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第020話(720年)書き終える息

西暦七二〇年 平城京


養老四年の春から夏にかけて、都の空気はどこか張り詰めていた。長らく編纂の続いていた『日本書紀』が、ついに完成の段に入っていたのである。古事記が献じられてから八年、国の正史を唐風の紀年体でまとめるという大仕事が、舎人親王を総裁として、最後の写しに入っていた。


書記部屋には、書紀の最終段の写しが次々と回ってきた。颯は、巻の分担の一つを任されていた。持統天皇の御代から、自分たちの時代に近い部分を扱う巻だった。父が律令の編纂に関わっていた頃の記述が、そのまま史書の中に組み込まれていた。自分の父の仕事が、国の正史の一部になる――その実感が、筆を重くした。


「お前の父のことは、書紀には出てこないが、律令の記述の中には、父の汗が入っている」


兆が、ふと手を休めて言った。


「分かっております」


「そういうものだ。歴史というのは、誰かの名前で残るものではなく、名前の出ない者たちの手仕事の集まりだ。お前の仕事も、いつか、同じ形で残る」


颯は黙って頷いた。筆の先を、改めて整え直した。


書紀の文面の中に、父が関わった大宝律令の施行の記述があった。ほんの数行の、淡々とした記述だった。「詔して律令を頒つ」――たったそれだけ。だが、その数行の裏には、父たちが徹夜で写し続けた数百枚の条文、何度も練り直された文言、藤原京から持ち出された原本、そして持統上皇の崩御の夜の涙があった。書紀は、それらを全て、数行に畳み込んでいた。


「歴史は、畳む仕事、でもあるのでしょうか」


颯は呟くように言った。兆は少し笑った。


「畳み過ぎれば、何も見えなくなる。畳まねば、次の世代に運べぬ。その加減が、編む者の仕事だ。我らは、その畳み目の上を歩く者、だな」


*  *  *


五月末、書紀の最後の巻の写しが、舎人親王に献じられた。書記部屋の者たちは、いつも通りに一日を過ごしていたが、夕方、兆が一息ついて言った。


「終わったな」


「終わりましたか」


「終わった。これで、我々の国に、初めて『国の正史』が整う。これからは、『日本』という名と、この書紀の文面が、一つに結び合わされて、外にも内にも伝わる」


兆の目には、淡い満足があった。だが、その隣に、どこか遠い目をしているような気配もあった。颯は気づいた。兆は、父と同じ時代の律令の仕事を知っている。今回の書紀の編纂にも、年若い頃の記憶が、折り重なっていたのだろう。


「国の時は、これで一つ区切りがついた、ということでしょうか」


フミが尋ねた。


「区切り、とは少し違うかもしれん。書かれたものが残ると、その先の時代が、それに縛られ始める。縛られながら、また書き足していく。それが、正史を持つということだ」


颯は、兆の言葉を心に留めた。書かれたものが残ると、その先が縛られる。古事記は「見せる書」、書紀は「残す書」。そう区別した兆の昔の言葉を、颯は思い出した。残す書は、後の時代の道標になる。だが同時に、その道から外れることを、難しくもする。


「見せる書と残す書」


フミが、口の中でその言葉を繰り返した。


「古事記と日本書紀、二つ揃って、国の姿が立ち上がるのでございますね」


「そうだ。二本の柱だ。一本では立たぬ。二本で、初めて屋根が架かる」


兆は、少し目を細めた。老いが、その目元に、少しずつ差していた。


*  *  *


書紀が完成した同じ月に、もう一つの大きな事が起こった。


右大臣・藤原不比等が、病に倒れられた、という知らせが役所を駆け巡った。不比等は、大宝律令の編纂を主導し、現在進行中の養老律令の改訂も、自ら取り仕切っていた人物である。律令国家という器そのものを、長年にわたって育ててきた人だった。


病は重く、快方には向かわぬ、という内々の話が、役所の上の方から流れてきた。颯が書記部屋でそれを聞いた時、胸の奥が、すっと冷たくなった。


「――書紀が終わるのと、ほぼ同時に」


兆が呟いた。その顔は、いつもより険しかった。


「不比等さまが倒れられると、養老律令の改訂は、どうなるのでしょう」


フミが小声で尋ねた。


「止まる。しばらくは、止まる。施行まで、どれほどかかるか、分からぬ」


兆の答えは、淡々としていたが、底に諦めのような色があった。


颯は、自分が最近写し続けていた戸令と田令のことを思った。あの条文の一つ一つは、不比等の指示のもとで練り上げられていた。その指示を出す人が倒れたということは、条文が宙に浮くということだった。完成を見ぬまま、書きかけのまま、時代の中に置き去りにされる文字たち。


颯はその夜、机の引き出しから、戸令の草案の写しを取り出した。未だ朱の書き入れの入っていない、半分だけの条文。この紙束が、いつ日の目を見るのか、今は誰にも分からなかった。颯は、紙束を一度、丁寧に畳み直し、引き出しの奥にしまった。生き延びる紙にしてやりたかった。いつか、誰かがまた、この紙束の続きを書く日が来るまで。


*  *  *


八月、不比等が薨じられた。


訃報が届いた朝、書記部屋は、一時、筆の音が全く止まった。誰かが咳払いをし、誰かが硯を動かす音だけが、ぽつんと聞こえた。やがて兆が、静かに言った。


「今日は、いつも通りの仕事を続けよう。それが、あの方への、我々の手向けだ」


言葉は短かったが、その意味は深かった。書記部屋の者たちは、ゆっくりと筆を取り直した。颯も、硯に水を足し、一枚の紙を前に置いた。書きかけの戸令の写しだった。


書きながら、颯は、不比等の字を思い出していた。直接のお目通りは、数えるほどしかなかった。だが、律令の原典の草稿の中に、不比等直筆の書き入れがあるのを見たことがあった。細く、真っ直ぐな、迷いのない字だった。一文字一文字が、その人の生き様をそのまま映していた。


「あの字が、もう書き足されることはない」


颯はそう思った。書き足されぬまま、残された原典の上で、不比等の字は、これからも生き続ける。だが、それ以上、増えることはない。それが、書き終える、ということだった。


数日後、不比等の葬送の列が、都の南の大路を静かに進んだ。役所の窓から、颯とフミは、その列を見ていた。人々の白い衣の連なりが、遠く、朱雀大路の彼方へ伸びていった。兆は席を立たず、書記部屋で筆を動かしていた。見送るのは、見に行くよりも、机の上で一文字を書くこと――兆のその沈黙が、最も深い敬意のかたちであることを、颯は理解した。


フミが小声で言った。


「一人の大きな人が終わる時、国の一部も、一緒に終わるのでございますね」


「終わる、というよりは、渡される、だ」


颯は答えた。


「大きな人が持っていた荷を、幾人かで分けて担う。誰もあの方そのものにはなれぬが、分けて担うことはできる。そういう形で、あの方は、まだ国の中にいる」


フミは頷いた。書き終える息と、書き継ぐ手。その両方が、この日、一つの大きな音を立てて、静かに擦れ合っていた。


*  *  *


その夜、颯は咲耶とハヤテを薬屋に呼んだ。灯明の下で、三人は黙って座っていた。


「大きな人が、一人、逝かれた」


颯がそう言うと、咲耶が小声で答えた。


「律令国家というものを、私たち新羅系の渡来人の暮らしにまで、根づかせた人でございます。祖父も、生きていれば、悲しんだことでしょう」


ハヤテは、灯明の炎を見つめていた。


「こういう時には、都の空気が一枚、はがれるような感じがある。大きな人が亡くなると、その人の気配が、しばらく街の上に残る。しばらくすると、それも消えて、街は別の顔になる」


「別の顔、とは」


「――分からぬ。だが、違う顔になる。律令を作った人が、もういない時代。その時代が、いまから始まる」


三人はまた黙った。咲耶が、最後に、静かに言った。


「この半年、南の国の点が、また一つ増えました。不比等さまがご健在のうちに、疫への備えを上に届けようと思っておりましたが、間に合いませんでした」


「――今からでも、間に合わせねばならぬ」


颯は、そう答えた。不比等が倒れたことで、政の上は、少しの間、空白になる。その空白の間に、自分たちの小さな帳面が、何処かで声を拾ってもらえるのか。それを試すのが、これからの仕事になる。


*  *  *


数日後、颯は長屋王の邸宅に呼ばれた。王は、不比等の訃に対する表向きの礼はきちんと尽くされていたが、一人の時には、少し違う顔をしていた。


「右大臣がおられぬ、ということは、養老律令の改訂の責を、余が担うことになるやもしれぬ」


王は静かに言った。


「まだ、決まったことではない。だが、周りの声は、そう動き始めている」


颯は黙って聞いていた。王の口調には、責任を負うことへの覚悟と、その重さへのためらいと、両方が混じっていた。


「お前のような書記が、これからは、余にとって一層大事になる。察する目を持つ者、言葉の先を見る者。そういう者が、余の身の回りにいてくれねば、余はこの律令を守り切れぬ」


「私にできることがあれば、いつでも」


王は頷いた。


「頼む。だが、お前の八分目の器のことは、忘れるな。溢れる前に、余に、返上の一言を言える者でいてくれ。それが、余にとっての助けになる」


颯は、王が自分の教えを覚えていてくれたことに、心を動かされた。八分目の器。咲耶の祖父の言葉が、長屋王という大きな人の言葉の中にも、響いていた。


颯は、懐から一冊の薄い帳面を取り出した。


「王にお願いがございます」


「何だ」


「南の国々の疫の兆しをまとめた覚えでございます。役所の正規の書付とは別に、書記部屋の片隅で、私と咲耶とハヤテの三人で、点を打って参りました。不比等さまがご健在のうちに、上にお届けしたく思っておりましたが、間に合いませんでした。王にお預けしてよろしいでしょうか」


王は、帳面を受け取り、開いた。しばらく目を通して、ゆっくりと閉じた。


「――これは、国の宝になる。お前たちの、名もなき宝だ」


王は帳面を胸に当てた。


「余が預かる。時が来れば、余から、政の上に、静かに差し入れる。お前たちの名は、表には出さぬ。それでよいか」


「はい。それが、八分目でございます」


王は短く笑った。その笑いは、久しぶりの、温かい笑いだった。


*  *  *


その夜、颯は「私の記録」の帳面を開いた。


 養老四年、『日本書紀』完成す。国の正史、初めて形をなす。

 同じ月、藤原不比等薨ず。律令の大樹、一本倒る。養老律令の改訂、しばし止むと聞く。

 長屋王、余が責を担うやもと。疫の覚え、王にお預けす。国の宝と申された。名は出さぬ、それが八分目。

 書き終えるということ。書き足されぬまま残る字の重み。父の仕事も、鹿皇の処方も、不比等の条文も、全て書き終えてから、後の世に手渡される。

 私もまた、いつか書き終える息をつく日が来る。その時まで、書くことを止めぬ。


筆を置いた。灯明の炎が、小さく揺れた。窓の外では、初秋の風が吹いていた。まだ暑さの残る夜だったが、空気の中には、夏の終わりの匂いが混じり始めていた。


書紀が完成した夏に、律令の父が世を去った。偶然とは思えぬほど、時は整えられていた。古事記と書紀が書き終わり、律令の一つの時代が書き終わった。次の時代は、誰がどう書くのか。


颯は、自分の手の中の筆を見つめた。十七の年に初めて握った筆と、今、三十六の手にある筆。同じものではないが、受け継がれたものは確かにあった。父から、自分へ。兆から、自分へ。そして、やがては、自分からフミへ、あるいは、まだ名前を知らぬ次の書記へ。


手渡しは、止まらぬ。書き終える息と、書き始める息は、同じ一本の糸で結ばれている。そのことを、颯は、この夜、静かに、深く、知った。


遠くの方で、初秋の虫が鳴き始めていた。不比等を送ったばかりの都は、まだ静かだった。だがその静けさの底で、誰かがもう、次の一行を書き始めていた。颯自身も、もう一度、硯に水を足した。書き終えた息の後には、書き継ぐ息が来る。それが、書記の、この国の、終わらぬ作法だった。

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