表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/20

第018話(717年)黒き柱

霊亀三年の冬の終わり、改元の詔が下った。新しい元号は「養老」と定められた。美濃の国から、老いた父が若返るという霊泉の噂が届き、帝がそこに御幸された折、確かに水の清らかさを見届けられたという。その瑞祥にあやかって、国の時は「養老」の二字を戴くことになった。


書記部屋では、改元の詔の写しで、また数日、夜遅くまで灯明が燃え続けた。二年前、霊亀への改元で同じ仕事をしたばかりである。国の時の名が、こうも短い間に変わるのは、珍しいことだった。


「国の上の方に、何か落ち着かぬものがあるのでしょうか」


フミがふと呟いた。


「落ち着かぬというより、何かを求めておられる、ということかもしれん」


兆が答えた。


「瑞祥を求めて改元をする。それは、時が変わるのを待つのではなく、自分から時を変えにゆく動きだ。帝も臣も、どこかで焦りを感じ始めている」


颯は、兆の言葉を筆を動かしながら聞いていた。焦りの匂いは、詔の文面には出ない。だが、書記部屋の空気の中には、確かに潜んでいた。


元明上皇――譲位された先代の帝は、近頃ますます御身のすぐれぬ日が続いておられた。元正帝は若いが、御経験は浅い。政の上の方には、世代の継ぎ目の不安があった。養老の霊泉は、その不安に向かって差し出された、一つの静かな祈りでもあったのかもしれない、と颯は思った。老いた者の身を、若い水で湿らせる。そういう願いの込められた元号だった。


---


その冬の終わり、南の国々からの報告書の中に、妙な記述が混じり始めた。


「筑紫の国、村人ら発熱、数日にして物言わぬようになる者あり。里の者ども、これを『黒き息の病』と呼ぶ」


「豊後の国、山麓の里にて、家内数人相次いで倒る。咳多く、熱下がらず」


一つ一つは、遠い国の小さな話にすぎなかった。だが、似た記述がいくつも届くうちに、颯の胸に、以前感じた冷たさが戻ってきた。和銅四年の咲耶の薬屋で見た「黒き澱み」と、出雲の風土記の「うらみの息」と、長屋の男の胸に現れた「黒き息」――それらと同じ気配が、遠い南の国々からも漂い始めていた。


颯は写しの束の一部を選り分けて、密かに控えを取った。兆には黙って、である。兆が気づいていないはずはなかったが、何も言わなかった。それが兆の黙認なのか、見落としなのか、颯には見分けがつかなかった。


二、三日後、兆が颯の机の前を通りすがりに、短く呟いた。


「南の話、お前がまとめておくなら、勝手に束ねよ。役所の上には、今はまだ上げるな。騒ぎになれば、かえって備えが遅れる」


颯は筆を止めず、小さく首を縦に振った。兆は気づいていた。気づいた上で、颯に任せたのだった。書記部屋の中で、公の書付の外に、「もう一つの覚え」が育ち始めようとしていた。


夜、颯は咲耶の薬屋を訪ねた。ハヤテも呼んだ。三人で、控えの束を灯明の下に広げた。


「――南の国で、疫が動き始めている、ということでしょうか」


咲耶が静かに言った。


「まだ、ほんの小さな動きだ。だが、広がる予兆には見える」


颯が答えた。


ハヤテは、記述を読み終えると、しばらく目を閉じていた。それから、低い声で言った。


「爺が、昔、似たような話をしていた。大陸の南から、船で渡ってくる病がある、と。海を越えて、港に上がり、そこから国の中に入る。それが、奈良の都まで届くには、何年もかかる。だが、一度届くと、都の中では、一気に広がる」


咲耶が無言で応じた。


「祖父も、船で病が来る、と申しておりました。新羅からも、唐からも、見たことのない病が時折来ると。鹿皇の家には、それらに効くかもしれぬ薬草の記録が残されております」


「その薬草は、今、手に入るのか」


「一部は。ですが、多くは山の深い所に生える草で、都の市場には出回りません。集めるには、時間がかかります」


颯は黙って肯いた。病がまだ届いていない今のうちに、備えをしておかねばならない。それは律令の役所の仕事ではなかった。役所は、疫が実際に起きてから、ようやく動き始める。だが、その時には、もう遅い。


「二月ほどの間に、最初の束だけでも揃えたい」


咲耶は静かに言った。


「祖父の書きつけを、明日から読み直します。知人の薬師にも、手紙を書きます。鹿皇の名を出せば、動いてくれる者は、今も何人か残っています」


颯は小さく首を縦に振り、咲耶の手を見た。細いが、いつも何かの葉や根に触れている手だった。その手が、今から先の都の疫に向かおうとしていた。


---


数日後、颯は、都の北の造営地の一つで、奇妙なものが現れたという報告を目にした。


まだ建設途中の倉の土台の上に、一本の黒い柱のようなものが立っていた、という書付が役所に上がってきたのである。人夫たちが朝に現場に来ると、誰も建てた覚えのない柱が、土台の真ん中に立っていたという。高さは人の背より少し高く、太さは両腕で抱えるほど。真っ黒で、材質は見分けがつかず、触れると指先に、べとつく冷たさが残ったという。


「妙な報告でございましょう」


その書付を回してきた役人が、半ば笑いながら颯に言った。


「夜のうちに、誰かの悪戯でございましょう。どこかの里の者が、都に紛れ込んで置いていったに違いありません」


「――現物は」


「すでに崩されました。役人が槌で打つと、脆く、炭のように崩れたそうです」


颯は短く相槌を打ちながら、その書付を控えに取った。炭のように崩れる黒い柱。報告書の末尾には、「崩された跡の土、数日にして枯れる」と記されていた。


その日の夕方、颯は造営地に足を運んだ。人夫たちは既に帰り、現場は静まり返っていた。まだ柱の立たぬ倉の土台が、西日を受けてほのかに朱に染まっていた。目的の場所に近づくと、自分の足音だけが、やけに大きく響いた。


土台の上を見ると、確かに、円く黒ずんだ跡が残っていた。その周りの土は、他の土より色が白っぽく、乾いて見えた。しゃがんで触れてみると、指先で土が砂のように崩れた。本物の土というより、一度水気を抜かれた、灰に近い何かだった。


匂いは、ない。いや、匂いがないこと自体が、どこか妙だった。普通の土には、必ず湿った匂いがあるはずだった。


颯は、その土を少量、懐の紙に包んで持ち帰った。帰り道、日は既に山の向こうに隠れ、朱雀大路にも薄い闇が降りていた。懐の紙の重さは、土一つまみ分のはずなのに、歩くたびに、それ以上の重みを感じた。


---


夜、薬屋で咲耶とハヤテに見せた。


咲耶は土に指を近づけたが、触れる前に手を引っ込めた。


「――これは」


「何か、分かるか」


「匂いが、あります。普通の土の匂いではなく、鉄と骨の混じったような」


ハヤテが、土の包みの上に手をかざした。しばらく目を閉じ、それからゆっくりと息を吐いた。


「柱、というより、何かが抜けた跡、だ」


「抜けた跡、とは」


「分からぬ。だが、本物の柱ではないのだろう。地の下から、何かが一度、顔を出して、また引っ込んだ。その時に、黒い皮だけが残った。そんな感じがする」


颯は、ハヤテの言葉に、背筋が冷たくなった。地の下から、何かが。


「出雲の風土記には、『うらみの息』は、土地に染みると書かれていた。今度は、土地から立ち上がった、ということか」


咲耶が小声で答えた。


「染みたものは、時に、形をとって現れることがあります。祖父は、それを『こぼれ』と呼んでおりました。土地が抱えきれなくなって、こぼれ出すのです」


「それが、疫の先触れだと」


「――そうかもしれません」


三人はしばらく黙った。灯明の炎が、土間の壁に三人の影を長く落としていた。


「――場所を、覚えておかねばならぬ」


颯が言った。


「黒い柱が立った所、南の国で黒き息が出た里。点を打って、後で繋いでみれば、どこから何が近づいてきているかが、見えるかもしれぬ」


ハヤテが肯いた。


「それは、爺もやっていた。山の病の出る村を、地図の上に印をつけるのだ。印が増えるほど、病の道が見えてくる」


咲耶も同じように首を縦に振った。


「薬師の書きつけにも、そういう地図がございます。私も、新しい一枚を、今夜から書き始めましょう」


三人は、その夜、一つの約束を交わした。各自が、自分の場所から、点を拾う。書記の颯は役所の書付から、薬師の咲耶は患う人の話から、ハヤテは爺の古い知り合いの噂から。三つの点を、半年に一度、重ねてみる。


それは、律令の外にある、もう一つの帳面の始まりだった。


---


数日後、颯は兆に、一つの願いを出した。


「諸国の疫の兆しについて、書付を一括して記録する仕組みを、整えたく存じます」


兆は筆を止めて、颯の顔を見た。


「――役所の正規の仕事としてか、それとも」


「役所の仕事として、でございます。ただし、慎ましく。疫の兆しをまとめる係を、書記部屋の片隅に、ひっそりと置く。上には、諸国の風土記の付録として報告させてくだされば」


兆はしばらく考えてから、肯いた。


「やってみよ。お前の八分目の内に収まるなら、だ」


「収まるようにいたします」


兆はそれ以上、何も言わなかった。だが、帰り際に、ぽつりと呟いた。


「法は、疫には追いつかぬものだ。それを補うのが、書記の目かもしれん」


長屋王にも、颯は黒い柱の一件を、短く伝えた。王は眉を寄せ、しばらく黙った。


「――土地の『こぼれ』、か」


王は、咲耶が使った言葉を、颯から聞いて、そのまま口に出した。


「国の上が焦り、下が病む。ここ数年、よく似た形が続いておる。瑞祥と疫は、同じ国の、反対の顔だ。覚えておけ、颯。瑞祥の多い年は、後の疫が重いことがある」


王の言葉は、呪いのようにも、警告のようにも聞こえた。


「王は、こうしたことを、どこでお学びに」


「唐の古書にも、そう記されておる。中華の歴代、改元の多い時代の直後には、必ず大きな病が来ている。人の祈りが上に届いても、地の下にこぼれた水は、どこかで必ず溢れる。どれほど霊泉の瑞祥を重ねても、大地の記憶までは拭えぬ」


王は、傍らの書棚から一冊の巻物を取り出した。唐から渡来した古い医書の写しだった。


「これを、しばらくお前に預ける。咲耶と、その仲間にも読ませよ。鹿皇の書きつけと、唐の書が重なる所に、備えの道が見えるかもしれん」


颯は、巻物を両手で受け取った。王は、颯の帳面を既に、公の備えの一部として扱い始めていた。律令の外にあった小さな覚えが、律令の内側へ、静かに引き寄せられつつあった。


---


夜、颯は「私の記録」の帳面を広げた。


養老元年冬、改元なる。南の国々に、黒き息の病ありと報告あり。都の造営地に、黒き柱立ち、崩されたる跡、土白く枯る。

咲耶とハヤテ曰く、土地からのこぼれと。出雲の「うらみの息」と同じ類なるや。

兆、密かに束ねよと申す。長屋王、瑞祥の多き年は後の疫重しと。

三人で点を打ち始む。書記は書付から、薬師は患う人から、ハヤテは古き知り合いから。半年に一度、重ねん。疫は来る。まだ来ぬ。だが、遠からず来る。備えを始む。


筆を置き、灯明の炎を見つめた。黒い柱の姿が、目の奥に残っていた。それは幻だったのか、現だったのか、もはや判然としなかった。だが、土の白さだけは、確かに目にした。


窓の外で、冬の風が北から吹き込んでいた。養老という元号は、人を若返らせる泉に因んでいた。だが、同じ国の中で、別の何かが、老いて崩れ始めていた。その二つの流れが、これからどう交わるのか、颯にはまだ見えなかった。


ただ、書く、ということ。それだけが、自分にできる備えだった。黒い柱のことも、南の国の報告のことも、全て書き留めておく。書かれたものは残る。残れば、いつか誰かが読む。読めば、備えになる。


それが、書記の、律令の外にあるもう一つの仕事なのかもしれない、と颯は思った。


翌朝、颯は王から預かった唐の医書を、咲耶のもとへ運んだ。咲耶は巻物を両手で受け取り、しばらく黙ってから、目を潤ませて言った。


「祖父が、最後までお会いしたがっていた本かもしれません」


「どういうことだ」


「鹿皇は、新羅から渡ってきた時、唐の医書を一冊、持ち出せなかったと、いつも悔やんでおりました。もし当時の自分に、この巻物があれば、救えた人が幾人かいた、と。孫の代になって、それが、こうして、書記の颯さんの手から届くとは」


咲耶は、巻物をそっと頬に当てた。細い指が、巻物の縁を、静かに撫でた。祖父が持てなかった本を、孫が今、抱えている。その一本の中に、唐の医師たちの数百年の営みと、鹿皇の沈黙の悔いと、これから救われるであろう未だ顔を知らぬ人々とが、一緒に畳まれていた。


「王のお慈しみに、深く御礼申し上げます、と、颯さんからお伝え願えますでしょうか」


「伝える。必ず、伝える」


窓の外で、冬の終わりの薄日が差していた。黒き柱の立った夜から始まった小さな備えが、少しずつ、大きな流れと繋がりつつあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ