第008話(707年)帝の死
慶雲四年の春。藤原京の朝廷には、どこか重い空気が漂っていた。文武天皇のご体調が優れぬ、との噂が、ひそかに役人たちの間に流れていた。帝はまだ二十五歳。若いご年齢である。だが、去年の秋頃から、表に出る機会が減っていた。
颯は二十四歳になっていた。書記部屋では、普段と変わらぬ仕事が続いていた。だが、文書の流れの中に、颯は微かな変化を感じていた。帝への上奏文の回答が、遅れ気味になっている。ご自身で筆を取られることも、減っているらしい。
兆が朝、書記部屋に入ってくると、低い声で言った。
「帝のご体調、思った以上に良くないのかもしれぬ」
「やはり、そう感じられますか」
「文書の流れが、最近おかしい。決裁が滞っているわけではないが、以前の勢いがない。これは、帝が御前で文書をお読みになる時間が減っているということだ」
颯は兆の観察眼に、改めて感心した。兆は文書の流れを見るだけで、帝のご体調の変化まで読み取る。書記としての経験が、そこまでの眼を作り上げている。
颯もまた、自分の机の上の文書を改めて見回した。確かに、御前で読まれた印のある文書が、ここ数日、明らかに減っている。決裁の判を押す手が止まりがちなのだ。書記は、こうした細部から朝廷の中の出来事を読む。表に出る情報よりも、文書の流れの方が、しばしば真相を語る。
* * *
数日後、父が珍しく早く帰ってきた。顔色が沈んでいた。
「颯。今日、朝廷で大事な話があった。まだ公にはされていないが、いずれ出る話だから、おまえには伝えておく」
「はい」
「帝のご体調が、かなり悪い。侍医たちは手を尽くしているが、見通しが明るくない。万一のときに備え、朝廷内で段取りが進められている」
颯は言葉を失った。文武天皇。七〇一年に大宝律令を施行された若き帝。颯が書記として仕事を始めた頃の、時代の象徴のような方である。その方が、二十代半ばで身罷られるかもしれぬ。
「万一のときは、どなたが次に立たれるのですか」
「皇子はまだ幼い。首皇子は、お生まれになってまだ数年だ。帝の母上、すなわち阿閇皇女が、中継ぎとして位に就かれる可能性が高い」
「阿閇皇女さまが」
「お人柄も政の理解もおありだ。難しい時期を支えてくださるだろう」
颯は頷きつつ、胸の中に重い沈黙を覚えた。律令が始まって六年。ようやく軌道に乗りかけた時代が、帝のご崩御で一度揺らぐ。それを颯は、書記として見届けることになる。
夜、颯は灯の下で、父の言葉を反芻した。万一の備え。中継ぎ。これまで紙の上でしか見なかった律令の継承の規定が、現実の事態として動き出そうとしている。律令は、こうした非常の時にこそ、その真価が試される。文武天皇の即位の時、大宝律令はまだ整っていなかった。今は違う。今、もし帝が崩御されれば、律令の規定に沿って静かに継承が行われる。それが律令国家の強さである、と颯は信じたかった。
* * *
颯はその夜、咲耶の家を訪ねた。家の奥で、咲耶は薬草の整理をしていた。
「颯、顔色が悪いよ。何かあったの」
「帝のご体調が、かなり悪いらしい。父が教えてくれた」
咲耶は手を止め、しばらく沈黙した。
「帝は、おいくつだったかしら」
「二十五。若い方だ」
「若すぎる。薬で何とかならないのかしら」
「侍医たちが手を尽くしていると聞く。だが、見通しは明るくない」
咲耶は小さな息を吐いた。
「人の命は、薬ではどうにもならないときがある。祖父もそう言っていた。薬は天の流れを後押しすることはできても、天の意志を変えることはできない、と」
「天の意志か」
「祖父はそう言っていた。それが正しいかどうかは分からないけれど、薬師として長く人を診ていると、そういう感覚になるのかもしれない」
颯は咲耶の言葉を、重く受け止めた。咲耶の祖父が何十年もかけて身につけた感覚。それは、宮中の侍医たちも同じ思いを抱いているのかもしれない。
咲耶は颯の顔を見て、静かに言った。
「颯。あなたは書記だから、御崩御の後の文書をたくさん書くことになる。覚悟しておいて」
「ああ。葬儀、即位、地方への通達。書記部屋は徹夜になるだろう」
「無理はしないで。帝のご病気で薬がどうにもならぬのと同じで、書記もまた、自分の体を壊しては仕事を続けられなくなる」
咲耶のその言葉に、颯は深く感謝した。書記の体を気遣う者が、家だけではなく薬屋にもいる。それが、颯の支えだった。
* * *
慶雲四年六月十五日。ついに、その日が来た。文武天皇が御崩御された。朝廷は深い悲しみに包まれた。二十五歳の若き帝のご生涯が、あまりに早く閉じたのである。
颯は書記部屋で、その報を受けた。書記たちは皆、言葉を失った。颯もまた、筆を握る手が止まった。
兆がゆっくり立ち上がり、皆に向かって言った。
「泣いている暇はない。これから山のような文書が流れる。御葬儀の手配、新帝の即位の準備、地方への通達。すべてを、我々が書く。泣くのは、夜に一人でするがいい」
兆の声は硬かった。だが、その硬さの中に、深い悲しみが潜んでいた。兆は誰よりも大宝律令の時代を見てきた人である。文武天皇への思い入れは、誰よりも強かったはずだ。
颯は頷き、筆を握り直した。泣く時間はない。記録する。それが、今、自分にできることのすべてである。
書記部屋は、その日のうちに、別の場所に変わった。普段は静かに筆が動く部屋が、文書の山と人の出入りで、半ば修羅場のようになった。颯は自分の机に、御葬儀の手順の書類を山と積まれた。一枚一枚、字の歪みを許さず、丁寧に清書していく。指が痺れ、目が霞み、墨の匂いで頭が重くなる。だが、止めるわけにはいかなかった。一つの時代の幕が下りる文書を、自分は今、書いている。
夕方、ふと顔を上げると、兆が机の脇に立っていた。
「颯。少し休め。一度に多く書こうとすると、字が崩れる。崩れた字は、後の世の人に届かぬ」
颯は頷き、筆を置いた。
窓際に立つと、夕日が藤原京の屋根を赤く染めていた。屋根の一つひとつの下に、それぞれの暮らしがある。皆が今夜、帝の御崩御の報を受け止めて、それぞれの夜を過ごす。一人の若き帝が、今日、この夕日の向こうに旅立たれた。颯は心の中で、深く頭を下げた。そして、もう一度机に戻り、筆を取った。
* * *
御葬儀の準備は、急ピッチで進められた。颯もまた、関連の文書を朝から晩まで書き続けた。神事の手順、参列者の名簿、地方への訃報の通達。一つひとつを、失敗のないよう丁寧に書いた。
ある日、父が書記部屋に入ってきた。父もまた、顔が疲れていた。
「颯。阿閇皇女さまが、正式に御位に就かれることが決まった。元明天皇と、称し奉る」
「はい」
「新帝のもとで、律令はさらに発展する。文武天皇の御志を継がれる形で、藤原不比等さまが中心となって政を進められるだろう」
「不比等さまが、さらに力を持たれますね」
父はしばらく沈黙した。それから、低く言った。
「不比等さまのお力が強くなるのは、時代の流れだろう。だが、律令は一人の手で作るものではない。皆の手渡しで、少しずつ育てていくものだ。そのことを、おまえは忘れるな」
颯は深く頷いた。父の言葉には、いつも大事なことが込められている。律令は皆の手渡し。颯のような名もない書記の手も、その一部である。颯はそのことに、静かな誇りと、同時に重い責任を感じた。この考えを、生涯の指針にしようと決めた。
* * *
七月、元明天皇が正式に即位された。四十七歳でのご即位。中継ぎの帝として、難しい時期を支えられる立場である。颯は即位の儀式に関わる文書の整理を担当した。
儀式の日、藤原京の朝堂院は厳粛な空気に包まれていた。颯は書記として、儀式の詳細を記録する役目にあった。元明天皇の姿を、遠くから見た。落ち着いた、しかし内に強さを秘めた方であった。
儀式の後、兆が颯の隣で低く言った。
「新しい時代が始まる。中継ぎとは言え、元明天皇のご治世は長くなるかもしれぬ」
「長くなると」
「首皇子がご成長なさるまで、ある程度の年月がかかる。その間、元明天皇が帝位を支えられる。そしておそらく、次の段階で遷都の話が出る」
「遷都」
「藤原京は狭い。新しい国のかたちには、新しい都が要る。これは私の推測だが、数年のうちに、そういう話が動き出すだろう」
颯は兆の見通しに驚いた。だが、考えてみれば理に適っている。大宝律令を施行してから六年。律令国家が本格的に動き出した今、それにふさわしい都が必要になる。
颯は兆と並んで、朝堂院の脇道を歩いた。秋の入り口の風が、二人の袖を揺らした。
「兆さん。遷都が動き出すとして、自分たちはどう書記の仕事をすればよいのですか」
「変わらぬ。遷都が決まれば、その手配の文書を書く。新しい都に移れば、新しい都で書く。書記の仕事は、場所が変わっても、本質は変わらぬ」
兆の言葉は、颯にとって、一つの大きな安心であった。場所が変わっても、書記は書記であり続ける。
* * *
年の暮れ、颯は自分の記録を開いた。激動の一年であった。
「慶雲四年。六月十五日、文武天皇御崩御。御年二十五。大宝律令を施行された若き帝。そのご生涯が、あまりに早く閉じた。律令の船出を見届けられた方が、船がようやく動き出したところで、この世を去られた」
「七月、阿閇皇女さまが元明天皇として即位。四十七歳。中継ぎのご即位であるが、難しい時期を支えられる重責を担われる。藤原不比等さまを中心とする政体が、本格的に動き出す」
「父は言った。律令は一人の手で作るものではない。皆の手渡しで、少しずつ育てていくものだ、と。不比等さまのお力が強くなっても、律令の根幹は変わらぬ。皆で育てていくもの。この言葉を、自分は生涯の指針にする」
「兆さんは見通されている。いずれ遷都の話が出るだろう、と。新しい律令国家には、新しい都が要る。自分もその動きを、書記として見届けることになる」
「咲耶は言った。薬は天の流れを後押しすることはできても、天の意志を変えることはできない、と。鹿皇翁のお言葉だそうだ。帝のご崩御の前に、侍医たちも同じ思いを抱いたのではないか。人の命の儚さを、今年ほど感じた年はない」
「御葬儀の手配、新帝の即位の準備、地方への通達。書記部屋は休む間もなかった。だが、その忙しさの中で、自分は一つの時代の終わりと、一つの時代の始まりを、文字として書き残した。これこそ、書記の務めである」
「文武天皇のお姿を、自分は遠くから一度だけ拝見したことがある。大宝元年の元日の儀式で。若く、凛とされていた。そのお姿を、自分は記憶の中にとどめておく。自分の記録が、そのお姿を後の世代に伝える糸となるように」
颯は筆を置き、しばらく目を閉じた。文武天皇の若いお姿、阿閇皇女から元明天皇となられた方の落ち着いたお姿、不比等の鋭い眼差し、兆の頑固な背中、咲耶の澄んだ声、父の沈んだ顔。慶雲四年の一年が、すべて瞼の裏を流れていった。颯はもう一度筆を取り、最後の一行を書き加えた。
「時代は終わらず、続いていく。書く者は、その続きを書き続ける。それだけが、書記の務めである」
颯は記録を閉じた。窓の外には、慶雲四年の冬の星が、静かに輝いていた。大きな時代の区切りの年であった。だが、時代は一つの死で終わるものではない。手渡されて、続いていく。父の言葉の通りである。
颯は灯を消した。藤原京の夜は、いつもより少し寒く感じられた。
だが、その寒さの中に、新しい春を待つ、確かな気配があった。




