第019話(718年)察するひと
養老二年の春、藤原不比等が中心となって、律令の改訂の仕事が本格的に始まった。大宝律令が施行されてから、十七年が経っていた。その間に、都は藤原京から平城京に移り、貨幣が鋳造され、古事記と風土記が編まれた。律令の条文の中には、時代の流れに合わなくなった部分が、少なからずあった。
「養老律令」という仮の名で呼ばれるその仕事は、省ごとに振り分けられた。書記部屋にも、古い条文と新しい草案を見比べる写しの仕事が、次々と回ってきた。颯は、その中でも戸令と田令の写しを任された。人と土地――律令の骨格をなす二つの令である。
「お前に、これを頼む」
兆が書付の束を置いた時の顔は、いつもより静かだった。
「戸令と田令は、律令の土台だ。ここが曲がれば、全てが曲がる。だからこそ、変えるのも難しい。新しい草案を、原典と照らし合わせて、違いを一つ一つ書き出してほしい」
「はい」
「急がずに、だ。急げば、必ず見落とす」
颯は頷いて、束を受け取った。八分目の器の教えを、また一つ、試される仕事だった。
兆は少し間を置いて、続けた。
「この仕事は、不比等さまの手元に届く。余計な口は挟むな。違いの事実だけを、淡々と並べるのだ。判断するのは、不比等さまと、その周りの方々の仕事だ」
「承知しております」
「だが、お前の目は、使え。目を閉じて並べるのと、目を開いて並べるのは、別物だ」
矛盾するような言葉だったが、颯には意味が分かった。口は閉じ、目は開けて書く。書記に求められるのは、そういう静かな目だった。
* * *
戸令は、人の名と戸を司る令である。誰がどこに住み、どの戸に属するか、どの親族の下にあるか――これを帳面に記し、国が税と兵を取り出す基となる。田令は、その人に田を与える法である。口分田と呼ばれる、身分に応じて与えられる田の大きさが、細かく定められていた。
古い条文を一つ、新しい草案と並べて読む。すると、ほとんど同じに見えるが、微妙に言葉が違う所がある。例えば、「良人」と「賎人」の扱いに関する条項で、古い条文では両者の間の婚姻を禁ずる文面だったものが、新しい草案では「両者の産子は賎に従う」という形に変わっていた。禁止から、生まれた子の帰属へ。書き方が変わることで、律令の性格も、わずかに変わっていた。
颯は、その違いを、帳面に一つ一つ書き写した。この作業は、ただの書写ではなかった。言葉の一つ一つの重さを、改めて量る作業だった。書記としての十数年で、これほど言葉と向き合った時期は、他になかった。
田令の方にも、小さな違いが幾つもあった。口分田の班給の年限を、古い条文では六年ごとに改めることになっていたが、新しい草案では「事情あらば延べ得べし」という一行が加わっていた。余白を加える方向の改訂だった。兆の言葉を借りれば、「隙なく詰め込めば破れる」の教えが、条文の中に初めて明文化されつつあった。
颯は、その一行の前で、しばらく筆を止めた。この一行を書き加えた者は、誰だったのか。不比等か。長屋王か。あるいは、書記部屋のもっと古い誰かが、幾年も前に提案していたものが、今、ようやく通ったのか。一行の背後には、見えぬ人々の長い議論の積み重ねがあった。
* * *
ある日の夕方、フミが颯の席にやってきて、小さな声で尋ねた。
「颯さまは、この頃、兆さまと同じ顔をなさっております」
「どういう顔だ」
「読んでいるときの顔、でございます。ただ目が動いているのではなく、文字の先の、書かれていないものを見ていらっしゃるような」
颯は、思わず筆を止めた。フミの観察は、時に、鋭すぎるほどだった。
「――気づいていたか」
「最近、ようやく、少しずつ分かってまいりました。書記には二種類あります。文字を写す者と、文字の先を察する者。後者に、私もなりたいと思っております」
フミの目は、真剣だった。颯は筆を置いて、少し考えた。
「察するというのは、教えられて身につくものではないかもしれぬ」
「では、どうすれば」
「毎日、同じ文字を、違う気持ちで読む。そうすると、ある日、ふと、違うものが見えてくる。そういう類のものだろう」
颯は、自分の言葉が、兆から受け継いだものに似ていることに気づいた。兆もまた、こうして、若い頃の颯に、同じようなことを教えてくれていた。手渡しは、言葉の形でも行われる。
「それから、フミ」
「はい」
「察するというのは、一人では成り立たぬ。自分の察したものを、誰かに話す。話した相手が、別のものを察する。その重なりの中で、初めて、確かな察しが残る」
フミは頷いて、席に戻った。その背中を見送りながら、颯は自分自身に、今の言葉を聞かせた。察するというのは、一人では成り立たぬ。だから自分も、兆や咲耶やハヤテや長屋王と、話を交わしながら、少しずつ察してきたのだった。
後日、フミは颯のところへ、一冊の薄い帳面を持ってきた。「察しの覚え」と表に書かれていた。読んでみると、条文の違いに対するフミ自身の小さな気づきが、几帳面な字で並んでいた。「戸令○条、『家長』の語の用い方、古きは『戸主』と近く、新しきは『家長』と別置。家の単位、血の繋がりで見直されつつあるか」。驚くほど、細かい。
「これを、兆さまに見せてもよろしいでしょうか」
フミが尋ねた。颯は頷いた。
「見せよ。必ず、兆は喜ぶ」
兆は翌朝、フミの帳面を閉じた時、短く頷いた。「いい目だ」とだけ言ったが、その「いい」の一文字には、長年の書記の重みが乗っていた。
その夕、兆が颯の席に寄ってきて、囁くように言った。
「お前は、あの若い娘に、言葉を渡し過ぎるな」
「――渡し過ぎる、でございますか」
「察するというのは、教えられるものではない、と先日、お前自身が言っていたそうではないか。フミは、もう、お前から受け取るだけの時期を過ぎている。これからは、自分で転ぶ番だ」
颯は、兆の言葉に、少し身を固くした。
「私は、気づいたことをそのまま話しているだけでございます」
「そうだ。だからこそ、渡し過ぎる。お前の気づきが、あの娘の気づきの場所を、先に埋めてしまう。時には、黙っていて、フミが自分で躓くのを見る。その躓きが、あの娘の察しを本物にする」
颯は深く頷いた。手渡しにも、渡し方がある。早く渡すほど、受け取る側の手が育たぬこともある。兆は、颯自身にも、かつて同じ間を置いてくれていたのだろう、と今になって気づいた。自分が悩んで、転んで、ようやく分かった時にだけ、兆は一言だけを添えた。そのやり方を、自分はまだ身につけていなかった。
「――気をつけます」
「よい。お前のような察しを持つ者が、次の察しを育てる時には、少しだけ手を遅くする。それが、書記部屋の、古い作法だ」
* * *
その夜、颯は薬屋に寄った。咲耶は店の奥で、薬草を乾かしていた。干した蓬の葉が、軒先で風に揺れていた。
「忙しい日が続いているな」
「ええ。南の国からの病の話を聞いて、備えに走り回っております。鹿皇の記録にある薬草を、少しずつ集めております」
「無理をするなよ。八分目で」
咲耶は笑って頷いた。
「颯さんが、私に教えてくださった言葉を、私に返してくださる」
颯も笑った。手渡しは、こうして往復する。
「律令の仕事で、気づいたことがある」
颯は少し真面目な声に戻った。
「言葉は、一つの形に決められると、その形の通りに世界を動かし始める。だから、言葉を変えるということは、世界を変えるということだ。律令の条文一つ変えるのに、役人たちが慎重になるのは、そのせいだ」
「薬も同じかもしれません」
咲耶が静かに言った。
「一つの処方を変えれば、人の体の中で起こることが変わる。祖父はよく、『薬は言葉と同じだ』と申しておりました」
颯は頷いた。律令と薬。違う場所にある二つのものが、実はとても似ていた。言葉と処方。形に定めれば、動き出す。察する者が、その動きの先を見る。
咲耶は手を止めて、軒先の蓬を見上げた。
「ところで、南の病の点の地図、少しずつ埋まってまいりました」
「そうか」
「筑紫、豊後、それから肥後。三点が、南から順に、北に寄ってきております。船から上がった所を中心に、少しずつ広がる形。祖父の昔の地図と、動き方が同じでございます」
颯は背筋が冷たくなった。点が、線になり始めていた。黒き柱の立った都の北にはまだ届いていない。だが、届くのは時間の問題だった。察するとは、こういう点と線を読む目でもあった。
* * *
数日後、颯は長屋王の邸宅に呼ばれた。王は、颯が今取り組んでいる戸令と田令の写しのことを知っていた。
「お前の帳面を、少し見せてほしい」
颯が差し出すと、王はゆっくりと目を通した。時折、眉を寄せ、時折、頷く。読み終えた時、王は静かに言った。
「お前は、ただ写しているのではない。察しているな」
颯は頭を下げた。
「恐れ多いことでございます」
「良人と賎人の間の子の帰属について、お前は『古くは禁、今は帰属』と書いている。これは、ただの違いの記述ではなく、律令の思想の変化を指摘している。誰が読んでも、そう読み取れるとは限らぬ」
王は帳面を閉じた。
「お前のような書記が、この律令の改訂に関わっているということを、余は心強く思う。文字は、書く者の目を映す。お前の目は、少し特別だ」
「私はただ、教えられた通りに、並べているだけでございます」
「並べ方の中に、心がある。並べ方が違えば、読む者の理解が違う。その理解が、数十年後の国の形を作る」
王は、一度、颯の目をまっすぐに見た。
「忘れるな。お前のような目を持つ者が、律令を守るのだ。法の条文ではなく、法の心を、守る。それが、これからの国に必要な仕事だ」
「――守る、と申されますのは」
王は少し間を置き、自分の膝の上に目を落として言った。
「法は、書かれた後は、勝手に歩き出す。書いた者の意図から離れて、使う者の都合で捻じ曲げられることもある。捻じ曲がるその瞬間を、察する者が見ていなければ、法は本来の姿を失っていく。察する者が、法の背中を見守っているから、法は遠くまで歩ける」
颯は深く頭を下げた。王の言葉は、これまで兆や咲耶やハヤテから受け取ってきた全ての手渡しと、静かに呼応していた。法の背中を見守る、という表現が、胸に刻まれた。
王は、最後に、もう一言だけ付け加えた。
「察しはよいが、それを一人で抱え込むな。書記の席の中に、若い察する目を育てておけ。余が政の場で言えぬことを、書記部屋が覚えておいてくれれば、この国はまだ大丈夫だ」
颯はフミの顔を思った。すでに、その種は蒔かれていた。
* * *
夜、颯は「私の記録」の帳面を開いた。
養老二年春、律令の改訂の仕事に入る。戸令、田令の写しを担当。条文の一文字を並べ替えるだけで、国の姿が変わることを知る。
フミに、察することの話をする。察するは一人では成り立たぬ。話し相手があってこそ、察しは確かとなる。
フミ自ら、「察しの覚え」を作り始める。兆、いい目だと。
咲耶、薬は言葉と同じと。南の疫の点、線になりつつあり。
長屋王、法の心を守る者たれと。察しを一人で抱えるなと。若き察する目を育てよと。
筆を置き、灯明の炎を見つめた。察する者。自分は、そう呼ばれてよい人間になりつつあるのだろうか。まだ、分からなかった。だが、察する、ということの意味は、以前より確かに感じられるようになっていた。
窓の外で、春の湿った風が吹いていた。南の国々からの疫の報告は、相変わらず少しずつ届いていた。だが、まだ都には届いていなかった。届かぬうちに、できることをしておく。それが、察する者の務めだった。
兆が、かつて言った。「書記の目が、法を補う」と。その目を、自分は少しずつ身につけつつあるのかもしれない。手渡されたものを、次の者に手渡せる日まで、まだ自分は書き続けねばならなかった。
そしてその「次の者」の一人は、もう隣の席に座っていた。フミの「察しの覚え」の薄い帳面が、これから何冊、何十冊と増えていくのだろう。増えた帳面の束が、いつか、別の時代の書記の机の上で、ほこりを払われて開かれる。そのときまで、自分たちは、察し続けるしかなかった。




