灯明の下で帳面を閉じた。兆が隣の席で、やはり遅くまで残って写しを続けていた。


「南の現場の石工が一人、体を壊しかけている」


颯がぽつりと言うと、兆は筆を置いた。


「どんな様子だ」


「働き手としては上手い。だが、時折、目の奥が遠くを見ているような――何かに取り憑かれているような顔をする時がある」


兆は少し考えてから、言った。


「律令には、病の者を休ませる定めがある。だが、現場の役人はそれを嫌がる。人夫が減れば、責めを受けるのは自分だからな」


「分かっています。ですが、あのまま働かせれば、あの男は壊れます」


兆が颯の顔を見つめた。その目に、いつもの軽口は無かった。


「お前が書記として、正しく書けばよい。病の兆しあり、休養を要す、と。それ以上のことは、造営使が決める」


「はい」


「だが颯、覚えておけ。律令は器だ。器の中に何を注ぐかは、使う者の心次第だ。器だけを責めても、水は溢れぬ」


兆の言葉は、いつもより重く響いた。そしてもう一言、兆は低く付け加えた。


「十年前、お前の父は、同じようなことを申しておった。法を作った者は、法の外側に必ず零れ落ちる者が出ることを、知っておいた方がよい、と。書く我らは、それを見届ける役だ」


父の名が出た時、颯は硯の水を見つめた。父は、大宝の夜明けを見て逝った人だった。父が見ていた「零れ落ちる者」の顔が、自分の世代では、イワオの顔をしているのだった。


*  *  *


三日後、颯は咲耶とハヤテを誘って、南の現場へ足を運んだ。咲耶は蓬の乾いた葉と、鹿皇から受け継いだ薬草の小袋を携えてきた。現場の隅で石に寄りかかっていたイワオに、颯は近づいた。


「少し、体を診せてもらえないか」


イワオは顔をゆっくりと上げた。その目は濁ってはいなかったが、どこか遠いものを見ているようだった。しばらく沈黙があった後で、男は低い声で言った。


「役人さまが、わざわざ私などに」


「私は書記だ。医者ではない。だが、ここに薬師がいる」


咲耶が膝をついて、イワオの手首に指を当てた。しばらく脈を診て、それから額に軽く掌を置いた。


「熱は少しあります。ですが、それよりも――」


咲耶は言葉を途切らせ、イワオの胸元に目をやった。


「胸の奥に、重いものが溜まっています。石の粉ではなく、何か別のものが」


ハヤテが少し離れた場所から、じっと男を見ていた。ハヤテの目には、人には見えぬものが時折映ることを、颯はこの一年で知り始めていた。


「自分にも、少し見える」


ハヤテが小声で言った。


「この人の背後に、大きな石の影のようなものが立っている。石ではない。もっと重い、古いものだ」


イワオはその会話を聞いていたのかどうか、判然としなかった。ただ、咲耶の掌が胸に置かれると、目を閉じて、長い息を吐いた。吐き出された息の端に、薄く、白に近い鼠色のものが混じっているのを、颯は見たような気がした。だが、確かめる間もなく、それは秋の風に散った。


*  *  *


イワオの身の上は、薬屋の土間に座らせてから、ぽつりぽつりと語られた。


「私の家は、代々石工でございます。播磨の山の裾に、石を切り出す村があります。祖父も父も、みな石を割って生きてきた」


イワオは、土間の火を見つめながら言った。


「祖父は、石には魂が宿ると申しておりました。山から切り出す時に、一礼する。石を据える時に、一礼する。そうやって、石と話をしながら仕事をするのが、石工の作法でございます」


「作法を、今も守っているのか」


颯が尋ねると、イワオは首を軽く振った。


「都の現場では、そんな暇はございません。一日にいくつも石を据え、積み上げねばならない。祖父の作法など、誰も待ってはくれない。気がつくと、私は石に一礼もせぬまま、ただ積んでいる。そのうちに、石のほうから、何かを呼ぶような声が聞こえるような気がして――」


ハヤテが静かに頗いた。


「石には、記憶がある、と爷も言っていた。山で長く眠っていた石は、切り出される時に、痛みのようなものを残す。それが、運ぶ者の体に染み込むことがある」


イワオはハヤテの言葉に、目を上げた。


「そんなふうに申された方は、初めてでございます」


咲耶が蓬の葉を炙って、イワオの胸元に近づけた。葉の煙が、ゆっくりと立ち昇り、土間の暗がりに溶けていった。


「一礼なさいませ、イワオさま」


咲耶が言った。


「石にではなく、ご自分の体に。あなたの体は、岩に似ています。重いものを、皮膚の内側で受け止めている。だから、まずはご自分を労わってください」


イワオの目が、一瞬だけ濡れたように見えた。だが男は涙を流さなかった。ただ、大きな掌を自分の胸の上に置き、深く息を吸って、吐いた。その息は、わずかに白く見えた。秋の夕暮れの冷気のせいなのか、それとも他の何かなのか、颯には分からなかった。


しばらく黙った後で、イワオはぽつりと言った。


「妻が、去年、子を産み落とすときに、亡くなりました。子も、育たなかった。その頃から、仕事に出ても、石の声だけがよく聞こえるようになった」


咲耶は、蓬の煙の向こう側で、目を伏せた。颯は何も言えず、ただ土間の火を見ていた。律令の条文の中には、喪中の者の課役の免除の項がある。だがイワオは、自分の喪を誰にも届け出ていなかった。届け出なければ、休める制度が働かない。届け出ることすら、もはや気力として残っていなかったのだろう。


「――明日、役所で、喪の届けを代わりに出しておこう」


颯がそう言うと、イワオはようやく、静かに頗いた。


*  *  *


数日後、造営使の役所に、颯は正式の書付を上げた。「石工イワオ、喪中の届け遅延あり。十日の間、軽き業に替うべし」――律令の条文に則った、きわめて形式的な文面だった。だが颯は、一文字一文字を、丁寧に書いた。器の中に、何を注ぐか。兆の言葉が、筆の動きを律していた。


書付は通り、イワオは十日の休養を得た。その間、咲耶は何度か、乾いた蓬と鹿皇伝来の薬草の煎じ薬を、男のもとへ届けに行った。ハヤテは一度、イワオの長屋に泊まり込み、夜更けに男の寝息が深くなるのを確かめて戻ってきた。颯自身は、書記の仕事を抱えていて、頻繁には顔を出せなかった。だが三人で役目を分けたおかげで、イワオは着実に、少しずつ、顔色を取り戻していった。


復帰した日、男は石に一礼をしてから、初めての石を据えたという。それを伝え聞いた時、颯は書記部屋の席で、小さく頗いた。


その数日後、颯は南の現場を再び訪れた。イワオは石垣の中ほどで、一つの平石を据えようとしていた。周りの人夫たちは、以前と違って、イワオに無用な声をかけなかった。イワオの作法を、いつの間にか、現場が受け入れ始めていた。イワオは颯を見つけると、軽く頭を下げ、石を据え終えてから寄ってきた。


「あの時、役人さまに届けていただいた書付のおかげで、私は十日、ただ休むことが許されました」


「書付が、お前を休ませたのではない。休む資格が、元からお前にあったのだ。書付は、それを思い出させただけだ」


イワオは少し考えて、頗いた。


「祖父の一礼の作法を、もう一度、体が覚え直しました。私は、石と話をするための手を、忘れかけていた。その手は、休んでいる間に、少しだけ戻ってまいりました」


颯はその言葉を、帳面には書かなかった。書かずに、耳の奥だけに残した。書記は、書くものを選ぶ仕事でもあった。残したいものほど、書かずに抱えることが、時にある。


夜、颯は「私の記録」の帳面を開いた。


 和銅七年秋、イワオという石工に会う。律令は器だと、兆は言う。器は書く者が作るのではない。使う者が、心で満たすのだ。

 父の言葉を、兆が借りて私に渡す。零れ落ちる者の顔を、見届けるのが書記の役。イワオの顔を、忘るまじ。


そう書いて、筆を置いた。窓の外で、奈良山のほうから冷たい風が吹いていた。新しい秋が、都の上を過ぎていこうとしていた。


イワオの体は、おそらく完全には癒えない。石工の肩に積もった年月は、休養で消えるものではない。だが、あの男の中に残っていた、祖父から手渡された石への一礼――あれだけは、失われずに済んだ。それで十分ではないか、と颯は思った。律令が救えぬものを、人の記憶が救うこともある。


ハヤテが隣の席にやってきて、静かに座った。


「颯、今日のお前の字は、少し違った」


「そうか」


颯は筆を置き、灯明の炎を見つめた。守るための字。兆がかつて「法を守る者」と呼んだ存在に、自分が少しずつ近づいているのかもしれなかった。岩のように静かで、岩のように動かない何かが、自分の中にも芽生え始めていた。


「ハヤテ」


「うむ」


「お前の父は、こういう時、何と言っただろうな」


ハヤテは少しの間、炎を見つめてから、静かに答えた。


「――石は、運んだ者の分も、覚えている、と。多分、そう言っただろう」


「覚えている、か」


「父はよくそう言った。人が忘れた痛みを、石が代わりに抱える。それが、山から切り出された石の役目だ、と」


颯は、イワオの据えた石の一つ一つを思い出した。一度据えられた石は、もう動かない。石は、イワオの作法も、失われた妻子の記憶も、十日の休みも、全て抱えたまま、これから何百年と、この平城京の隅で黙って立ち続ける。律令の条文は、いつか書き換えられるだろう。だが石は書き換えられない。石の中に畳み込まれたイワオの一礼だけは、どれほど時代が変わっても、そのままそこにあり続ける。それは、文字より強い、もう一つの記録のかたちだった。


颯は頗いた。石が覚えている限り、イワオの祖父の一礼も、妻の死も、十日分の休みも、全て石の中に残る。そして都の石垣は、そういう記憶の集まりで出来ている。都は、律令の条文だけで建っているのではなかった。名もなき人夫たちの息と、作法と、喪と――それらの全てで、静かに支えられていた。

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