第007話(706年)病の気配
慶雲三年の春。藤原京では、春先から咳の病が流行り始めていた。最初は数人の病人の話だったが、三月頃から急に数が増え、街のあちこちで咳き込む声が聞こえるようになった。重症化する者は少なかったが、老人と赤子の中には亡くなる者も出始めていた。
颯は二十三歳。書記部屋でも、数人が咳き込みながら仕事を続けていた。兆もまた、時折咳をしていた。
「兆さん、無理はしないでください」
「この程度の咳は、何ということはない。若い頃からの持病みたいなものだ」
「しかし、病が流行っているときは、軽い咳でも油断できません」
兆は颯の気遣いに、笑って応えた。
「心配してくれるのはありがたい。だが、書記の仕事は止まらぬ。咳をしながらでも書く。それが務めだ」
颯は兆の姿勢に頷いた。確かに、書記部屋の仕事は待ってくれない。地方からの報告、朝廷の覚書、地方に送る通達。毎日、大量の文書が流れ込んでくる。だが、颯は兆の体が心配だった。
書記部屋の窓は、春の陽が射し込んでいるのに、なぜか冷たい風が抜けていた。誰かが咳をするたびに、その音が部屋の隅まで響いた。颯は自分の机の脇に水を入れた小さな碗を置き、時折喉を湿らせた。咲耶から以前聞いた話で、喉を潤しておくと病をもらいにくい、と教わっていた。書記の仕事は声を出さぬ仕事だが、紙と墨の埃で喉が乾く。今年はそれが命取りになりかねぬ、と颯は感じていた。
昼休みの間に、篠が颯の机の脇に来て、低く言った。
「颯。地方からの咳の病の報告を、おまえの手でまとめてくれぬか。私の手は他の文書で塞がっている」
颯は頷き、地方の文書を集め始めた。各国の咳の流行の状況、死者の数、薬の不足。報告書の中身は深刻だった。颯はそれを書記の言葉に整えながら、こうした文書こそ朝廷を動かす力になる、と感じていた。
* * *
颯はその日の仕事を終えた後、東市の咲耶の薬屋に立ち寄った。薬屋の前には、いつもより長い列ができていた。咳の病が流行っている今、薬を求める客が急増していた。
咲耶は慌ただしく動きながら、客に薬を渡していた。一人一人に説明する時間は少ない。だが、咲耶はできる限り丁寧に、症状を聞き、適切な薬を選んでいた。
颯は店の脇で待ち、客が一段落するのを待った。
「忙しいな」
「ええ。今年の咳の病は、思ったより広がっている」
「街ではどのくらい広がっているのだ」
「正確には分からない。けれど、私の店に来る客の話を聞く限り、どの家にも咳をする人が一人はいる」
颯は眉をひそめた。どの家にも一人。それは相当な広がりである。
「重症になる者はどのくらいいる」
「赤子と老人はよくない。それ以外の大人は、ほとんどが自然に治る。けれど、仕事は休まなければならないし、咳が止まらないと夜も眠れない」
「朝廷では、まだ大きな対応は取られていない」
「役所は動きが遅いからね。街の人は、自分で薬を買って対応するしかない」
咲耶の口調には、わずかな苛立ちが混じっていた。民の病は、役所の動きを待ってはくれない。
颯は店先に並ぶ人々の顔を見回した。母親に背負われた幼児が、力なく咳をしていた。年老いた女が、息を切らしながら順番を待っていた。律令の文書を書く颯の机には、これらの顔は届かない。届くのは、地方からの「咳の病、流行る」という一行の報告である。一行と、目の前の顔。その距離を、颯はこの日ほど深く感じたことはなかった。
咲耶は颯に向かって、低く言った。
「颯、あなたが書いている文書、もし薬の配布の命が出るなら、一日でも早く出してほしい。一日早ければ、助かる命がある」
「自分にできるのは、上にその声を届けることだけだ。だが、必ず届ける」
咲耶は短く頷き、また次の客に向き直った。
颯は店を出る前に、咲耶に小さな声で言った。
「今夜、薬の配布の文書を整える。早ければ数日中に、街にも薬が回るはずだ」
「ありがとう。一日でも早く」
その短いやり取りが、颯の胸に重く残った。書く一字が、人の命に触れる。それを実感した夏の入りの一日であった。
* * *
夜、家に帰ると、父がやや深刻な顔で颯を待っていた。
「颯。朝廷でも、咳の病のことが話題に上った。まだ正式な対応は決まっていないが、近いうちに、薬の配布や祈祷の命が出るだろう」
「街ではすでに、どの家にも一人は病人がいると聞きました」
「役所の対応が遅れているのは、私も分かっている。だが、帝の御前で正式な対応を決めるためには、一定の時間がかかる。それが律令の枠組みだ」
父はしばらく沈黙し、それから続けた。
「おまえも、気をつけよ。書記部屋で感染する可能性もある」
「兆さんが咳をしています。ですが、大したことはない、と言って休もうとされません」
「兆は頑固者だ。だが、その頑固さが書記部屋を支えてきた。尊敬しつつ、気を遣え」
「はい」
父はそれ以上は言わなかった。颯は父の心配に頷きつつ、自分も咳の病に対する備えをしておくべきだと考えた。
* * *
翌日、颯は再び咲耶の薬屋を訪ねた。
「咲耶。兆さんのための薬を、作ってもらえないか」
「兆さん、体調悪いの」
「軽い咳だが、年を取られているし、無理をされている。予防にも治療にもなる薬を、お願いしたい」
咲耶はしばらく考え、それから棚から薬を取り出した。
「これ、祖父が咳にいいと言っていた薬。桔梗と杏仁と甘草を合わせたもの。体に優しいから、兆さんでも大丈夫だと思う」
「ありがたい」
「お金はいらない。颯とは長い付き合いだから。薬代を請求しないのは私の気持ち」
「それでは気が引ける」
「気にしないで。その代わり、兆さんに伝えて。咲耶からの薬だから、ちゃんと飲んでください、と」
颯は頷き、薬包を受け取った。咲耶の気持ちが、紙の包みの中にしっかりと込められていた。
* * *
書記部屋に戻り、颯は兆に薬包を渡した。兆は薬包の匂いを嗅ぎ、少し驚いた顔をした。
「咲耶さんからか」
「はい。兆さんに飲んでほしい、と」
「ありがたい。気持ちだけでも効く」
兆は薬包を机の引き出しにしまい、颯を見た。
「颯。おまえはいい仲間を持ったな」
「兆さんもまた、自分にとって大事な方です」
「そう言ってもらえると嬉しい。だが、いつか自分もいなくなる。そのときのために、おまえは早く一人前の書記になれ」
颯は兆の言葉に、胸を突かれる思いがした。兆がいつかいなくなる日。それは必ず来る。だが、今はまだ、その日を考えたくない。
「まだまだ、兆さんに教わりたいことが山ほどあります」
「教わる姿勢は、一生続くものだ。自分もいまだに、父や先輩から学んだことを反芻しながら書いている。学ぶことに終わりはない」
颯はその言葉を、心に刻んだ。教わる姿勢を持ち続ければ、書記は何歳になっても伸び続ける。逆にそれを失えば、その日から書記は止まる。兆は六十を越えてもなお、その姿勢を保っている。颯もまた、そうありたいと思った。
兆は薬の包みを一つ取り出し、湯で溶かし始めた。その手つきは、病人のそれではなく、しっかりとしたものだった。だが颯は、兆の手に刻まれた年月の影を、はっきりと見ていた。
翌朝、書記部屋に入ると、兆はもう机に向かっていた。咳は、前日より少し落ち着いているように見えた。颯は静かに兆の隣に座り、自分の仕事を始めた。兆は筆を止め、颯の方を見て言った。
「咲耶さんの薬、よく効いた。一晩でこれだけ違う。礼を伝えてほしい」
「咲耶も喜びます」
兆はしばらく沈黙し、それから低く続けた。
「颯。書記の仕事は、自分一人ではできぬ。隣に座る者、家にいる者、街にいる者、皆の手で支えられている。薬一包にも、書く字一字にも、誰かの手が触れている。それを忘れずに、筆を持つことだ」
颯は深く頷いた。兆の言葉は、いつも、書記の根の部分に触れてくる。隣に座る者、家にいる者、街にいる者。書記の机に届く一字一字は、無数の手を経てくる。そう思うと、書く字に対する責任が、重さを増す。颯はその重さから逃げず、むしろ胸に受け止めて筆を持とうと決めた。それが、書記としての一段深い覚悟であった。
* * *
夏の初め、ようやく朝廷から薬の配布と祈祷の命が出た。街の対応は遅かったが、ないよりはましである。咳の病はやがて少しずつ収まっていった。ただし、その年の死者は、老人と赤子を中心に、予想より多かった。
颯は夕方、藤原京の南の寺に立ち寄った。寺では、病で亡くなった者たちのための祈祷が続いていた。僧侶たちの読経の声が、夕日の中に静かに響いていた。
颯は境内の隅で、しばらく手を合わせた。亡くなった者の顔を具体的に知っているわけではない。だが、咲耶の店に来ていた客の中に、助からなかった者も含まれているはずである。その人々のために、颯は祈った。
帰り道、颯は月を見上げた。中秋はまだ先だが、淡い半月が空にかかっていた。
「変わらぬものが、あってよかった」
去年、咲耶が口にした言葉を、颯は思い出した。月は変わらない。山も、川も、変わらない。だが、人の命は短い。病一つで、多くの命が消える。その儚さと、自然の不変とが、今日の颯の胸の中で静かに重なった。
寺の境内を出ると、参道の脇に小さな子供が一人、母らしき女に手を引かれて歩いていた。子供はしっかりした足取りで、咳もしていなかった。颯はその姿を見て、静かに息を吐いた。亡くなった命と、生き残った命。両方が、同じ町の中で、同じ月の下で、続いていく。書記の仕事は、その両方を、同じ筆で記録することだった。
家に戻った颯は、灯をつけずに、しばらく窓辺に座っていた。空には半月。その光は、冷たいが、確かに地上のすべてを照らしていた。亡くなった人々と、生き残った人々。書記の自分と、薬師の咲耶。律令と、街の声。すべてが、同じ月の下にあった。颯はそのことを、初めてはっきりと感じた夜であった。
* * *
年の暮れ、颯は自分の記録を開いた。
「慶雲三年。咳の病が流行る。街のどの家にも、一人は病人が出た。役所の対応は遅く、街の人は自分で薬を求めて対応した。老人と赤子を中心に、少なくない数の死者が出た」
「咲耶は薬屋で、多くの患者を支えた。祖父の残した処方を、一つひとつ確かめながら、街の人を助けた。咲耶の仕事は、役所の律令とは違う、街に直接触れる仕事である。その違いを、今年よく感じた」
「兆さんも咳をしていたが、咲耶の薬で快方に向かった。兆さんに言われた。自分もいつかいなくなる。そのときのために、早く一人前の書記になれ、と。その言葉が、今も胸に残っている」
「父も心配してくれた。朝廷の対応が遅れることと、律令の仕組みの限界を、父は冷静に説明してくれた。完璧な制度はない。動き出すまでに時間がかかる。それが法の宿命である」
「病の流行は、人の命の儚さを、街中の人に思い知らせた。同時に、街の人同士が支え合う姿も見た。薬屋に並ぶ人の列、近所で看病する人々。律令が届かないところを、街の人の手が埋めている。これもまた、この国のかたちなのだろう」
「薬一包が、人の生死を分けることがある。律令には書けぬ、しかし確かにある真実である。書記は、こうした真実をも、自分の記録に書き留めておかねばならない。公の文書には現れぬ、市井の救いを」
颯は筆を止め、しばらく考えた。慶雲三年の冬は、まだ寒い。だが、その寒さの中で、自分は確かに何かを学んだ。書記としても、人としても。
颯は記録を閉じ、灯を見つめた。慶雲三年。病に追われた一年。だが、その中で見たもの、学んだことは少なくない。来年はどんな年になるか。まだ誰にも分からない。




