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第017話(716年)八分目の器

西暦七一六年 平城京


霊亀二年の夏、書記部屋には、例年になく多くの書付が積み上がっていた。新帝の治世に入って一年半、政の組み直しが静かに進んでおり、役所は律令の条文を巡る細かな諮問で朝から夜まで騒がしかった。


颯は三十三歳になっていた。かつて藤原京で初めて筆を握った十七の年から、ちょうど半分ほどの歳月が経っていた。書記としての技は、以前とは比べ物にならぬほど身についていた。だが、仕事は以前より確かに重くなっていた。


朝、兆が颯の席の前に立った。


「お前に、一つ頼みがある。諸国から届く貢納の記録と、国別の人口増減の覚え書、それから風土記の写しの整理――この三つを、今月中に束ねてほしい」


「三つ、でございますか」


「三つだ。いずれも急ぎではないが、後回しにすれば、後で他の仕事と重なって首が回らなくなる」


颯は少し黙って、積まれた書付の山を見た。今すでに、自分の机の上には、写しかけの詔が二本、地方からの申し出の書が三通、兆から頼まれた写経の下書きがある。その上に、さらに三つ。


「――承知しました」


そう答えて、兆は満足げに頷き、自分の席に戻った。颯は筆を握り直した。


その日、颯は朝から夜まで、ほとんど席を立たずに筆を動かし続けた。昼の粥を抜き、水を少し口に含んだだけで、夕刻まで走り続けた。夕刻に気づいた時には、指先の感覚が鈍く、肩の付け根に重い痛みがあった。書きかけの写しを見ると、初めのほうの字は整っていたが、後半に進むにつれて、一画一画が微妙に細り、筆の勢いが落ちていた。


字が、嘘をつけない。腕の疲れは、そのまま紙の上に出る。


「今日の自分の字は、信頼ならぬ」


颯はそう呟き、後半を明日、書き直すことに決めて、筆を置いた。


*  *  *


その夜、颯は咲耶の薬屋に立ち寄った。疲れた顔を隠そうとしたが、咲耶には見抜かれていた。


「お茶を、少し濃いめに淹れましょう」


咲耶がそう言って、茶碗を差し出した。湯気の立つ碗を両手で受けると、掌にじんわりと温かさが広がった。


「満杯に注ぐのは、今日のあなたには重すぎます」


咲耶は静かに笑った。


「祖父はよく申しておりました。薬も茶も、器の八分目が一番よい。満杯は溢れる。半分は足りない。八分目が、ちょうど腹の中に収まる量なのです」


颯は茶を一口飲んだ。思わず、深く息を吐いた。


「この考え方は、薬だけのことか」


「いえ、祖父は何にでも当てはめておりました。仕事も、歩く距離も、人に話す言葉も。全て八分目でよい、と」


颯は茶碗を膝の上に置いて、しばらく考えた。八分目の器。その言葉が、頭の中で何度も回った。自分が今、引き受けている仕事の量は、明らかに器を越えていた。満杯どころか、縁から溢れ出そうになっていた。字が乱れたのは、その兆しだった。


「鹿皇さまは、なぜ薬師の仕事で、八分目の話を始めたのだ」


「薬も過ぎれば毒になる。薬師が自分を過信して多く盛れば、患う人が倒れる。自分の器が何合なのかを、毎朝、自分で測る。そこから、あふれぬだけを注ぐ。これが祖父の処方の始まりでございました」


薬も過ぎれば毒。颯は、その言葉を反芻した。律令の条文もまた、過ぎれば毒になる。一つの条文に過剰な責任を背負わせれば、守る者の手が必ずどこかで破れる。そのことを、兆もまた、違う言葉でいつも説いていた。


「――その考え方を、明日から試してみようと思う」


颯がそう言うと、咲耶は頷いた。


「試してみてくださいませ。溢れる前に、一度、器を空ける勇気がいります」


*  *  *


翌朝、颯は書記部屋に入ると、真っ先に兆のところへ行った。


「昨日の三つの仕事のうち、風土記の写しの整理は、来月に回してもよろしいでしょうか」


兆は少し驚いたように颯を見上げた。颯がこうした願い出をするのは、珍しかった。


「――なぜ、そう思う」


「今の自分の手では、三つを同時に進めれば、どれも中途半端になります。貢納の記録と人口増減の覚え書は急ぎの色合いが強いので、先に片付けたい。風土記は、来月でも間に合うと判断いたしました」


兆はしばらく颯の顔を見ていた。それから、ふっと短く笑った。


「お前が、そんなことを言うようになったか」


「――お叱りでしょうか」


「いや。むしろ、褒めておる。以前のお前なら、三つとも引き受けて、夜なべで片付けようとしただろう。だが、それでは、お前の字が落ちる。字が落ちれば、書記としてのお前の値打ちも落ちる」


兆は帳面を開いて、風土記の写しの項に「来月」と書き込んだ。


「八分目でよい。余白のある仕事のほうが、結局は長く続く」


「いつからそう考えておいでに」


兆は少し間を置いて、答えた。


「若い頃、満杯で仕事をして、倒れたことがある。半年、筆が持てなかった。その間に、いろいろ考えた。器の容量を毎朝計らぬ者は、いつか必ず溢れる、と」


「半年、筆が」


「倒れて初めて、書記の仕事の続け方を、本当に考えるようになった。お前のは、倒れる前に気づいただけ、余程よい」


颯は深く頷いた。兆の言葉が、いつもより重く響いた。咲耶の祖父の言葉が、書記部屋の中にも染み渡る瞬間だった。


*  *  *


その日の昼過ぎ、フミが颯の席に来て、小声で尋ねた。


「颯さまは、今朝、兆さまに仕事を一つお返しになったと伺いました」


「返したのではない。来月にずらしたのだ」


「その、ずらす勇気というのは、どこから出てくるのでしょう。私は、頼まれるとつい全部引き受けてしまい、夜中まで残ることがございます」


フミの顔には、疲れが薄く滲んでいた。書記部屋では、若い者ほど引き受け過ぎて、しばしば体を壊すことがあった。颯も数年前は同じ過ちをしていた。


「フミ、茶碗を思い浮かべてみろ」


「茶碗、でございますか」


「茶碗に湯を注ぐ時、満杯まで注ぐと、運ぶ時に必ず溢れる。だから、八分目で止めるのだ。仕事も同じだ。自分の器の八分目を知っておけ。それを越える量は、他人のものだ。他人のものを無理に引き受ければ、必ずどこかで零す」


フミは少しの間、考え込むような顔をしていた。それから、ゆっくりと頷いた。


「八分目――覚えておきます」


「それから、もう一つ」


颯は、自分がたった今気づいたことを、口に出した。


「その八分目は、日によって変わる。昨日の八分目と、今日の八分目は、違うかもしれない。毎朝、自分の器を見直してから、仕事を引き受けるのがよい」


フミは頷きながら、手元の帳面の端に、何か書きつけた。後で覗き見ると、「八分目、毎日違う」と小さな字で記されていた。それを見て、颯は少し嬉しくなった。咲耶の祖父の言葉が、鹿皇から咲耶へ、咲耶から颯へ、そして今、颯からフミへと手渡されていく。小さな手渡しの連鎖が、書記部屋の中に、確かに走り始めていた。


数日が経った頃、フミが自分から兆のところへ行き、自分の手元の仕事のうち一つを、他の書記に振り替えてほしいと願い出た、という話が颯の耳に入った。兆は驚きもせず、承知し、振り替えを手配した。フミは、それ以来、夜遅くまで残ることが目に見えて減った。席の上の帳面の字は、以前より柔らかく、整うようになった。


数日後の夕方、書記部屋の別の若い書記、篠が颯に声をかけてきた。篠は颯より二つ下で、藤原京からの付き合いだった。


「颯、お前、フミに変な教えを入れておるな」


「変、か」


「よい変だ。フミだけでなく、私も、この頃、仕事を引き受ける時に、少し足を止めて考えるようになった。お前の八分目の話は、書記部屋の端から端へ、気づいたら広がっておる」


颯は少し驚いて、篠の顔を見た。篠は笑って、席に戻った。手渡しは、自分が見えぬところでも、勝手に広がっていた。咲耶の祖父から始まった小さな作法が、まさか奈良の書記部屋の中で、こんなふうに根を張るとは、鹿皇も想像しなかっただろう。


八分目の器は、一人の仕事術ではなく、書記部屋という一つの器の作法に、少しずつ変わりつつあった。器が器を育てる。兆の言う「育てる法」の、小さな一例だった。


*  *  *


夕方、颯は長屋王の邸宅に出向き、用件を済ませた。辞する間際、王が颯を呼び止めた。


「お前の字は、近頃、少し変わったな」


「変わりましたでしょうか」


「以前より、余りがある。満杯に書くのではなく、縁を残している。それが、読む者にとっては、ゆとりを感じさせる字になっている」


颯は頭を下げた。


「咲耶の祖父の言葉を、借りております」


「渡来の薬師の、か」


「はい。八分目の器、という考え方でございます」


王は面白そうに頷いた。


「――よい言葉だ。律令の条文もそうあるべきだ。隙なく詰め込めば、必ずどこかで破れる。余白を残すからこそ、時代が変わっても、文字はそのまま残る」


「王も、お仕事を八分目に」


「――難しいな」


王は苦笑した。


「政の上にある者は、自分の器を測る暇もない。だが、お前のような書記が余白を残してくれるおかげで、余は息を吐く場所が得られる。お前の字が、余の八分目を助けてくれておる、ということだ」


王の言葉を、颯は深く受け止めた。八分目は、一人のものではない。誰かが縁を残すことで、別の誰かの縁も残る。小さな余白が、繋がっていって、律令の国の形が、少しずつ柔らかく整っていく。


*  *  *


夜、颯は「私の記録」の帳面を開いた。


 霊亀二年夏、仕事の量、明らかに増ゆ。風土記の写しの整理を来月に回す。生まれて初めての「返上」なり。

 咲耶曰く、八分目の器。鹿皇の言葉。薬も過ぎれば毒。我が書記の仕事も、これに倣う。

 兆、若き日に倒れて半年筆を持てず、と。倒れる前に気づくは幸いと申す。

 フミにも同じを伝えたり。兆にひとつ返上したと聞く。この教え、世代を超えて広がらば、書記部屋は長く静かに回らん。

 長屋王、余白残す字が余の助けなりと。八分目は、繋がっていく。


筆を置いた。灯明の下で、帳面の紙が柔らかく浮かび上がった。八分目。それは単に仕事の量の話ではなかった。自分の体の状態、心の状態、一日の流れ――それらを自分で確かめてから、筆を握る、という作法のことだった。


窓の外で、夜の虫が鳴いていた。遠く、造営の現場で働く人夫たちも、今頃、同じ月を見上げているだろう。イワオは今も、石に一礼をしてから一日を始めているだろうか。あの男の作法もまた、八分目の器の変奏だったのかもしれない、と颯は思った。


律令の書記として生きていく上で、これからは、満杯ではなく八分目を自分の標とする。そう静かに決めた夜だった。


そして颯は気づいていた。八分目とは、実は「残りの二分」のことなのだった。残した二分の余白に、誰かの八分目が入ってくる。重ね合って初めて、仕事は満ちる。一人で満杯にする仕事は、長くは続かない。兆の半年が、それを教えていた。


灯明の炎が、ふっと一度、揺れた。颯は筆を硯の上に戻し、腕の力を緩めて、静かに息を吐いた。


翌朝、書記部屋に入ると、フミが既に席に着いていた。机の上には、茶碗が一つ、置かれていた。湯気が薄く立っていた。湯は、碗の底から八分目のところで、きっちり止まっていた。


「お早う。颯さまへ、と」


フミは少し照れたように言った。


「今朝、淹れてまいりました。今日の颯さまの器は、どれほどでございましょう」


颯は茶碗を両手で受け取った。掌に、朝の温かさが伝わった。昨日の満杯の時には感じられなかった、ちょうどよい重みが、そこにあった。


「――今日は、八分目で、ちょうどよい」


フミは笑って、自分の席に戻った。颯はその日、茶を一口飲んでから、筆を取った。最初の一画が、驚くほど素直に紙の上を走った。器の八分目は、自分の中だけの作法ではなかった。器は、他人の手から、毎朝、差し出されることもあるのだった。

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