第016話(715年)天道衆
和銅八年の春先、都に一つの報せが届いた。美濃の国の泉から、白い亀が捕らえられた、というのである。甲羅に不思議な紋があり、これは吉兆であると国司が奏上した。
書記部屋の中では、しばらく誰も筆を進めなかった。瑞祥の報せは、時折、都に届く。だが、白い亀というのは、それだけでは改元に至るほどの重みを持たない。それなのに、宮中ではこの亀を巡って、わずかな動きが始まっていた。
「元号を、変えるかもしれん」
兆が、書写の手を止めずに、ぽつりと言った。
「亀一匹で、ですか」
フミが少し驚いたように顔を上げた。フミは去年の冬から書記部屋に正式に配属されていた。年はまだ若いが、帳面の整え方には他の者にはない正確さがあった。
「亀一匹ではない。帝の御代替わりの話と、重なっているのだ」
兆の目が、ちらりと北の方角――宮の方向を向いた。
元明天皇は、譲位を考えておられる、という噂が、役所の中を静かに流れていた。在位して八年、新しい都を築き、貨幣を鋳造し、古事記と風土記の編纂を指揮された。だが、御身の具合が近頃、すぐれぬという話も聞こえてきていた。譲位と改元が重なるなら、瑞祥の亀は、時宜を得た現れということになる。
颯は古事記の写しを束ねる仕事に戻りながら、その話を胸の奥に仕舞った。瑞祥とは、時に、上の方の意思が先にあって、その意思に合わせて「下から」自然に現れたように整えられるものらしい。それを冷ややかに見る目は、書記には必要だった。だが、その冷ややかさを書付には出さぬのも、書記の務めだった。
* * *
その月の終わりに、詔が下った。譲位、改元、そして新帝の即位――三つの大きな事が、一挙に平城京を包んだ。
元明天皇は皇位を娘の氷高内親王――のちの元正天皇――にお譲りになった。改元は「霊亀」とされ、美濃の白き亀に因んだ名が、国の時の標となった。
書記部屋には、詔の写しが次々と届いた。颯も兆もフミも、その夜は遅くまで机に向かった。詔の一字一字を正確に写すのは、書記の最も基本の仕事であり、最も神経を使う仕事でもあった。字の形が少しでも乱れれば、詔は詔でなくなってしまう。
夜更けになって、颯が筆を置いた時、フミが少し疲れた顔で言った。
「元号は、不思議なものでございますね。亀が一匹出てきただけで、国の時が変わる」
「時が変わるのではない。時の名前が変わるのだ」
兆が答えた。
「だが、名前が変わると、人は少しだけ、違う時間を生き始める。それを古い人たちは知っていた。だから元号を定めた」
颯は、兆の言葉をゆっくりと噛み締めた。名が、時を作る。文字が、人の時間を形作る。書記が扱うものの重さが、また一つ、増えたように感じられた。
また数日が経ち、譲位の祝いと即位の儀のための諸国への触れの写しが、山のように書記部屋に回ってきた。颯は、国ごとに宛てられる触れの文面に、わずかな差異があることに気づいた。遠い陸奥や日向には、年貢の免除の一条が添えられているのに対し、都に近い国々には、それがない。同じ「譲位の恩恵」でも、届き方には差がある。それは、律令という建前の下に潜む、現実の差だった。
「こういう差を、書き手は覚えておけ」
兆が颯の手元の写しを覗き込みながら言った。
「条文に現れる差と、現れぬ差。両方を知っている者だけが、本当の意味で律令を読める」
颯は頗いた。書記の仕事は、言葉を写すことだけでなく、言葉の配り方を見ることでもあるのだった。
* * *
霊亀と改元された数月後、颯の耳に、妙な話が入ってきた。
都の外、山城の里の一つに、「天道衆」と名乗る人々が集まり始めている、というのである。噂の発端ははっきりしなかったが、律令の役所には届かぬ所で、彼らは独自の祭りを行い、瑞祥を読み解き、あるいは疫を鎮めるための呪いを唱えているのだという。
「――天の道を行く者、ということか」
颯が兆に問うと、兆は少し眉をひそめた。
「そう自称しているらしい。改元の亀を、自分たちが予知したと申しておる者もおるそうだ。むろん、真偽は分からん」
「役所は、どう見ているのですか」
「しばらくは様子を見るらしい。都の近くで大きな騒ぎを起こさぬ限り、取り締まるつもりはない。律令には、民間の祭祀を一概に禁ずる条文はない。神祇官が管する公の祭祀以外は、黙認されている部分が多い」
「ですが、もし彼らが大きくなれば――」
「大きくなれば、その時に考える。今は、それだけのことだ」
兆の返答は、いつも通り淡々としていた。だが颯は、兆の目の奥に、わずかな警戒のようなものを見た。
数日後、造営使の役所へ用事で出向いた帰り道、颯は市場の裏手で、一枚の木札を見つけた。木札には、拙い字で「天の道は人を救ふ」と彫られていた。そばに赤い布切れが結ばれ、小銭が幾枚か置かれていた。誰かが、この木札に向かって祈ったのだった。颯はしばらく立ち止まって、その木札を見ていた。律令の書付の重さとは別の、もっと切実な重さが、木の肌に滲んでいた。
通りがかりの老婆が、颯の近くに立ち止まって、同じ木札に向かって短く手を合わせた。颯は少し迷ったが、声をかけた。
「これは、どなたが彫られたのでございましょう」
老婆は振り向いて、颯の衣の色を見た。役人の身なりであることを確かめると、一瞬、警戒の色を目に浮かべた。が、やがて、小さく笑った。
「お役人さま、咎めになるような話ではございません。山の向こうから、時折、歩いて来られる方がおいでになります。病の人の噂を聞くと、そっと木札を置いていかれる。お顔を見たことは、誰もございません」
「天道衆、という名を、お聞きになったことは」
老婆は首をかしげた。
「名はございません。木札と、祈りと、それだけでございます」
颯は頭を下げて、老婆と別れた。名乗らぬ祈り。自分たちに似ている何かが、市場の裏手にも、既に息づいていた。名を持って現れる天道衆と、名を持たぬままに歩く誰か。その二つの流れは、同じ源から湧いているのかもしれなかった。
* * *
その夜、颯は咲耶の薬屋を訪ねた。ハヤテも来ていた。灯明の下で、三人は静かに茶を飲んだ。
「天道衆の噂を、聞いているか」
颯が切り出すと、咲耶は頗いた。
「薬を求めに来る人の話の中で、時折、名が出ます。疫病が起きた時、彼らのもとへ駆け込む人がいる、と」
「疫病か」
颯はその言葉を重く感じた。都の中では、まだ大きな疫は起こっていない。だが、近くの国々では、時折、小さな流行がある、という報告が届いていた。役人たちは、それを「局地の疫」と呼び、さほど深く受け止めていなかった。
ハヤテが静かに言った。
「自分にも、あの人たちの噂は聞こえてくる。父の家の近くにも、天道衆の名を聞いて足を運ぶ者がいる。祈りで病を鎮めると申しておるそうだ」
「祈りで――」
「効く者には効くのかもしれない。効かぬ者には効かない。それは、薬と同じだ」
咲耶が小さく頗いた。
「薬でも、効かぬ人はおります。体と心の在り様が、薬を受け入れるかどうかを決める。祈りも、似たようなものかもしれません」
颯は、鎮まる声の夜のことを思い出した。出雲の風土記の一文、長屋の男の胸に現れた黒い息――あれを、自分は「鎮めた」。蓬の葉と、声にならぬ言葉と、咲耶とハヤテの助けがあった。だがあれは、律令の書記の仕事ではなかった。律令の外にある、もう一つの仕事だった。
「天道衆も、似た仕事をしているのかもしれないな」
颯が呟くと、ハヤテは少し考えてから答えた。
「似ているかもしれない。だが、違うかもしれない。我々は名乗らぬ。彼らは名乗る。そこが、大きな違いだ」
名乗る、ということ。その言葉が、颯の心に残った。
「名乗るようになると」
咲耶が静かに付け加えた。
「人は、自分の力を過信し始めます。祖父も、そう申しておりました。薬師は、薬師と名乗った時から、名の重さに引きずられる。引きずられると、患う人の体より、名を先に見るようになる」
颯は、咲耶の言葉に、少しの間、言葉を失った。自分たちは、まだ名乗らずに済んでいる。だがそれは、恐れがあるからでもあった。名乗る恐れではなく、名乗らぬ恐れもあった。どちらが正しいのかは、まだ分からなかった。
* * *
数日後、颯は詔の写しの束を抱えて、長屋王のお屋敷に向かった。左京三条二坊、都の東の一角にある王の邸宅は、近頃、書記たちの出入りが増えていた。王が新帝の治世に備えて、古い律令の条文を整理し直す仕事を始めておられたからである。
広間で待っていると、王は忙しい手を止めて、颯を呼び入れた。
「お前の写しは、いつも読みやすい。余の目には、余裕のある字に映る」
「恐れ入ります」
「この頃、巷で天道衆という者どもが噂になっておる。お前は、何か聞いておるか」
颯は少し迷ったが、正直に答えた。
「都の外に集まり、祭祀と祈りを行っていると聞いております。役所は、今のところ、静観の構えで」
「静観か」
王は短く頗いて、少し笑った。
「民が自ら集い、祈りを捧げる。それ自体は咎むべきことではない。ただ、名を持った集団が、律令の外で大きくなると、やがて政に触れる時が来る。その時、我々は備えておらねばならん」
王の言葉は、穏やかだったが、底に冷たいものがあった。
「備える、とおっしゃいますのは」
「力で押さえるのではない。法の側が、民の祈りを受け止める器を広げておくことだ。公の祭祀だけでは、この国の人々の不安は、もう受け止めきれぬ。疫があり、凶作があり、遠い蝦夷との境に不穏がある。そういう世では、民は自分の手で祈りを探す。探した先が、律令の外にある祈りだと、国はやがて二つに裂ける」
颯は頗いた。王の言葉は、単なる警戒ではなかった。遠い先までを見通した、用心深い設計の言葉だった。
「余は、いずれ、仏の寺をもっと国の隅々まで広げたいと考えておる。仏には、民の祈りを受け止める懐の深さがある。その懐に、天道の衆のような小さな流れを、静かに合わせていく。――そういう道も、あるだろう」
王の目は、すでに、数十年先の国の姿を見ているようだった。颯は、ただ頗いて、写しを置き、辞した。
邸宅を出て、大路を北に歩きながら、颯は王の言葉を反芻した。律令の外にあるもの――天道衆、黒い気、祖父の作法、咲耶の薬、ハヤテの目。それらが、いつか一つに繋がる日が来るのかもしれない。だが、その日の政の姿は、今の颯には見えなかった。
* * *
その夜、颯は「私の記録」の帳面を広げた。
霊亀元年、元号改まる。美濃の白き亀、国の時を一つ変えた。
天道衆なる者ども、都の外に現れるという。律令の外に立つ祈りと、律令の内に立つ書と、二つが同じ国の中に並び立つ。
長屋王は、備えよと申された。力で押さえず、器を広げよと。懐の深い受け止めを、政の側に。
咲耶曰く、名乗るは名に引きずられる始まりなりと。我ら、名乗らぬまま、何処まで行けるか。
筆を置き、灯明を細めた。秋はまだ先だったが、夜風には既に湿り気が混じり始めていた。新しい元号の下で、新しい帝の下で、都は静かに形を変えつつあった。その変化は、颯の書く字の一画ごとに、確かに刻まれていた。
窓の外で、遠くの犬が一度だけ吠え、それから静かになった。天道の衆と呼ばれる者たちも、今頃、どこかの山の麓で、火を囲んで祈っているのだろうか。律令の火と、彼らの火と。二つの火は、同じ国の夜を照らしていた。
市場の裏手の木札のことも、颯は思い出していた。あの木札は、名乗らぬ祈りだった。誰がいつ彫ったのかも分からぬ、名もなき人の祈り。天道衆のような名を持った祈りよりも、あの名もなき木札のほうが、この国の底を長く支えるのかもしれない、と颯はふと思った。名乗らぬ力と、名乗る力。両方の間に立って書く者が、書記なのだろう。




